歴史掲示板(渡来人研究会)


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岩宿時代・縄文時代・弥生時代の縄文人・渡来人
岩石(ハンドルネーム) 投稿日:2022年08月04日 05:51 No.58
日本のホモ・サピエンスの概要
 南欧(6万年前)→黒海北岸(3万9000年前、イタリア・ナポリ西側で火山が大噴火)→コーカサス北部・ウラル南部・シベリア南部・バイカル湖畔・極東南部・北海道(2万年前)→東日本(1万4000年前)→西日本(3500年前)でコーカソイド系(大部分は南欧ラテン系=Y染色体ハプログループDはすべて日本固有種)、ユーラシアン系(モンゴル~東日本、大部分は日本固有種)、オーシャノイド系(3万8000年前、岩宿時代の長江沿岸・日本列島系、大部分は日本固有種)がミックスし、縄文人を形成していった。生物多様性によりいろいろな免疫を獲得した。日本人は90歳、100歳まで生きると中国の歴史書に記されている。7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。温帯だった青森(色白金髪碧眼のY染色体ハプログループN)から寒冷化に伴い、関東(湿型の耳垢、毛深い、頭髪が天然パーマで禿げやすいY染色体ハプログループD)→西日本(3500年前)と移動していった。3000前から戦乱が続く志那大陸からオーシャノイド系(主に黄河沿岸系)が大量に西日本に流入し、瀬戸内海沿岸に住んだ。先住オーシャノイド系(主に長江沿岸・日本列島系)と合わせると、オーシャノイド系が倍になり、全体の過半数を占めるようになった。
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岩宿時代~縄文時代
 オーシャノイド系のホモ・サピエンスは、海岸伝いを移動し、少なくとも4万年前には既に日本列島に最初に到達していた。志那大陸に到達する前にかなり早く日本に到達した。岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山の小さな丘陵が接する部分に位置する。昭和21年、切通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋氏は切通しで露出した赤土(関東ローム層)から石器を発見した。相沢氏はその後も何度となくその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけたが、土器は伴わなかった。当時は1.5万年以上前の火山灰からなる関東ローム層の時代には人が住めなかったと思われてきたが、自分が確かめた事実を信じ、昭和24年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見した。この発見はいち早く東京の学者に知らされ、相沢氏と明治大学が岩宿遺跡を発掘調査することになった。昭和24年9月11日、岩宿の丘に立った発掘調査隊はそれまで未知の地層であった関東ローム層に挑み、ついにその地層の中から石器が出土した。その後、その年の10月、翌昭和25年4月にも発掘調査が行われ、こうした一連の岩宿遺跡の調査によって以下のことが明らかとなった。その当時は最も古いと考えられていた縄文時代の土器がやや離れたC地点から発見されたが、それらは関東ローム層より上の黒土に含まれていたので、ローム層から発見された岩宿遺跡(A・B地点)の石器は明らかに古いことがわかり、土器を伴わず石器だけが発見され、縄文時代より古いものであった。発掘調査によって関東ローム層中に層を違えて2つの石器群が発見され、少なくとも約3.5万年前(岩宿I石器文化)と約2.5万年前(岩宿II石器文化)の時期があることが判明し、早くもこの時点で岩宿遺跡の時代に異なる文化の段階があり、その岩宿時代が長い時期にわたっていたと考えられるに至った。2万年前までの世界では打製石器が使われ、旧石器時代と呼ばれたが、日本では世界よりも2万年早く磨製石器が作られ、4万年前から既に新石器時代に突入していた。また、「土器」というこの時代に無いものを用いて時代の呼び方にすることも問題である。岩宿博物館では土器を持たず、狩猟・採集の生活を営んでいたと推定される日本最古の時代をその研究の発端となった岩宿遺跡にちなんで「岩宿時代」と呼ぶことが何人かの研究者により提唱されている。
 岩宿人は4万年前(世界より2万年早い)に磨製石器を発明した。逆に、現在同様に日本から志那大陸に文明が世界に広がったが、嘘つきの志那朝鮮人が歴史を改竄した。
 1万9000年前から海面上昇が始まり、縄文時代に突入した。氷河期の日本列島はステップ気候で森林は屋久島までだったが、氷河期が終わると全体が森林に変わっていった。1万5000年前頃から地球は急激な温暖化に見舞われた。草原が少なくなり、日本列島は闊葉樹の森林に覆われる。狩猟を生業としてきたブリヤート人は大型動物が少なくなって深刻な食糧不足に見舞われた。人類が土器を使ったのは1万3000年前、シベリアのアムール川周辺で発掘され、ブリヤート人はこの手法を日本列島に持ち込んだ。ソバの原産地はバイカル湖付近から中国東北地方に至る冷涼地域。世界最大のソバの原産地であるシベリアの普通ソバが日本に伝わった。北海道の「はまなす遺跡」は縄文前期のものとみられるが、この遺跡から普通ソバの花粉が出土している。縄文晩期とみられる青森県田子町の遺跡からもソバの花粉が出土している。信州の野尻湖底からは弥生時代の普通ソバの花粉層が発見されたので、ソバ伝来の歴史は、縄文前期まで遡って考える必要があり、ブリヤート人が日本に渡来してきた時にシベリアの普通ソバを持ってきた。
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日本の先住民には南インド・ドラビダ系タミル人もいた。
 日本人で遺伝子検査したら、日本人の持つ亜型にないインド系のM6(mtDNA)の者がいた。7万年前、インドネシアのトバ火山の大噴火で劇的な寒冷化が6000年続いた。その間生き延びたのは、ホモ属ではネアンデルタール人とわずかな現代人の祖先だけだった。
 南インドのコーサラ国の公主が伽耶の首露王に嫁いできたという伝承があるが、コーサラ国の太陽の紋章と同じデザインの銅器が日本で71発掘されており、その分布は佐賀県、熊本県、長崎県、福岡県、広島県、香川県、鳥取県、奈良県、岐阜県、愛知県、長野県、群馬県、茨城県と広域にひろがりをみせている。
 「記紀の伝承や神社の伝承に見え隠れする小人(背の低い人)の存在」→記紀(古事記と日本書紀)には「身短くして手足長し」と表現される土蜘蛛の記述がある。古事記の神武記に土雲八十建が忍坂の大室にいて打ち殺され、日本書紀・景行天皇記・神功摂政前記にも見える。風土記では肥前、豊後、日向、摂津、越後、常陸、陸奥など各地におり、土雲、都知久母、土蛛、土朱、土知朱と記されており、大和朝廷に従わない先住者を蔑んで呼称した。「身短くして手足長し」縄文人はネグリトの特徴を持っていた。
 多くの古代文献に見える広い信仰圏を持つ神だが、記紀の神話での活躍は少ない。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子で指の間から零れ落ちたと記される小さな神であり、出雲の大巳貴神(大国主命)と共に国作りをした後に常世の国に去ったと伝えられる。出雲の大国主命は新治を開いて米(稲)作りにより国土経営をしたと伝えられているが、少彦名命は石(いわ)に示現する神として歌われ、粟茎に弾かれて淡島より常世国に至ったとされるので、米作り以前の焼畑農業的な穀霊と考えられている。
 巨石文化を持つインドから到来した縄文時代の神であった可能性が濃厚である。安曇磯良(あづみのいそら)→真弓常忠著『大嘗祭の世界』に、民族の始原を語る神楽を始める前に、安曇氏の祖とする安曇磯良を呼び出す「阿知女作法(あちめさほう)」を行うという記述があり、平安時代には民族の始原に海人の安曇氏を比定していた。安曇磯良とは『八幡愚童訓』や『太平記』に記されている安曇氏の祖神だが、神功皇后三韓遠征に際して神々が軍議に集まった時に遅れて現れて、永年海底に住んでカキやヒシにとりつかれて醜い顔になっているのを恥じて浄衣の袖で顔を隠して青農(細男・才男)を舞ったと伝えられている。神功皇后の時代に永年海に住んで醜いほどカキやヒシが付いていたとすれば、相当古い年代に存在していたことになり、縄文時代を想定できる。この神の姿を描くときには顔に白い布が置かれ表情は見えないが、後代の記紀には鯨面(入れ墨)をしている記述があり、異形の相であったことは確か。ただ鯨のように黒い肌であったかはわからない。群馬県、栃木県、茨城県、千葉県から発掘された古墳時代の埴輪には身の丈が立派な首長の傍らに身長が小さく入れ墨をほどこした馬曳きと思われる人物が馬の埴輪と並んで配置されている。縄文人が騎馬系渡来人の元に隷属していった様子が窺える。その他にもいろいろある。
 タミル語の構造は、ほとんどアルタイ語と同じで、すべて日本語と同じである。助詞は、日本語と完全に対応し、細かい言い回しも同じである。似ているところを具体的にあげてみると、①疑問文の作り方が同じ(日本語は語尾に「か?」をつけるがタミル語は語尾に「アー?」をつける)、②文法・文章構成の語順が似ている、③擬音語・擬態語の表現が似ている、④基本母音(a, i, u, e, o)が同じ(長母音と短母音の違いはあり)、⑤その他、似ている言葉がたくさんある(辛いと伝えたい場合、カーラと言えば伝わる)、ことである。擬音語・擬態語では、「すらすらと(日本語)」が「サラサランヌ(タミル語)」、「ひそひそ話をする(日本語)」が「クスクスッカ(タミル語)」、「ハキハキとした(日本語)」が「スルスルッパーナ(タミル語)」、「ワクワクして(日本語)」が「パラパラッパー(タミル語)」(笑)、となる。
 弥生時代の北九州の水田耕作・金属(鉄)・機織・大規模な特異な墓地の造営という四つの文明要素が、BC1000年~AD300年にわたる南インドのタミル地域の巨石文化(Megalithic Culture) の文明要素と共通である。また、その時期の土器の表面に付けられている記号文 (Graffiti) に、何百という全く同形の記号が共通に存在する。古代日本語とタミル語との間には様々な単語に強い共通性が見出される。カミ(神)、マツル(祭る)、ハラウ(祓う)、ノム(祈む)などの宗教史上で重要と思われる単語、コメ(米)、アハ(粟)、モチ(餅)、ナへ(苗)、ハタケ(畑)、タンボ(田)、アゼ(畔)、クロ(畦)、ツク(搗く)などといった農耕の基本に関わる単語、アハレ(哀れ)、スキ(好き)、モノ(物)、コト(事)などの思想史上の重要語、テ(手)、アシ(足)、ハ(歯)、ワタ(腸)、ホト(女陰)などの人体語等々500に達する対応語が見出された。
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ハプログループC(Y染色体)、N(Y染色体)、O(Y染色体)
 12万年前~4万年前頃、色白金髪碧眼のネアンデルタール人が日本に住んでいた。岩宿時代(4万年前頃~2万年前頃)の日本人はネアンデルタール人と混血し、色白金髪碧眼となった。最終氷河期(7万年前~1万年前)はユーラシア大陸、北東亜平野(現在の黄海・東シナ海・志那大陸東側沿岸等の大陸棚)、台湾、琉球陸橋、九州、四国、本州が陸続きであり、4~7万年前にハプログループK-M214が西インド→スンダランド→北東亜平野→古長江沿岸、古黄河沿岸、古遼河沿岸、西日本に広がり、3万4600±4700 年前にK-M214→NO、N、Oに分かれた。旧O1(オーストロネシア語族)が分離した後、旧O2は約2万8300年前に旧O2a系(オーストロアジア語族)と旧O2b系(古長江沿岸、西日本)に分かれた。1万9000年前に始まった海面上昇に伴い、旧O2b系は長江沿岸(ベトナム系言語)と日本(縄文語)に分かれた。旧O2b系O-47zは日本固有種。温暖化(縄文海進は約1万年前~6000年前)に伴い、Nは適温の青森など東北に移り住んだ。
 日本列島先住日本人(日本固有種旧O2b系O-47z・22.0%or25.1%、日本固有種C-M8・5万年前・5.4%、NO-M214*・2.3%=福岡県3.8%と徳島県5.7%、N-LLY22g・1.2%、N-M178・0.4%)が全国に広がって住んだ。計31.3%。Nは東北に多く、岩宿時代、4万年前(世界より2万年早い)に磨製石器を発明した。先住日本人には古長江沿岸・日本列島系のO-47zと遼河沿岸系のNO-M214*、N-LLY22g、N-M178、C-M8が混在していた。
 氷河期に西アジアから中央アジアを斜めに通過したCは大部分がアジア全体に広がっ た。北アメリカの北西にはハプログループCもいる。NO→北東亜平野由来のハプログループN=血液型A型、O=血液型O型に分かれた。R=血液型A型、Q=血液型О型、D=血液型A型、C=ツングース系(B型が多い)・チュルク系 (A型・O型が多い)は西シベリア・バイカル湖畔で出会い、一緒に住んでいたが、アメリカ大陸に渡った者もいる。ハプログループN(Y染色体)は緯度の高い地域では白人同様に肌が極めて白いだけではなく、劣性遺伝である色白金髪碧眼が見え隠れする。毛人(もうじん)=地中海沿岸系先住ヨーロッパ人(ハプログループD)が日本列島まで東進し、色白金髪碧眼の遼河沿岸系匈奴や日本列島先住日本人=蝦夷(えみし、ハプログループN)が北欧まで西進した。
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ハプログループN(Y染色体)と色白金髪碧眼高身長
 日本の国別の地勢、風俗、気質などを書いた地誌『人国記』(作者不詳、成立年代も室町末期らしい)という本において陸奥国のところに「この国の人は日の本の故にや、色白くして眼の色青きこと多し」と驚くべき記述がある。東北地方の人たちが白人の遺伝子を持っているのなら、青い眼の人が生まれるのも納得がいく。秋田美人などの雪国の色白美人の秘密は白人の血が混じっているためなのかも知れない。「この国の人は日の本の故にや」という記述に注目すると、この文章を読んでまず思い出したのが中国の歴史書『旧唐書』倭国日本伝の記述で、「日本国は倭国の別種なり。その国日辺に在るを以て、故に日本を以て名となす」「あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」ここにはかつて倭国と日本が別の国であったことが記されている。つまり『人国記』の「この国の人は日の本の故にや、色白くして眼の色青きこと多し」という記述は、「この国の人は「日の本」の国の人間のため、肌の色が白く、瞳の色が青いことが多い」という意味ではないか。この本(岩波文庫)の「日の本」の注釈では「日が昇るもと(東)の国」と解説しているが、それでは「色白くして眼の色青きこと多し」の理由説明にならず、文章の意味が通らない故に「日の本」=異人種=蝦夷の住む土地という認識で、「日の本の故にや」と書かれたと思われる。この「日の本」という国については『常陸国風土記』には「この地は、本(もと)、日高見国」という記述や『日本書紀』の「東夷の中に日高見国あり」という記述で記録されている。日高見国とは「日つ上の国」の意で、日の出るほうにある国とされている。つまり「日の本」という意味である。
 現代日本人の中にネアンデルタール人の遺伝子が1.4%含まれている。白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高い。シベリアで発見されたネアンデルタール人の兄弟種の化石から、その遺伝子の一部がポリネシア人に混入している。ヨーロッパから広がったネアンデルタール人は日本にも旧石器時代中期の12万年以上前から住んでいた。ネアンデルタール人は旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していた。ヨーロッパのホモ・サピエンスはネアンデルタール人を絶滅させたが、日本ではネアンデルタール人と共生していた。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は交配していた。ヨーロッパの白人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が含まれていないが、日本人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が少し残っている。つまり、日本では緩やかに混血して共生していた。ネアンデルタール人は、北方の気候に適応して、①現在のヨーロッパ人以上に白い肌、②金色や赤い色の毛、③青い目や灰色の目、となる。青い瞳等は、ネアンデルタール人→最初の日本人(ハプログループN(Y染色体))→北東亜平野(現在は大陸棚となっている東シナ海や黄海や志那大陸の東沿岸及び台湾や沖縄や日本列島は陸続きだった)で匈奴(ハプログループN(Y染色体))→西シベリア~中央アジアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR(Y染色体))と受け継がれていった。明るい色彩の目や髪はハプログループN(Y染色体)の割合が大きいサーミ人(ノルウェー)とフィン人 (フィンランド)に特に多い。サーミ人やフィン人は銀髪だが、日本列島先住日本人(ハプログループN(Y染色体))は色白金髪碧眼である。特に東北には顔が真っ白で、青い瞳(劣性遺伝)や金髪の者がいる。九州北部や中部以北にもそれに近い者がいる。
 現代日本人でヨーロッパ人に近い人々は、青森28%、静岡18%、沖縄5%だった。東北を中心に青い瞳もしくはそれに類する人が1~2割いる。東北には小さい時は瞳が青く、だんだん茶色の瞳になっていく人も結構いる。東北には赤ん坊の時に金髪の者がいる。大人になっても地毛が金髪の者がいる。また、九州などの南方にもヘーゼル色の目の人たちがいる。個人的経験だが、岐阜県各務原市に、①明るい緑色と茶色の中間の瞳に近かった者、②プラチナブロンドの者、がいた。岐阜県や長野県にも青い瞳の者はいる。ちなみに、金髪碧眼のアイヌの族長の写真がいっぱい撮られ、アイヌには白人の血が30%ぐらい入っている。
 東北大学の調査によると、宮城県から424人の目を調査したら、①完全に茶色の目=359人→84.7%、②いくつか青い部分もある=43人→10.1%、③青い目だけれども全体の半分以下しかない=15人→3.5%、④青い目がほとんどだけれども中心は茶色=6人→1.4%、⑤完全に青い目=1人→0.2%、となった。この調査が本当であれば、100人に1-2人は、青い瞳を持った人となる。部分的に青い瞳を持った人たちも含めれば、100人に5~15人もの人たちが青い瞳を持っている。デンマークのDNA研究者によると、  日本で青い瞳を持った人たちは6000年~1万年前にどこから来たのかは不明である。
 日本人の瞳は一般的に「黒」だと思われているが、正確には「茶色」である。東北と九州に多いのは瞳の色が極端に明るい(茶色い)日本人である。彼らの第一印象は「どこか日本人離れした顔」や「外国人っぽい」と思われることが多い。九州では特に明るい色の瞳を持つ人の人口割合が多い。東北では青と茶色の色素がミックスしたような不思議な青眼を持つ人もいる。「青×茶色」の茶色中の黄色味が強い場合は青い目と合わさって緑色っぽい瞳に見えることもある。東北出身の女性と結婚したAは待望の子供ができて大喜びしたが、生まれてきた子供の瞳はAとも奥さんとも似つかない青っぽい不思議な色の瞳をしていた。DNA鑑定の結果、その子はやはり正真正銘Aと奥さんの子供なのである。確かに、この子は瞳の色以外は完全に「日本人の赤ちゃんの顔」なのである。子供を育てていくうちに子供の瞳の色が暗い色に変わった。幼稚園に入りしばらくたつと、瞳の色も違和感のない程度に茶色く、「誰が見てもAさんの子供とわかる」くらい瓜二つの「日本人顔」になった。奥さんの方の親戚の多くがとても明るい色の瞳を持っている人が多いことが分かった。そのうちの一人はAさんの子供と同じように「赤ん坊のころは瞳の色が違った(青っぽい不思議な瞳)」だった。大人になってからも青い目だった人はめったにいないが、東北地方には「赤ちゃんの頃だけは明るい目だった」という人はいて、明るい瞳の遺伝子を持っている人も多い。
 日本人(福岡県、徳島県)や遼河文明人にはハプログループNO(Y染色体)がいる。北東亜平野や古遼河沿岸や日本でNO(Y染色体)がN(Y染色体)とO(Y染色体)に分かれ、N(Y染色体) (血液型A型)は北上し、O(Y染色体) (血液型О型)は南下した。日本は遼河文明の一部だった。現在、ハプログループN(Y染色体)は全国平均0.8%、北海道4.0%(大部分は東北地方からの移住者)、青森県7.7%、群馬県2.7%、東京都1.0%、静岡県1.6%、三重県2.2%、兵庫県1.4%、岡山県1.3%、山口県1.9%、愛媛県1.0%、徳島県7.1%(ハプログループNO(Y染色体)が5.7%)、福岡県は3.8%(ハプログループNO(Y染色体))、長崎県は1.7%、沖縄県は2.0%である。
 フィンランドは「ヨーロッパの日本」と呼ばれている。フィンランド人=蝦夷(えみし)=遼河系日本人である。フィンランド人は一般に色白で、瞳は青もしくは灰色が多く、フィンランド語を話す男性の86%,女性の81%が青もしくは灰色の瞳を持つ。また、男性の76%,女性の82%は金髪もしくは亜麻色の髪をしている。岐阜県各務原市での私の友人2人はフィンランド人と見た目が同じだった。秋田県人たちが先祖返りで、目が青かったり緑色だったりする農民がいる。祖父母の代まで秋田県という人は昔の写真が残っていて、小作農の顔を見ると目と髪の色が薄くて皆ロシア人のようである。東北の蝦夷(えみし)もフィンランド人同様に色白金髪碧眼で身長が高かった。アテルイ(阿弖流為)平安初期の時代、岩手県辺りの蝦夷(えみし)のリーダーとして朝廷軍との戦った東北の英雄で、身長170cm弱で色白金髪碧眼だった。当時の日本人は、男性でも150cm弱くらいが平均身長だった。蝦夷が弓騎兵だったため、これに対抗し、大和朝廷は少数精鋭の健児を重装長弓騎兵にした。この健児から派生した武士は重装長弓騎兵であり、元寇では6万人の九州(熊襲(くまそ)=地中海沿岸系、トルコ系、黄河沿岸系、長江沿岸系、遼河沿岸系)勢と中国(地中海沿岸系、黄河沿岸系)勢が動員された。東国から援軍(毛人(もうじん)=地中海沿岸系、ツングース系、蝦夷(えみし)等)が続々と出陣していたが、彼らが到着する前に15万人の元軍は既に引き上げていた。戦国時代の武田信玄による人身売買は匈奴の習慣と同じである。日本列島先住日本人は騎馬民族の蝦夷(えみし)=匈奴(きょうど)であり、古代までズボンをはいていた。蝦夷は軽装甲の弓騎兵で構成された騎兵であった。その後、中国の影響でズボンでなくなった。
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ハプログループD(Y染色体)の移動(ヨーロッパ→日本)
 最終氷河期には中近東と南欧は陸続きだったので、ハプログループDEは南欧に入った後、DE→D(YAP+) (約6万年前、黒海北岸)、E(YAP-) (6万5200年前、地中海沿岸)に分かれた。ハプログループEはエジプトなどのアフリカ、イタリア、フランス、ドイツなどの西欧、ウクライナなどの南欧、イスラエル、イランなどの西アジア、インド等に残った。約3万9000年前にイタリア・ナポリ西側で火山の大噴火が起きた後、南欧にいたハプログループE(YAP-)から派生したハプログループD=地中海沿岸系日本人の先祖(日本固有種D-M116.1*・16.6%、D-M125*・12.0%、D-P37.1*・3.9%、D-P42・2.3%、古代ラテン語)は黒海北岸(現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニア【紀元前にローマ人が入植し、周囲のスラブ系民族が使うキリル文字ではなく、ローマ字を使っていたワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアが19世紀に独立】あたり。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)に移り住んだ。2万年前、食料となるマンモスを追って東に進み、バイカル湖畔を経由して寒冷化による南下を始め、アムール川、沿海州を通って、氷河期は海面が140メートル低く陸続きとなっていた樺太や北海道(マンモス生息域南限)に南下した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。ヨーロッパ南部(+バルカン半島・北欧系I-P19・0.4%、2万年前、古代コーカサス語)→西シベリア南部(アーリア系R-M207・0.4%、2万年前、古代ケルト語)→バイカル湖畔(+トルコ系C-M217*・1.9%、2万年前、古代トルコ語)→アムール川(+タタール系Q-P36・0.4%、2万年前、古代インディアン語族)→沿海州(+北方ツングース系ウリチC-M86・1.2%、2万年前、古代ツングース語系)→樺太→北海道(2万年前、残留組がアイヌ)→東日本(1万4000年前)と移り住んだ。計39.1%。短期間に黒海北岸から北海道まで東進したため、ハプログループI-P19、R-M207、Q-P36、C-M217*、C-M86の割合が少ない。主に関東に住んでいた東日本縄文人は、3500年前、寒冷化に伴い、西日本(人口が東日本の10分の1)に広がり、日本海沿岸、太平洋沿岸、東シナ海沿岸、沖縄に移り住んだ。関東のハプログループDは平安時代に毛人=地中海沿岸系と呼ばれていた。
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ハプログループD(Y染色体)、E(Y染色体)の特徴
 ハプログループD(Y染色体)は、地中海沿岸系ヨーロッパ人の特徴があり、毛深いだけでなく、日本人の7~8割が天然パーマ又は癖毛(優性遺伝)である。
 東アジアにおけるD系統の平均頻度は、9.60%であるが、チベット高原(41.31%)、日本(35.08%)、アンダマン島(56.25%)が高い頻度を示す一方、他の東アジアの集団の頻度は、希薄(5%未満)である。アンダマン諸島(ジャラワ族、オンゲ族)はハプログループD1a3、日本列島はハプログループD1a2、チベット民族はハプログループD1a1、各々の分岐年代は少なくとも3.5万年以上前である。またチベット人からはD系統とE系統の祖形DEから直接分岐したDE*もわずかに観察されている。DE*は他にはアフリカでしか見出されていない非常に珍しいタイプである。
 D1b(Y染色体)は日本本土36%、沖縄45%、アイヌ88%で、D(Y染色体)はアイヌ89.5%、北海道42.3%、東北35.6%、関東48.2%、沖縄45.1%、西日本26.2%、日本人40.8%、で、チベット人42.9%、チベット人51.6%、チベット人(チベット自治区ラサ)41.3%、チベット人(青海省貴徳県)48.7%、チベット人(雲南省シャングリラ)36.2%、アンダマン諸島73%である。血液型A型のD(Y染色体)、R(Y染色体)、I(Y染色体)等に蒙古斑はない。
 ハプログループD(Y染色体)はバイカル湖畔居住時代に発明した細石刃を日本に持ち込んだ。鉄器と細石刃の技術から日本刀が生まれた。
 アメリカ大陸にも広がった。エチオピア(クシ語派)はE系統のE1b1b1c V6、E1b1b1d V92、E1b1b2 M281, V16。エチオピア人のお辞儀は日本人のお辞儀にそっくりで、エチオピアの音楽も日本の歌謡曲に似ていて演歌と同じでこぶしがある。エチオピアはイスラエル人の文化の影響がある。ロインクロス(Loincloth)=褌(ふんどし)はエジプトと日本で共通している。「~スタン」とよばれる国のアジア系民族は昔からヘブル(ヘブライ)人の末裔とされてきたことから、中央アジアでYAPの持ち主が多数発見される可能性もある。
 ハプログループD(Y染色体・YAP+)、E(Y染色体・YAP-)は優性遺伝である天然パーマ(髪の断面が楕円形)であり、毛深く、彫りが深い。日本人の7~8割が癖毛or天然パーマで、髪の断面は楕円形。緯度の高い地域では肌が極めて白くなり、瞳が青くなる可能性がある。加えて、①二重瞼(眉下の皮膚が上瞼に被さっている)、②眼の位置が低く、鼻が顔の中央にある(眉間上部より立体的に鼻が垂れ下がっているため目元がくぼんで見える)、③前額部が突出し、彫りが深い、④ウェーブ(天然パーマ・クセ毛)が多く、禿げている、➄体毛や髭が多い、⑥湿った耳垢である、⑦眉が濃い、⑧眉と目の間隔が狭く、眼が額につき刺さっている、⑨口元が引っ込み、前顎が出ている、⑩後顎が角ばっている、⑪後頭部が後ろに大きく突き出している、等の特徴がある。ヨーロッパ人の特徴と同じ。
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縄文系ゲノムが最も多いのは沖縄県・鹿児島県・東北・アイヌ。
 日本人は縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したら、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。
 各都道府県の50人のゲノム情報をもとに、その違いを可視化した。縄文人由来のゲノム成分が多い県は青色で、渡来人由来のゲノム成分が多い府県はオレンジ色で表示した。縄文人由来のゲノム比率が他県と比べて極めて高い沖縄県は地図に含んでいない。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。瀬戸内海沿岸は酒に弱い黄河沿岸系だが、高知県は酒に強い長江沿岸系である。なお、今回、北海道はアイヌの人々が含まれず、関東の各県と近い比率である。
 渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違う。上陸地点である九州北部よりも列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高い。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだ。弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明である。今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは弥生時代の混血の過程で起こった出来事を反映している。書物にも残されていない日本人の歴史の序章はほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれている。
 縄文時代の日本は多民族であり、いろいろな言語が話されていたため、同じ単語でも読み方が違う。南欧ラテン語系先住ヨーロッパ人、エジプト人、中近東出身者、インド系先住日本人、アルタイ諸語系、ウラル語族系先住日本人、コーカサス人、アーリア人、タタール人などでは読み方が変わる。ヨーロッパなどには存在しない表現方法もある。
 縄文女性の顔の特徴に関わる遺伝子を調べた結果、肌はしみができやすい性質(コーカソイド、湿型の耳垢)で色が濃く、毛髪は細く縮れたタイプ(毛深いが、優勢遺伝の天然パーマ・禿げやすいラテン系)。鼻の高さは中程度で、瞳は茶色(劣性遺伝の青い瞳・色白金髪の蝦夷)だった。アルコールを効率よく分解できる遺伝子を持ち、酒に強かった。血液型はA型。
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ハプログループO2等(Y染色体)
 ハプログループNO→N、Oはスンダランド大陸から北東亜平野に移動し、縄文文明(紀元前1万6500年~紀元前1000年頃、旧O2b系)と長江文明(紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、旧O2a系O-SRY465*・7.7%、ベトナム系言語)となったが、海面上昇によって分かれたものの、黄河文明人に侵略された長江文明人は東南アジアや東アジアに逃げ、その一部は日本列島にも逃げ込んだ。日本列島がステップ気候から森林に変わると、太平洋の島々(最南端はパラオ、グアム)の人々(旧O2a系O-M95*・1.9%or0.8%)も日本列島に移り住み、その言語(オーストロアジア語族)も取り込まれた。計9.6%。これに日本列島先住日本人、北から来た者を合わせると計80.0%。オーストロネシア語族のO1a(旧O1)も1.3%or3.4%いるという統計もある。旧O2a系O-M95系統は中国南部、東南アジア、インド東部など、特にオーストロアジア語族に属す言語を話す民族に多い。オーストロネシア語族は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族。
 世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した。現在は海底となっているスンダランド大陸低地で2万年前頃から稲作が始まった。約1万9000年前から海面上昇が始まり、原住民はスンダランド大陸低地を放棄し、北東亜平野に移動した。稲作はスンダランド大陸低地で2万年前頃から始まったが、約1万9000年前から海面上昇が始まったことから、移動したスンダランド人によって、長江沿岸に1万2000年前、鹿児島に1万2000年前に伝わった。また、岡山県岡山市にある朝寝鼻貝塚からプラントオパールが発見され、8000年前に稲が生育していたことが分かった。佐賀県唐津市教育委員の中島直幸が菜畑(なばたけ)遺跡を発掘調査した結果、7000年前の水田区画跡が発見された。このことから、長江文明人が縄文時代から頻繁に日本に往来していたがわかる。縄文時代早期の1万2000年前、この頃本州と四国はまだ陸続きで、ナウマンゾウが生息していた。ナウマンゾウが住んでいた瀬戸内海は約1万年前に海水が入り込み、陸地から内海に変わった。
 7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。熱帯植物である稲は黄河沿岸以北や朝鮮北半分以北では栽培できない。日本では、暖流である黒潮のおかげで関東まで稲作ができる。朝鮮南半分でも稲作ができる。稲作は朝鮮を経由していない。稲作のための水路を作る過程で大量の土が余り、その土で古墳(匈奴由来)を作った。1万2000前に朝鮮半島の先住民(ハプログループN)は、朝鮮半島の木を燃やし尽くし、朝鮮半島が禿山になった。彼らは北アジア一帯及びウラル地域から北欧にかけて移動した。朝鮮半島では草が生え始めてから5000年経ってやっと森林が復活した。この間、人間は住んでいなかった。神武東征(紀元前667年)後、稲作・古墳は2500年前に南朝鮮に伝った。
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ハプログループO3(Y染色体)
 志那大陸は3000年前から春秋戦国時代となり、大勢の華北人(旧O3系)が周辺国に逃げ、そのうち東シナ海を渡って日本に逃げ込んだ華北人(黄河文明系の旧O3系O-LINE1・3.1%、O-M122*・6.6%、O-M134・10.4%、シナ・チベット語族)は日本人の20.1%or19.1% or16.7%を占めた。華北人(旧O3系)が東シナ海を渡って北九州から侵入し、主に瀬戸内海沿岸に住み、在来の日本人と混血した。
日本と北部中国に多い下戸
 アルコールに強い弱いで、他人種との混血度がわかる。酒に弱い下戸遺伝子(アセトアルデヒド脱水素酸素)をもつ人種はモンゴロイド(黄色人)のみで、コーカソイド(白人)とアフリカ系に見られない。下戸遺伝子が存在する率は日本人に40%(全く呑めない5%、多少呑める35%)、北部中国人に40%、韓国人に28%、フィリピン人に13%、インド人に5%。この結果、日本人の大半は純血モンゴロイドで、インド人は白人の血を大いに受け継いでいる。下戸は黄河沿岸に限られ、モンゴル、満州、朝鮮は酒に強い。黄河沿岸系(ハプログループO3)は瀬戸内海沿岸に住んだため、瀬戸内海沿岸は下戸が多い。
 原田勝二元・筑波大学教授によると、酒に強い日本人は全体の60%。酒に強い人が最も多い県は秋田の76.7%、岩手(71.4%)、鹿児島(同)、福島(70.4%)。逆に酒に強い人が最も少ない県は三重の39.7%。愛知(41.4%)、石川(45.7%)、岐阜(47.6%)。これによって秋田、岩手、鹿児島、福島には恐らくロシア人(スラブ系)かアイヌ人(南欧ラテン系や北コーカサス系)の血が混じり、三重や愛知などは純血モンゴロイドのまま今に至った。混血は美人の源泉というが、東北に美人が多いのは混血のせいかもしれない。
 戦時中もコーカソイドの九州勢の連隊が1番強く、東北勢の連隊が2番目に強く、関東勢の連隊が3番目に強かった。志那大陸系の大阪勢の連隊が1番弱かった。
 近畿・中部・中国は下戸が多い。渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿・北陸・四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。瀬戸内海沿岸は酒に弱い黄河沿岸系だが、高知県は酒に強い長江沿岸系であることが分かる。山陽は渡来人由来に近いが、山陰は縄文人由来に近い。山陽は酒に弱いことから、黄河沿岸系と分かる。
 米国の薬物乱用・精神衛生管理庁は下戸民族の在米アジア5民族(合計8900人)の呑みぐせについて調べた。それによると、過去1ヵ月間に一度以上飲酒をした人の割合は韓国系が51.8%と、日系(49.7%)、中国系(42%)、フィリピン(37.8%)、インド系(34%)を上回った。過剰飲酒(グラス5杯以上)も韓国系が24.6%と、他の四民族の2、3倍高い数値を記録した。あとのフィリピン系は14.5%、日系は14.2%、インド系10.1%、中国系8.1%。日本より下戸の少ない韓国本土では深酒癖に寛容で、在米韓国人も母国の伝統をそのまま引き継いでいる。
 アルコールが変化したアセトアルデヒドを分解できる酵素をもっているかどうかが、酒が強いか弱いかの分かれ道で、その酵素をもっているかどうかは、生まれつきの体質による。遺伝子タイプで特定できる。欧米人はほぼ100%に近い確率で酒豪型遺伝子を持って生まれてくるが、日本人ではその確率は56.4%と半分近くに減る。韓国では酒豪型遺伝子の出現率は71.6%。日本よりも酒に強い人が多い。人間は、デフォルトでは酒は飲めるのだが、酒が飲めない遺伝子がアジア(黄河流域)で突然変異として出現して以来、アジアでは一定数下戸が存在する。酒豪型遺伝子の出現率は県によっても差がある。酒に強い人、弱い人がいる割合は地域でかなり差がある。
(以上)
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