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M. 徳川家康と城 — 浜松移城 ( No.37 )
日時: 2021年08月20日 01:44
名前: 西村 和夫 [ 返信 ]
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平野 明夫 氏のご報告です。

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Re: M. 徳川家康と城 — 浜松移城 ( No.137 )
日時: 2021年08月28日 17:35
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
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和城研の伊藤です。一つ質問をお願いします。
 浜松移城が「家康の意向であった」という事と「信長の意見があった」というのは、共存できるようにも思います。討論テーマとも関わる事かと思いますが、元亀期の浜松城に石垣があったとすると信長からの技術援助のようなものが考えられると思います。その場合に、立地に関する意見があってもおかしくはない。同盟者というのは、劣位でなく対等であっても意見を聞かない/言わないということはないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。


Re: M. 徳川家康と城 — 浜松移城 ( No.164 )
日時: 2021年08月29日 09:14
名前: 田崎茂 [ 返信 ]
平野様
ご報告ありがとうございました。
「松平記」「三河物語」の記述などをもとに、見付から浜松に本拠を変えたことが、信長の意見に従った訳ではなく、城と屋敷の一体化やその他の理由から家康自らが判断して浜松を本拠にしたということ、大変興味深く拝読と視聴させて頂きました。ありがとうございます。
ご質問です。
「当代記」の浜松城へ家康が移ったというところで、「遠三之輩、何も在浜松す、」という記述があり、これが家忠日記の記述とは食い違うということでしたが、この本拠地に家臣団が家康本城の地に移り住む、ということは、この後の家忠日記の記述で、浜松のこの後や駿府において、そのような起こったかどうかは読み取れたりしないでしょうか。宜しくお願い致します。


Re: M. 徳川家康と城 — 浜松移城 ( No.165 )
日時: 2021年08月29日 09:48
名前: 三島 正之 [ 返信 ]
平野さんへ

 中城研の三島です。史料批判を交えたご報告、大変興味深く拝聴させて頂きました。
 見付城では居住場所と城が分かれていたので、これらを一体化するために浜松城に
 移城したとのことですが見付城では、なぜ城内に居住場所を設けることが出来なか
 ったのでしょうか?見付城の古図や地形を見ても城内には城主屋敷を設けるスペース
 が十分に確保出来るように見えるのですが?


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