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山の王

1: KZ:2023/01/06 21:48 No.198
一度だけ 秋の山で 至近距離の熊に出くわしたことがある。King of kings まさしくそういう趣きの生き物だった。動物園とは全く別物の あの漆黒の輝きを 私は一生忘れないことだろう。

☆もう十数年前の秋 信州・軽井沢の離山(はなれやま)にて。紅葉も真っ盛りの午後だった。
佐久の菩提寺での法要も昼過ぎに無事終わり 親子孫の六七人で 空いた午後の時間を軽いハイキングに出かけた。澄みきった秋の空気の中 のんびりとお喋りしながら二時間くらいのゆるい登りを楽しんでいた。結構たくさんのハイカーが歩く道(九十九折り)で、幅も広くそこそこ整備されているので 子ども連れでも大丈夫なコースだった。
午後も少し遅くなってからの登りだったので たまに行き交うのは 頂上から降りて来るハイカーばかり。上まで あとどのくらいかかりますかと所要時間を尋ねながら暢気に登っていった。最後にすれ違った中年女性の二人組が腰に下げていた鈴が 人気の薄れた山道に綺麗に鳴り響いていた。

ほぼ見込んだ時間で山頂に辿り着き そこで一息入れてから、少し降ったところにある見晴らし台に立ち寄った。見渡す限りに紅葉、黄葉が入り乱れて 何とも眩しく輝やかしい広葉樹林が広々と眺められる場所だった。ちょっときつかったけど 頑張って登ってきて良かったねと みんなが口々に喜んでいた。
やがて一人で台から少し引いて 一服しようかなと思っていた時だった。20メートルほども離れたクヌギの木だったろうか、美味しいどんぐりがたわわに実っていたのだと思う。誰もいない静かな樹上でゆったりと食餌していた一頭の月の輪熊が 闖入してきた五月蝿い家族連れに辟易して スルスルと木を降りてきたのだった。
丸くて真っ黒なその塊が何なのか もちろん最初 私には全くわからなかった。ようやく根元に滑り降り ぐるりとあたりを見渡したその時に 熊だと 呑気な私にもようやく気付きがやってきた。
秋の澄んだ日差しに まことに黒々と 艶々と光り輝くその巨体は 何と形容していいかわからない。その漆黒は 今まで見たこともない光に満ちた悠揚たる山の王様としか言いようがない。その黒光りの存在感は 全山の紅葉にも負けていない。一瞬見惚れたそののちに 今度は徐々に恐怖が腹の底から立ち昇ってきた。このまま向かって来られたら 自分にはどうしようもないな、たとえ木によじ登っても 向こうのほうがずっと上手だしな… もうやぶれかぶれ、素手でやれる限りの抵抗をするしかないな。瞬時にそんな思いが 霞んだ頭をぐるぐると経巡っていた。後で訊くと 見晴らし台にいた家族のうち 小学生の孫の男の子だけが 同じくその熊を見たようだった。
幸いなことに、ゆっくりとあたりを見回していた王様は それから何事もなかったかのように向きを変え 繁った熊笹をかき分けるようにして向こうの崖を静かに降りて行った。その後ろ姿の 充実して 大きかったこと! ホッと息をつくと あらためて新しい恐怖が頬のあたりに さざなみのように立ち昇ってきた。心底 私は痺れた。

登りで出会ったあの中年女性ハイカーの鈴は 伊達や酔狂ではなかったのだった。登り口まで一団になって降りて 見かけた立て札の番号に念のため電話を入れた。ヴォランティアの若い男性が出て、それは離山の熊ではないですね、今ここの熊たちは草津の方に出かけていますからと のんびりした口調で答えた。どこか他所から どんぐりを食べに来た若い牡熊でしょうね。…ところで それは大きな犬ではなかったですか?
慌てて 勘違いしてしまう人も多いらしい。私は言った、冗談じゃあないですよ するする樹から降りてきて そのでかいこと この世離れした黒光りのこと… 私は今までの人生で あんなに深くて輝く黒色を見たことはありませんよ!
前から見ると顔はむしろ小さいです、でも後ろ姿を見ると そのお尻の大きさに圧倒されます。明日 出没注意の立て札を立てます。ご連絡ありがとうございました。
それが 若いヴォランティア氏の答えだった。

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