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花林糖  終戦後の市場

1: KZ:2022/09/20 00:44 No.104
古典的なお茶菓子の中では割合に好きで たまにテーブルにあると喜んで口にする。あまり元気に齧ると 例の前歯が怪しいので 注意しながら少しコッテリした黒砂糖の風味を楽しく懐かしく味わう。

昔千葉で花林糖の製造・卸をしていた人から聞いた話。昭和20年代、未だ甘いものが貴重で なかでも花林糖は家庭のお茶菓子の王様の一つだった。小さな工場だったが 忙しく作って よく売れた。
その人は未だ都内の大学に籍のある学生だったが 家業がとても忙しくなって 工場の仕事にスタンスを移し始めていた。
ある日社長(父親)から 明日小岩に回ってくれと頼まれた。市場のA商店、どうもこの頃払いが遅い。長い付き合いだからしようがないと思ってきたが これ以上ツケが溜まるようだと もう無理だ。明日店の様子を見て、むこうの社長には 幾らかでも貰ってこいと言われて来たと。
翌日の午後 言われた通りに小岩に回った。A商店は前に幾度か 納品とかで行ったことがある。その日も 用が済めば 駅そばの美味いトンカツ屋にでも寄ってと それも楽しみだった。
お店は…よく繁盛していた。間口の小さな店だったが お客は引きも切らず。前掛けをした店員も 元気な声で手早くお客さんを捌いていた。声を掛けると あいにく社長は留守だった。仕入れに出ていて 行けば数件は回るから もしかすると帰りは遅くなるかもしれない。「ちゃんと伝えときますよ 千葉の〇〇さんが見えたって」 お願いしますねと頼んで帰ろうとした。これだけ繁盛していれば 何も心配することはないだろう。もう 早めにお目当てのトンカツ屋に行きたかった。出がけにふっと店の中央の いちばん目立つ棚に目が行った。うちの花林糖が 堂々と中央に並んでいた。目玉商品なのだ、誰が見てもそういう配置だった。なんだか鼻が高かった。場所は小岩といえ うちの花林糖がナンバーワン商品なのだ。帰って報告すれば ふだんは小うるさい親父の顔も綻ぶことだろう。
その時 改めて値札を見て おやっと思った。安い えらく安い…こんな値段で うちはAに卸していただろうか? 客寄せでこの値段をつけ 他の品物とトータルならきっちり儲かると そんな商いでもしているのだろうか?
少し気になって トンカツ屋の前の公衆電話から 千葉の会社に連絡だけは入れた。父親は午後から集金やらに出かけて留守だった。
その夜 戻ってきた父親に小岩の報告をした。店はよく繁盛している。なにしろ活気があって あれは儲かっているよ。ただ うちの花林糖は 目玉にしてるようだけど、元値を切って売っていて驚いた…
父親の目が小さく光った。少し考えてから言った。「Aは引き上げよう。もう一回回って 売り掛けの出来るだけと 現品の残りを全部回収してきてくれ」
有無を言わせぬ口調だった。けれども翌日は 最後のゼミがあった。すっぽかすと卒業に関わる。明後日なら行ける。職人の一人と一緒に出向いて 現品も根こそぎ回収してくる。

翌々日 小岩の店は閉まっていた。臨時休業の札が ぴたりと閉じた雨戸に掛かっていた。電話をしても誰も出ない。たまに総出で仕入れに行くんだ 今日もそんなところだろうよ… 隣の惣菜屋のオヤジが ことも無げにそう教えてくれた。

結局 A商店は それきり小岩に戻ってこなかった。もちろん花林糖はひと袋も戻らず 溜まっていた売掛金も一円も回収できなかった。そろそろ甘いものも潮時だと 社長(父親)は肩を落としてつぶやいた。

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