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O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.35 )
日時: 2021年08月20日 01:41
名前: 西村 和夫 [ 返信 ]
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高田 徹 氏のご報告です。

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( No.72 )
日時: 2021年08月24日 02:20
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
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伊藤です。
 陣城といっても、用途(単なる駐屯地、橋頭堡、指揮所etc)も存続時間(籠城戦なのか、短期決戦を想定しているのか)も異なる可能性があるものの間に、共通性を探るのは難しいですね。
 仮に、同じ築城主体が、同じ規模の兵力で築城するとき、攻め手として付城として作るときも、守り手として出城を作る場合も、同じ構造の虎口をつくったりするものなんでしょうか。
 逆に、例えば陣城に馬出を作ろうとするのは、築城プラン時に特定の軍事的状況・必要性を想定している場合なのでしょうか。例えば兵数であるとか、地形であるとか、彼我戦力差であるとか。当時の考え方が今一つピンと来ません。その辺、何か見通しというかお考えがあれば、お願いします。
 


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.82 )
日時: 2021年08月25日 07:28
名前: たかだ [ 返信 ]
> 伊藤俊治 さんへ

伊藤様 まずは御質問をいただきましてありがとうございました。今回は煩わしいので、全て「陣城」≒付城的にまとめてしまったところがあります。ただこの点については以前のセミナーで報告した時のように「臨戦化の城郭」として括るべきだと思っています。当部城などはそうした中で位置づけるべきでしょうね。ご指摘の点ですが攻める側の状況も、攻められる側の状況も千差万別でしょう。似たようなシチュエーションがあっても、一律ではないと考えます。徳川の場合、わからないところは多分にありますがそれでも統一的なプランが窺いにくいし、遠州や駿河での陣城をみているとこれで大丈夫だったのかな?とさえ思えるところがあります。これと比べると、織豊の陣城の方が斉一的のように思われます。むしろ織豊の方が特別なのではないかと。もちろん織豊とて手抜きをした陣城を構えることはありますが、時にオーバー気味な陣城を構えているところが見受けられると捉えます。堅固な陣城をあえて作る必要性と言えば、逆襲に備えることが第一なのではないでしょうか。逆襲に対して複郭構造とか横矢掛かりをつくるのは、堅固さを保持するためではありましょうが、陣城ベースでは限られた兵力で効果的に防御する→作戦上、効果的に攻城戦に兵力を配置する(節約し、他の場所にその分配分する・・・など)。こうした点を織豊はかなり意識し、意識せざるを得なかったのかもしれませんが、では徳川は? 五カ国領有自体の甲斐や信濃での事例を今回見られていませんが、駿河侵攻期まではそこまでの形で攻城戦を行う必要性は感じていなかった、規格的な縄張りではなく山城っぽい縄張りで事足りた(あるいはその方が適合した?)といった具合にも思います。徳川が特別なのか織田・豊臣が特別なのか、はたまたいずれもが特別で他が普遍的なのか? 他の大名領ごとに陣城構造を比較してみるのもヒントになると思います。
加えて陣城の比較だけで終わるのではなく、居城や支城との関係性もみていくことが大事ではないかと考えています。 


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.97 )
日時: 2021年08月25日 23:59
名前: 伊藤俊治 [ 返信 ]
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御回答ありがとうございます。
 そうですね。今回の和田剛さんの発表にもありましたが、織・豊の陣城(というか陣城戦術)には、ちょっと独特なものがあるように見えますね。逆襲や後詰めを警戒していると言うよりは、非実用的なくらいのオーバーさや、無数の陣城を連ねた包囲網で、籠城サイドに視覚的な威圧を加えているんでしょうか。石垣を用いた「見せる城」論とも通じるような気もします。
 個別の陣というよりは、連結した群で機能させるために、全体のプランニングがあって、どの部将が作るかという個性が出ないのかも知れません。今回発表された初期の徳川の陣城の個別性が高いのは、築城作業を行う部将の独立性が相対的に高いのかも。 
 また色々ご教示下さい。


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.99 )
日時: 2021年08月26日 07:20
名前: 髙田徹 [ 返信 ]
伊藤様 ありがとうございます。まだ十分わかっていないのでしょうが、浜松城の作左曲輪などは曲輪的なものだとすると出城的なものかと思います(通常の屋敷地的なものだったかもしれませんが) 浜松城の周囲には他にも同様の屋敷地(≒出城??)が複数比定されているようです。引間城の古城が近世段階は言うに及ばず、徳川国も残されてきたことも気になります。居城構造についても求心性ありきで考えるべきではないように思われます。どこまでアプローチできるかは不明ですが、家臣団との関係性も探っていけると面白いでしょうね。

Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.135 )
日時: 2021年08月28日 16:59
名前: 三島 正之 [ 返信 ]
> 髙田さんへ
 いつもながらの明快なご報告ありがとうございます。最近思うのですが「城攻め」の方法が東日本(武田・上杉・北条氏等)と西日本(織田・徳川・毛利氏等)では、大きく異なっているのではないでしょうか。東国の大名は城攻めをする時にいくつかの例外はありますが、ほとんど陣城を築いていません。おそらく短期陥落を目指す強襲戦術をとっていたと思われます。そんなことをするから「戸石崩れ」や「臼井城攻め」で信玄や謙信は泣きを見ることになりますが!それに対して西日本の大名達は陣城を築いてじっくり攻める包囲戦術をとりますね。しかし、包囲軍も城攻めが長期化すると籠城軍と同様に兵糧が欠乏します。そのため包囲軍は兵站の確保が重要な問題になります。東日本と西日本城攻めの様相が異なるのは、この兵站の問題が関係しているのでしょうかね?徳川氏はこの問題がクリアできたから陣城による包囲戦が遂行できたのでしょうかね?


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.140 )
日時: 2021年08月28日 18:48
名前: 髙田徹 [ 返信 ]
三島様 いつもお世話になります。また拙い内容にご質問をいただきまして感謝申し上げます。三河一国を支配している段階ではまだ本城との距離も近いわけですから、兵站線がそれほど伸びることもなかったであろうと思います。 陣城と伝えながらも、実際は陣所的なものであった可能性もなきにしもあらずです。吉田城においては「寺」を冠するように、中世の陣所にしばしばみられる寺院に陣を構えていた可能性もあるのではないでしょうか。長篠城の徳川方の陣所比定が正しいのならば、あのような堀と土塁の配置だけならばそれこそ長期戦の様相は見出せないようにも思います 個々の戦闘はそれぞれの状況はあったと思われますが、長篠城は比較的容易に攻め落とせるとの見込みがあったのかもしれませんね。
ただし、遠州・駿河での攻城戦を俯瞰すると、陣城らしからぬものが少なからずみられる。この点は、かなり重要ではないでしょうか。そこに東国的な様相を見出すことができるやもしれません。徳川は意外にこの頃は東国的な面も持っていたのでは?(あるいは別に述べましたがやはり織豊自体がそのあたりでかなり違っている可能性も高いのでは?) ただ小田原攻めでは豊臣さんかとして陣城を築いているし、関ケ原や大坂の陣ではそれなりの陣城を築いています。同じ徳川氏の中で城郭に対する意識が変わったと捉えることもできましょうが、変わり身の早さと言いましょうか、こだわりのなさといいましょうか、あるいは合理的と言いましょうか(笑)状況に応じて城郭を使い分けるといった見方で捉えると、徳川氏に対する城郭観はかなり変わってくるのではないかと思います。明日若干触れますが、居城についてもこうした考え、見方で捉えると納得できる部分が多いかと思われます。かつて文献史家の新行紀一氏は「徳川中心史観」という用語を唱えられましたが、従来の城郭研究では織豊系城郭に準じる「徳川系城郭」ありきの話で考えていた点があります。ところが実際にはそれが縄張り的にはなかなか掴みどころがなかった。半分冗談で申しますが、「徳川系城郭史観」的なものを今回のセミナーを期に克服することが課題となるように思います。有意義なご質問をありがとうございました。髙田


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.153 )
日時: 2021年08月29日 00:06
名前: 内野和彦 [ 返信 ]
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高田様 

発表、興味深く拝聴させて頂きました。
質問と言うよりは感想に近い話となりますが、徳川の陣城に統一的なプランが窺いにくい言う点に付きまして。
先に述べられておりますように、陣城といいましても用途の多様性や状況の違いなどによってプランは変わって当然かと思います。
必要最低限とまでは言いませんが、各々の状況に相応しい構築が為されていると考えるべきでしょうね。
反して織豊の陣城が斉一的である理由として、言い方は乱暴ですが各諸国の軍勢の寄せ集めで成り立っていることと、多方面で軍事行動を展開していた為に派遣できる軍勢には限りがあった(十分ではない)と考える事もできないでしょうか?
寄せ集めの軍勢であっても規格化された攻城戦を可能とし、限られた兵数にて攻城を完遂するため構築されたプランと考える事もできるように思います。
そのような観点から考えますと、やはり織豊は唯一無二の存在のような気がします。


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.156 )
日時: 2021年08月29日 04:06
名前: 田嶌貴久美 [ 返信 ]
高田様

ご無沙汰しています中城研の田嶌です。相変わらず明快なご発表で興味深く拝聴しました。
質問というより感想なのですが望月さんのご発表も掛川攻めの陣城で、長陣だった割には正直城でいいのかと疑うような物が多く特徴らしき特徴がない印象でしたが、高田さんも小括で「特徴的な陣城が見いだせない」とあり思わず頷いてしまいました。
しかしそうなると、天正壬午の乱で新府城北方に築かれた能見城の塁などは街道を塞ぐ桝形虎口以外にも連続外枡形を築き特異な気がします。もちろんこれが徳川のもので勝頼時代ではないという確証もないのですが…特徴がないのが特徴な状態から今井陣場になるまでに、どこに画期があったのか、興味が尽きないところです。明日(もう今日ですが)の討論会楽しみにしております。


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.157 )
日時: 2021年08月29日 06:10
名前: 佐藤佑樹 [ 返信 ]
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髙田様

いつもお世話になっております。
今回のご発表からも大変勉強させていただきました。

大変遅れた段階の質問になってしまい、恐縮です。
資料集の方では三河の石垣をもつ城について触れられていたかと思います。
城における石垣の構築に関して、滋賀や福井では、寺院の持つ築技術が持ち込まれていったと考えられているところであると思いますが、三河ではいかがでしょうか。中世寺院で石垣を構築しているような事例はあるのでしょうか。
もし存在するのであれば、今回のテーマの一つである、「家康時代の浜松城にも石垣はあったのか」という問いに対して、中世寺院に認められる在地の技術から連続的に理解できる可能性もあるのではないかと思いました。

以上、城以外についての質問で申し訳ないですが、ご存じのところがあればご教示賜りたく思います。


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.160 )
日時: 2021年08月29日 08:25
名前: 髙田徹 [ 返信 ]
佐藤様 終盤駆け込みのご質問ありがとうございます(笑)
さて三河での寺院石垣ですが、いくつかにはありますね。ただ私が知る限りでは相応の規模、高さ、技術をもって築かれた石垣というのは確認されていないと思います
三河にも山林寺院はありますけれども、直接・間接的な関係性は今のところ追いにくいと思われます
城山城はともかく、大給城では相応の高さの石垣を広範囲に築いています。さらに岩の間を丁寧に埋めて、わずかな平坦地を造成する等一見無駄な行為のようにさえ思えるところがあります。かなり異質です。こうした石垣は、石材が豊富に取れる場所である特異性も勘案すべきでしょうが、周囲に同等の石垣を有する城郭は存在しないし(市場城はやや異なると考えています)、浜松城や駿府城と同列で語れるものではないかと考えています。

大給城等は美濃にも近いところなので、そちら側からの影響を考える必要もあるかもしませんね。岐阜県では山林寺院の悉皆調査をやっていると聞いているので、その成果も明らかになったらまた考える材料が増えるかもしれません。また佐藤様からの分析視点があればご教示ください。ありがとうございました。 髙田


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.161 )
日時: 2021年08月29日 08:44
名前: 髙田徹 [ 返信 ]
田嶌様 ごぶさたです。ご質問ありがとうございました。さてご意見ありがとうございます。口頭で述べたとおり、私も静岡の陣城を全て見ているわけではありません(ごくわずかです)。多くは静岡古城研の方々の成果に学んでおりますが、陣城というよりも在地の中世城郭、利用形態としては陣所的な様相を占めるものが多いと思われます あれだけ攻城戦を行いながら、そうしたレベルのものに止まっている。しかしながら、それが実際に効果を発揮したと思われるし、徳川氏もそれで十分対応できるということであのような縄張りを採用した、あるいは積極的な普請を施さなかったのではないでしょうか。無駄なことはあえてしない、必要性に応じたものであったとみなすこともできるかと思います。見方を変えれば。 その中では小笠山砦は多重に堀切をめぐらし、規模もかなり大きいです。突出していますね(セミナーレジメの表紙です)。 武田に備えたのかもしれませんがあのような城は、その後に引き継がれた形跡はありません。
 山梨では武田か徳川かという検討は今後も必要でしょうが、通説的に徳川の改修を考えると、そこにかなり断絶があります。ご指摘のように。 これは三河時代とも通じるはなしであります。 これまではそこをつなぐものが見出せず、なかなか「徳川系城郭」のしっぽがつかめなかったのだと思います。しかし、「徳川系城郭史観」にとらわれずに考えるのならば、山梨での築城は織田等が行っていた攻城戦を一足飛びに利用した、援用したという見方もできるのではないでしょうか。状況に応じて引き出しからアイテムを引き出したり、良いものならばあまりこだわりなく使ってしまうといった合理性が感じられるように思います。そうした面は居城普請のありかたを見返せば、符合する点も多く、理解しやすい点が多いのではないでしょうか。
半分冗談で書きますが、後期の徳川氏城郭はむしろ「藤堂系」とでも呼んだ方がなじむ気がします(笑)
アイテムを取り込む機会は、徳川氏にとっては意外に多く存在していたように思います。
いずれにせよ、脱「徳川系城郭史観」をもって徳川氏城郭全般を見直す必要性を感じております
ありがとうございました。またお気づきの点あればご教示ください。 髙田


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.163 )
日時: 2021年08月29日 08:58
名前: 髙田徹 [ 返信 ]
内野様 お久しぶりです(笑) ご意見ありがとうございました。構造・規模はともあれ、少なくとも築城する側が妥当、必要最小限と考える範囲での陣城となっていると考えております。
織豊との違いは大きいと思いますが、織豊と言っても実は細かく見ると戦術面の影響もありましょうが、粗放な縄張りを造り出している、まさに陣所に過ぎないようなものもあります。
少し気になるのは近年広島の秋本さんらの調査で注目されている尼子・毛利あたりの陣城構造です。あのあたりはかなり特徴的ですが、他の四国・九州などでの陣城・付城構造はどうなのでしょうか?列島的な視座で比較する必要性も感じます。あくまで想像に過ぎませんが、予測としては織豊+アルファが異質になりそうな気がしております
何が織豊をそうさせたか?(笑) これはおっしゃるような見方も含めて、検討を重ねるべき点だと思います。
ありがとうございました またお気づきの点あればご教示ください 髙田


Re: O. 三河支配期の徳川氏城郭 — 陣城・石垣・改修を中心に ( No.171 )
日時: 2021年08月29日 13:51
名前: 内野和彦 [ 返信 ]
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高田様、お久しぶりです。

本日の討論会楽しみにしております! 


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