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中城研の山本です。今回はご無理をして頂きありがとうございました。 一つ質問があります。大嶌様の論考で目立つのは泉頭築城に対する諸大名の積極性です。泉頭の事例は、正確には天下普請ではないけれど、そのままことが進んでいたら、家康の考えを離れて天下普請のようになってしまった自体は十分想定できると思います。 このような状況は僕のような文献素人には従来の天下普請のイメージと大きく異るところがあるのですが、こういった「自分から仕事を取りに行く」ような事例は他の天下普請等でも認められるものなのでしょうか。 少し気になったので質問させていただきました。答えられる範囲で良いので、お話して頂けるとありがたく思います。 |
千葉の木地谷と申します。 この大嶌さんの論考で駿府城よりも後に家康の隠居計画があったことを初めて知り、興味深く拝読しました。質問は2件です。 先の山本さんの質問と若干被りますが、藤堂や細川は崇伝を伝って家康の意向や周辺の情報を収集しようとしているのに関わらず、手伝普請を申し出るなど家康の不興を買いかねない動きをするなど藤堂や細川の行為には矛盾を感じます。そこまで家康に忖度する必要があったのでしょうか。大嶌さんのお考えをうかがえればと思います。 2件目 レジュメで「家康は将来を見据え方向性を見定めようとした」とありますが、(翌年には亡くなりますが)家康にはどの様な将来のプランニングがあったのでしょうか?。またそれを示すような史料があるのでしょうか? 併せてお考えをいただければ幸甚です。 |
大嶌様 兵庫県の高瀬と申します。 私は、家康の泉頭城隠居所構想のことは池波正太郎の『真田太平記』で知り(「駿府記」や細川忠興書状を出典とした1ページ程度の下りがあります)、興味が湧いて泉頭城跡を訪ねたことがありました。城跡(中世段階の遺構)が清流で有名な柿田川湧水群のほとりに立地することに驚きました。この度の大嶌様の誌上報告は、隠居所構想の顛末と諸大名の動向が詳細に述べられていて、大変興味深く勉強させて頂きました。参考文献としてご案内頂いた論文も読んでみます。 さて、誌上報告を読み終えて、次の3点を質問させて頂きたいと存じます。 ①諸大名は、泉頭城隠居所構想や家康の日々の動向について、どのような手段で情報をキャッチしていたのでしょうか? ②中井正清が提出した絵図は、現存するのでしょうか? ③家康が湧水地にこだわったのは、「湧き水の近くで暮らすと、さらに長寿になります」というような話を誰か(天海か崇伝?)に吹き込まれていたのでしょうか?(それに類するような動機だった形跡はあるでしょうか) ‥‥ ③は学問からやや外れてしまいましたが、どうぞよろしくお願い致します。 |