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L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.39 )
日時: 2021年08月20日 01:45
名前: 西村 和夫 [ 返信 ]
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前田 利久 氏のご報告です。

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Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.107 )
日時: 2021年08月27日 01:50
名前: 山本浩之 [ 返信 ]
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中城研の山本です。
本番でで質問しようと思っていたのですが、同内容を予めこちらでも質問しておきます。申し訳ありません。

1.豊臣政権によって、その政策の一環として、駿府城が築城されたと言うことですが、素人目にはごく最近まで敵対・緊張状態にあった家康を優遇し、政権内に取り込むのはやや拙速な気もいたします。秀吉がそこまでして家康を優遇した理由・駿府築城を急いだ理由はどのようにお考えですか?

2.本当に失礼だとは思いますが、あえてお尋ねすると、そこまで現況遺構の中村氏説は否定しきれるものなのでしょうか。発見された遺構と秀忠日記の記述との整合性は確かに強いように思えるのですが、あの遺構が小天守台じゃなかったらどうなのか。また、大天守とされるものと小天守とされるものに時期差があって、例えば大天守とされている遺構が小天守より後だったらどうなるか、とか。いろいろな可能性が考えられるわけです。その際に、文献資料上で小天守があるのは確実で、その背景として大天守の存在が当然想定されるわけですけれども、それをすぐ現状認められる遺構と引き合わせるのは危険だと考えるのですが、いかがでしょうか。


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.158 )
日時: 2021年08月29日 07:27
名前: 佐藤佑樹 [ 返信 ]
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前田様

ご報告拝聴いたしました。
滋賀県の佐藤と申します。

近年、駿府城の調査成果からも注目されている『家忠日記』について、恥ずかしながら知らない部分が多く、今回の内容は大変勉強になりました。

ご報告の中で、「御屋敷普請」という記述から、天正13年築城説に否定的な立場をとられていたかと思います。
確かに、資料集の表1を拝見しておりましても、「城」という表現が使われるのは天正15年からと理解しました。
ただ、天正15年以降も「屋敷」という記述は登場しているようですね。
これは駿府城の、例えば御殿等があるような場所を「屋敷」、堀や石垣等の防御施設の部分を「城」と呼び分けているのでしょうか。
ご教示賜れますと幸いです。


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.162 )
日時: 2021年08月29日 08:50
名前: 田崎茂 [ 返信 ]
前田様
ご報告ありがとうございました。
天正13年の駿府の屋敷普請と天正15年~17年の駿府城普請の間には連続性はない、また天正15年の駿府城普請は、ほぼ秀吉の全面的支援のもので行われた、ということを文献から丹念に考察頂いており、大変勉強になりました。ありがとうございます。
石垣普請の技術を当時の家康が持っていたか、ということについては多分討論会の中で色々と議論になると存じます。
私のご質問は二つです。少しご専門から外れる部分もあるかも知れませんが、ご容赦頂ければと思います。

1.石垣を積む技術を持った集団(ほぼ穴太?)をもし当時の家康が抱えていたとして(例えば天正13年に甲府にに派遣するということも、仮にそうだったとして)、当時の家康領国にそれだけの技術集団の需要があったのでしょうか。家康、秀吉の領国では家臣も含めて様々な石垣作りの城が作られており、常にそれだけの技術が求められていたのではと思います。確か石垣山の築城の際も穴太35名の派遣があったとのことです。これだけの集団を常に養っていけるだけの需要が当時の家康領国内にあったとお考えでしょうか。今思い浮かばれる中で結構なので、お考えをお聞かせ頂けるとありがたいです。

2.後々の話になりますが、天正期の駿府城築城がほぼ全面的に秀吉主導で行われたとして、慶長期に家康がその上に新たに城を築き直したということになりますが、これは話が飛躍しますが、後年大坂夏の陣後、秀吉築城の大坂城を利用せず、全面的に築き直したことと同じなのでしょうか。駿府の人たちは天正期駿府城が秀吉プロデュースで作られたことを良く知っていて、それを払拭するために全面的に慶長期に今度は家康主導で築き直したと考えることは出来ないのでしょうか。


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.170 )
日時: 2021年08月29日 12:48
名前: 高瀬暁男 [ 返信 ]
前田様

兵庫県の高瀬と申します。天正期の駿府築城はとても関心のあるテーマでしたが、前田様の報告は文献の内容を詳細に検証、考察されていて、大変勉強になりました。
素人的な質問で恐縮ですが、天正13年の普請について『家忠日記』は一貫して「屋敷」の普請と記述していますが、塀を巡らせただけの屋敷ではなく、小規模ながら堀や土塁(あるいは石垣)を巡らせた単郭の城館だった可能性も考えられないでしょうか? 時代が下るので同列には扱えませんが、家康創建の慶長期二条城も当時「二条御屋敷」と呼ばれていたことが複数の一次史料で確認できます。単郭の城館でも「屋敷」という呼称が用いられたことがあるようです。
(ただし、仮に家康の「駿府屋敷」が単郭の城館だったとしても、それが後の駿府城に直結するものではないと考えています。)

高瀬暁男


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.182 )
日時: 2021年08月29日 22:02
名前: 前田利久 [ 返信 ]
> 佐藤佑樹 さんへ

ご質問ありがとうございました。私なりの見解を述べさせていただきます。ご指摘の、家康の駿府屋敷普請完了後の「屋敷」文言についてですが、確かに天正15年10月に、「屋敷家たて候」とありますが、家康の駿府屋敷普請との相違点は「御屋敷」と「屋敷」、「普請出来候」と「たて候」という表記の違いで、「御」と「普請」は、家康の屋敷に対する敬意と規模を表していると思います。後者の「屋敷」は、家忠の駿府における屋敷を意味するものと思われ、10月の記載では、「戸田三郎右親子」がそこを訪ねていますので、私宅と考えてよいと思います。因みに、これは平野さんのご報告にもリンクするかと思いますが、家忠は駿府城普請中の16年11月に地元の深溝の屋敷(城)において、茶の湯のための座敷を道具までこだわって設けていますので、駿府に居を移すという考えはなかったと思います。


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.183 )
日時: 2021年08月29日 22:19
名前: 前田利久 [ 返信 ]
> 高瀬暁男 さんへ

ご意見ありがとうございました。仰る通り、家康の駿府屋敷は単に塀で囲ったような屋敷ではなかったと思います。これは別稿で述べたことですが、当時駿府には荒廃はしていたとはいえ今川氏の館跡があったはずで、「構え」と称した幾重にもめぐらされた堀の中心部分を改修して屋敷を構えたものと考えます。あれほど堀普請に動員された松平家忠が堀普請には関与せず、「石引き普請候」と、石材の移送を行っていることから、虎口の石積みによる強化は行われたものと思います。


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.184 )
日時: 2021年08月29日 23:43
名前: 高瀬暁男 [ 返信 ]
> 前田利久 さんへ

前田様

ご返信ありがとうございます。やはり今川氏の館跡に屋敷を構えたという点が考察のポイントになるのですね。前田様の別稿も読んで勉強致します。ご教示ありがとうございました。

高瀬暁男


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.186 )
日時: 2021年08月30日 01:34
名前: 前田利久 [ 返信 ]
> 山本浩之 さんへ

 このたびは大変お世話になりました。ご質問の件、1・2についてまとめて述べさせていただきます。確かに新発見の大小の天守台は、その規模から家康期のものにしては大きすぎるという印象を受けます。小天守台こそ家康期の大天守ではという意見もありますが、小天守台の西側に面となる石垣が埋もれているならば、中村の時代に大天守と連結させたということになるでしょう。仮にそうだとしても一氏が、家康が築いた天守や石垣を再利用することはないと思います。宮武氏は、あくまでもこの二つの天守台は徳川が自力で築いたと主張されていますが、それでは中村期の天守台はどこにあって、あの金箔瓦をどう位置付けたらよいのでしょうか。一次史料である『家忠日記』によって家康期の駿府城に大小の天守が存在したことは疑う余地はありません。文献だけで検討した場合、小天守は小さくて2重、大きくて3重となるでしょう。これに対応する大天守は3重4階、もしくは5重が想定されましょう。いずれにせよ総石垣のうえにこれだけの天守を自力で築くことは、これまでの家康領国内の城跡からは想定できず、さらに『当代記』の「秀吉公、入魂せしめ給い」から、少なくとも秀吉からの多大な関与は否定できません。
 もう一つ注目したいのは、家康は秀長と同格に位置付けられただけでなく、天正14年に酒井が従四位下に叙され、井伊・榊原・大久保・鳥居・本多忠勝・同広孝も従五位下に叙任されて石田三成や中村一氏と同列となり、井伊直政においては16年に侍従にまで昇格して石田や中村よりも上位となったことです。つまり徳川丸抱えの優遇です。ここから対後北条、奥州を考えたとき、何としてでも家康との決戦は避けて取り込みたいという秀吉の思惑が感じられます。後北条氏に対しても、同盟関係にある家康を通じて臣従化させようとしたわけで、家康に二心のないようにするには破格の待遇で取り込み、親族同様に扱うことによって自他ともに豊臣大名と認知させようとしたのではないでしょうか。
 駿府城については、家康の築城のために破格の援助をしたとすればこれもまた大優遇となるでしょうが、そもそも駿河に城を築きたかったのは秀吉自身だったのではないでしょうか。浜松と小田原の中間に位置する国府駿府の地に豊臣の城を出現させ、そのシンボルタワーとなる天守を通じて豊臣政権の強大さを知らしめたかったのではないでしょうか。このため家康の後に入った中村は、秀吉肝いりの城をそのまま拝領することになったと思います。
 ついでながら、後北条氏滅亡後に家康が新たな拠点とした江戸城は家康領国のど真ん中に位置しますが、箕輪を任された井伊は石垣を用いました。これは家康の意向でしょうか、秀吉の意向でしょうか。


Re: L. 天正期の駿府築城に関する文献的考察 ( No.188 )
日時: 2021年08月30日 23:22
名前: 前田利久 [ 返信 ]
> 田崎茂 さんへ

このたびは大変お世話になりました。とても貴重な経験をさせていただきました。
 さて石工衆の件ですが、宮武氏の「召し抱えたのではなく、請負制であった」というご指摘は、なるほどでした。確かに石工という特殊な職人は地方では需要もないし、技術も向上しません。そうなると、徳川に石垣を積む技術があったか否かという議論は無用となりましょう。天守台は上物である天守に合わせて築くわけですが、巨大で豪壮な天守を築くための大工をはじめ、左官・瓦職人たちに加え石工まですべて上方から請負によって調達したことになりますかね。現代では家を建てるときに関連する職人は大工(工務店)に一任しますが、当時も効率化を図るため大工頭のもとにいくつかのチームが構成されていたのでしょうか。
 次に天守台の件ですが、天正期の天守台は巨大ですが、それを丸呑みするかのようなさらに巨大な慶長期の天守台。やはり豊臣の城のシンボルは、抹消せねばならなかったのでしょう。


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