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増山様 大阪の髙田(たかだ)と申します 丁寧なご説明ありがとうございました さて各天守台は上部が飛ばされており、天端の広がりは特に天正期においてははっきりしない部分があるかと思います。 ただ基底部近くでは今回のご報告によれば慶長期とやや各辺の方位が違っているようであり、小天守台もそのように見えます。縄張りをやっている人間からすると天守台以外の本丸や外側の曲輪がどこまで広がっていたか、その構成が気になるところですが現状では不明なところが多いかと思います 近世二ノ丸・三之丸の塁線もかなりいびつではありますが、そうした中に天正期天守台・小天守台の主たる方位に対応しそうな塁線部分は存在するでしょうか? また城域の広がりについて予測できることがあれば併せてお教えください よろしくお願い申し上げます 髙田 |
発表を大変興味深く拝見しました。 刻印についてお伺いします。ページK-4の写真4ですが、発表の中でもレジメの中でも触れられていないようですが。この刻印を拝見しますと形状から慶長5年以降、直後の物のように感じます。点彫りをしてその間をさらうという作業があまりされていないこと、稚拙感を感じることから伏見城の大塚・小山石切丁場に残る刻印とその点が似ているように感じます。大きさはどれだけでしょうか。 さてこのような刻印は全部で何件ぐらい見つかっているのでしょうか。そして石組み内部に組み込まれ通常見えなくなっているかどうか、お教えください。 ちなみに、伏見城の指月城、木幡山城(主に天主付近)に表面観察だけですが数名で刻印が残っていないか探しましたが慶長初期の物は見つかりませんでした。残念石はあるようです。同じ徳川の城ですので比較したく思っています。 |
城郭談話会の堀と申します。 発表を興味深く拝聴いたしました。 今回のご発表では大きく、3つの時期の遺構・遺物に、全体の基本層序があればお示しいただけますでしょうか。どのように今川期の遺構が埋められ、徳川・中村期の石垣が形成されたのか、ご教示いただければ幸いです。 |