歴史掲示板(渡来人研究会)


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ハプログループI(Y染色体)を色白金髪碧眼高身長とする説は矛盾だらけ
岩石(ハンドルネーム) 投稿日:2022年08月02日 01:01 No.49
 最近のゲノム解析により、ハプログループI(Y染色体)は碧眼遺伝子の担い手であったとされ、高身長との関連性も示唆されている。
 日本の国別の地勢、風俗、気質などを書いた地誌『人国記』(作者不詳、成立年代も室町末期らしい)という本において陸奥国のところに「この国の人は日の本の故にや、色白くして眼の色青きこと多し」と驚くべき記述がある。東北地方の人たちが白人の遺伝子を持っているのなら、青い眼の人が生まれるのも納得がいく。秋田美人などの雪国の色白美人の秘密は白人の血が混じっているためなのかも知れない。「この国の人は日の本の故にや」という記述に注目すると、この文章を読んでまず思い出したのが中国の歴史書『旧唐書』倭国日本伝の記述で、「日本国は倭国の別種なり。その国日辺に在るを以て、故に日本を以て名となす」「あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」ここにはかつて倭国と日本が別の国であったことが記されている。つまり『人国記』の「この国の人は日の本の故にや、色白くして眼の色青きこと多し」という記述は、「この国の人は「日の本」の国の人間のため、肌の色が白く、瞳の色が青いことが多い」という意味ではないか。この本(岩波文庫)の「日の本」の注釈では「日が昇るもと(東)の国」と解説しているが、それでは「色白くして眼の色青きこと多し」の理由説明にならず、文章の意味が通らない故に「日の本」=異人種=蝦夷の住む土地という認識で、「日の本の故にや」と書かれたと思われる。この「日の本」という国については『常陸国風土記』には「この地は、本(もと)、日高見国」という記述や『日本書紀』の「東夷の中に日高見国あり」という記述で記録されている。日高見国とは「日つ上の国」の意で、日の出るほうにある国とされている。つまり「日の本」という意味である。
 ハプログループN(Y染色体)=東北に青い瞳等が1~2割いる。瞳の青い蝦夷は大和朝廷軍に敗れてから全国に広がった。青い瞳は劣性遺伝なので、日本人の遺伝子に隠れている。現代日本人の中にネアンデルタール人の遺伝子が1.4%含まれている。白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ。シベリアで発見されたネアンデルタール人の兄弟種の化石から、その遺伝子の一部がポリネシア人に混入している。青い瞳等は日本でネアンデルタール人→蝦夷(ハプログループN)→北東亜平野で匈奴(ハプログループN)→西シベリアでヨーロッパ人の先祖(ハプログループR)と受け継がれた。
 日本人には黒髪だけなく、ブリュネット(栗毛)、レディシュ(赤毛)、プラチナブロンド(明るい金髪)、ストロベリーブロンド(明るい赤毛)がいるが、ヨーロッパ人等にあるダークブロンド(金髪と茶髪の中間)、アッシュブロンド(少し青い色素がある栗毛)、濡烏(青みを帯びた黒髪)はいない。金髪も劣性遺伝なので、日本人の遺伝子に隠れている。
 ハプログループI(Y染色体)が色白金髪碧眼高身長と主張する説を唱える者がいるが、ハプログループI(Y染色体)が多いバルカン半島は色白金髪碧眼ではない。また、3割が色白金髪碧眼高身長であるタタール人(Q、C2、N)や色白金髪碧眼高身長の蝦夷(えみし) (C、N) にはハプログループI (Y染色体)はないが、ハプログループC、N(Y染色体)はある。
 北欧には色白金髪碧眼でハプログループN (Y染色体)=血液型A型が大部分を占めるフィンランド人(Y染色体ハプログループN1a1・61%、 I ・29%、 R1a ・5%、R1b ・3.5%)、ノルウェーに住むサーミ人(N・48%、I1・約31%)、バルト三国人(エストニア人N・41%、ラトビア人、リトアニア人)等がいる一方、色白金髪碧眼でNが少ないノルウェー人(Y染色体ハプログループI・40.3%、R1a・17.9%~30.8%、R1b・25.9%~30.8%)、スウェーデン人(Y染色体ハプログループI・37.5%、R1a・24.4%、R1b・13.1%、N・4.4%)がいる。バイキングとして集まったバルカン半島のハプログループ I (Y染色体)、アジア特に色白金髪碧眼高身長の蝦夷(えみし)のN(Y染色体)、ゲルマン系のR1a(Y染色体)、R1b(Y染色体)が混血し、北欧人となっていったことが分かる。
 スラブ系は結構Nが多く、ゲルマン系はNが少なく、ラテン系はNがほとんどない。スラブ系のロシア人(R1a・19.8%~62.7%で平均46.7%、N・5.4~53.7%で平均21.6%、I・0-26.8%で平均17.6%、R1b・0-14%で平均5.8%) (色白金髪碧眼)、ウクライナ人(R1a・43.2%、I・27.2%、R1b・7.9%、E1b1b・7.4%、N・5.4%) (色白金髪碧眼)等。
 以上で色白金髪碧眼に共通しているのはハプログループN(Y染色体)だけである。
 色白金髪碧眼が全くいないアメリカ先住民はハプログループQ(Y染色体)かR(Y染色体)かC (Y染色体)かD(Y染色体)であり、ハプログループN(Y染色体)等はいない。
 先住民族のサフル起源のY系統はハプログループC-M130*(xM8、M38、M217、M347)・1%、C-M347・19%、K-M526*(xM147、P308、P79、P261、P256、 M231、M175、M45、P202)・12%、S-P308・12%、M-M186・0.9%であり、ハプログループI(Y染色体)は存在しない。ハプログループC-M347、K-M526 *、S-P308はオーストラリア先住民固有のものである。ニューギニア人とアボリジニのオーストラリア人が3万年以上孤立している。アボリジニの女性や子供は肌が黒いのに金髪である。
 色白金髪碧眼高身長はY染色体ハプログループやmtDNAハプログループではなく、ゲノム(全遺伝情報)で見る必要がある。古いハプログループI(Y染色体)とは関係ない。
 ハプログループCT→DE、CFに分かれた。CF →C(アルタイ系) とFに分かれた。Cは中近東→中央アジア→極東→北アメリカ北西。F→G(コーカサス)→HIJK→H(インド)、IJKに分かれた。IJK→IJ、Kに分かれた。IJ→I(バルカン半島・スカンジナビア半島)、J(中近東)、LTに分かれた。K→K2→K2a、K2b(フィリピン南部以南)、K2c、K2d、K2eに分かれた。K2a→K-M214→NO→N(西日本縄文文明~遼河文明→ウラル系)、O(志那、東南アジア)に分かれた。K2b→K2b1、K2b2 (東南アジア)に分かれた。P=K2b2→Q、Rに分かれた。Q(血液型О型)は極東→ベーリング陸橋→アメリカ、R(血液型A型)は西シベリア→ヨーロッパ・中近東・北インド、北アメリカ北東。K2b1-P378→MS(豪州先住民)→M(ニューブリテン島、ポリネシア、メラネシア)、S(パプア・ニューギニア、ニューブリテン、メラネシア、オーストラリア等)。
 Y染色体は男性にしかないが、女性の色白金髪碧眼高身長はどう説明するのか?色白金髪碧眼高身長のタタール人のあしやさんは女性である。これはどう説明するのか?男性にしかないY染色体を色白金髪碧眼高身長と結び付けようとすること自体に無理がある。
 ある研究者はハプログループI(Y染色体)が色白金髪碧眼高身長と主張しているが、北欧ではハプログループN(Y染色体)とI(Y染色体)が近くにいるため、色白金髪碧眼はI(Y染色体)の方だと勝手に思い込んでいる。色白金髪碧眼高身長はY染色体ハプログループやmtDNAハプログループではなく、ゲノム(全遺伝情報)で見るべきである。色白金髪碧眼高身長はK(Y染色体)から分かれていった新しいN(Y染色体)、S(Y染色体)、R(Y染色体)【ユーラシア大陸に残った者がN(Y染色体)から受け継いだ】に随伴している可能性がある。少なくとも古いハプログループIには随伴していない。ハプログループI(Y染色体)のウィキペディアには嘘を書いている。その原典資料となっている研究が間違っている。研究者の希望的観測による思い込みでしかない。昔からウィキペディアの嘘を訂正してきたが、思い込みの激しい者が意固地になっているため、難儀させられた。
 なお、色白ではあるものの金髪碧眼ではないNが大部分を占める極東連邦管区北東部の端のチュクチ半島に住むチュクチ人(Y染色体ハプログループN-Tat・58.3%、Q-M3・33.3%、R・4.2%、C2-M217・4.2%) (色白)、極東連邦管区西部のサハ共和国に住むヤクート人(Y染色体ハプログループN・94.5%、C2・2.1%、Q・0.5%)(色白)、シベリア連邦管区極北部のガナサン人(N・92%)(色白)、北西連邦管区北東部のネネツ人(N・97%)(色白)等。古遼河沿岸系?

先史ヨーロッパ
前期旧石器時代
 ヨーロッパ地域で最も古い人類遺跡・ドマニシ遺跡(ジョージア共和国)から約180万年前に遡る原人の人骨やオルドワンの石器インダストリーに類似した打製石器が出土した。コザルニカ洞窟(ブルガリア)から約140万年前のヒトの活動痕跡が確認された。西ヨーロッパの初期人類遺跡としてグラン=ドリナ遺跡(スペイン)が有名であり、約90万年前の時期に推定される原人の上顎骨が発見された。前期旧石器時代後半、ホモ・ハイデルベルゲンシス(ドイツ・ハイデルベルク近郊)の痕跡がヨーロッパだけではなく、アジア・アフリカの幅広い地域で分布するようになった。この原人は、ホモ属の進化系統からホモ・ネアンデルタレンシス(ネアンデルタール人)が分岐する直前、もしくは分岐直後の現生人類寄りに位置し、それまでの原人に比べると増大した脳容量や平坦な顔の作りをしていた。
中期旧石器時代(ムスティエ期)
 中期旧石器時代、ホモ・ハイデルベルゲンシスと強い類縁関係を持つ旧人、ホモ・ネアンデルタレンシスがヨーロッパ各地に伝播し、約60万年前から4万年前の間にムスティエ文化を繁栄させる。ルヴァロワ技法による剥片石器を用い、死体の埋葬などの儀礼行為を行った。21世紀以降には化石人類のゲノム分析研究が進み、現代人の持つ遺伝子情報のうち数%はネアンデルタール人に由来することが分かった。ムスティエ文化の主要な遺跡はムスティエ遺跡(フランス・ドルドーニュ)、クラピナ遺跡(クロアチア)、Lynford Quarrys(イギリス・ノーフォーク)等がある。
後期旧石器時代前半(オーリニャック期〜グラヴェット期)
 後期旧石器文化の主な担い手はホモ・サピエンスであり、最も初期のものはオーリニャック文化で、約4万2000〜3万2000年前にヨーロッパ南部で栄え、剥片を多用した。オーリニャック文化に後続する時期にはロシア平原〜クリミア山脈付近を中心に尖頭器を多数出土するグラヴェット文化が栄えた。3万3000年前〜2万4000年前の時代にオーリニャック文化でもグラヴェット文化でも女性像が多く製作された。世界最古の女性像とされるホーレ・フェルスの例をはじめ、ガルケンベルク(オーストリア)、ロシア平原のコスチェンキ、ガガリーノ、アヴデーヴォ遺跡でそれぞれ女性像を出土した。3万年前のチェコや3万5000年前のベルギーの人骨からハプログループC1a2 (Y染色体)が検出されており、このタイプがヨーロッパで最古層の集団と考えられる。
後期旧石器時代後半(マドレーヌ文化)
 オーストリアのヴィレンドルフで2万4000年前〜2万2000前のヴィーナス像(ヴィレンドルフのヴィーナス)が発見された。後期旧石器時代の末期、フランスを中心とする西ヨーロッパ一帯にマドレーヌ文化を担う人々が拡散した(1万7000年前~1万2000年前頃)。オーリニャック文化を母体とした文化は別名マグダレン文化とも呼ばれる。石器組成は石刃を主体とした他、洞窟壁画等の精神活動の痕跡でも知られ、ラスコーやアルタミラ等の洞窟壁画が多数このオーリニャック・マドレーヌ文化期に描かれている。この頃のヨーロッパはハプログループI (Y染色体)に属するクロマニョン人が分布していた。
新石器時代
 西アジア地域における農耕の起源はレヴァント地方の中石器文化であるナトゥフ文化から展開した一連の先土器新石器文化である。1970年代のアッサド湖(シリア)におけるダム工事に伴う発掘調査によってナトゥフ文化から麦農耕・山羊・羊牧畜を伴う先土器新石器文化Bまでの文化系統の推移が明らかになった。西アジアにおける土器の起源もこの地域である。レヴァントの麦農耕がメソポタミア文明を経由して約9000年前にレヴァントと類似する気候の地中海のバルカン半島に伝わり、ヨーロッパ各地に伝播した。初期農耕時代の考古学文化ではディミニ土器等で知られ、大麦や果樹の農耕、牛・豚等の牧畜を行った紀元前5000年頃のセスクロ文化や新石器時代末から青銅器時代にかけヨーロッパ各地に分布した鐘状ビーカー文化等が主要なものである。ヨーロッパに農耕をもたらし、巨石文化を担ったのはハプログループG2a (Y染色体)である。加えて、先住の狩猟採集系ハプログループI (Y染色体)も依然多数発見されており、農耕と巨石文明を受け入れていた。新石器時代に現在ヨーロッパ人口の圧倒的多数を占めるインド・ヨーロッパ語族がヨーロッパに移動した。約6000年前にクルガンと呼ばれる墳丘墓の習慣を持った印欧語系の騎馬民族が黒海北岸からヨーロッパに到来したとする「クルガン仮説」や、アナトリア半島の農耕民が約8000年前に渡欧したとする「アナトリア仮説」等がある。
青銅器時代
 ヨーロッパにおける青銅器の使用は紀元前3000年頃のバルカン半島、特にエーゲ海沿岸地帯から始まり、そこから数千年かけて西ヨーロッパに広がった。農耕と同じように西アジアから伝播した青銅器の使用は交通の発達や遠隔地貿易の促進を契機付け、都市的な集住生活を開始するきっかけとなった。エーゲ海沿岸で繁栄した一連の青銅器文明をエーゲ文明と呼ぶ。エーゲ文明にはキクラデス文明、クレタ文明、トロイア文明が含まれる。これらの文明では線文字A、線文字Bといった文字が残されている。ヨーロッパ西部における青銅器時代の主要な考古学的文化としてはルサチア文化(ポーランド)、北欧青銅器文化等が知られている。この頃、イベリア半島にハプログループR1b (Y染色体)に属する人々が到達し、インド・ヨーロッパ語族の拡散もほぼヨーロッパ全土に至った。
                                   (以上)
ヨーロッパ人の形成(一部は日本の縄文人を形成した)
 通説通り中東から西ルートで来たのは4万8500年前に中東か現在のジョージア付近で誕生したG(Y染色体)=血液型A型、インドのH(Y染色体)=血液型B型、4万2900年前に現在のアルメニア付近で誕生したI(Y染色体) =血液型A型はバルカン半島南部・小アジア北部→スカンジナビア半島、4万2900年前に中東で誕生したJ(Y染色体)=血液型O型であり、西アジアから中央アジアを通って西シベリアに至った北ルートはアルタイ諸語系のハプログループC(Y染色体)であり、西アジアから東南アジア・オーストラリアに至った南ルートはオーストラロイドMS(Y染色体)である。
 ヨーロッパに到達した最初のホモ・サピエンスは、アフリカ以外のすべての世界と同じくY染色体ハプログループC(Y染色体)であった。その中でも最初の分岐に近いハプログループC1a2(Y染色体)である。C1a1-M8(Y染色体)とされる日本最初の渡来人と近縁関係にある。4万年前に始まったオーリニャック文化の担い手と考えられ、ハプログループI(Y染色体)が渡来するまではヨーロッパ人類の主流であった。
 コーカサス地方にあるアルメニア(A型38.5%、O型33.3%、B型19.5%、AB型8.6%)を参考にすると、G (Y染色体)・コーカサス地方=血液型A型(コーカソイド)→H (Y染色体)・インド=血液型B型(熱帯地適応型新モンゴロイド)、I(Y染色体)・バルカン半島&スカンジナビア半島=血液型A型(コーカソイド)、J(Y染色体)・中東=血液型О型と推測できる。氷河期、G (Y染色体)、H (Y染色体)、I(Y染色体)、J(Y染色体)は黒人だった。
 小アジア半島のトルコ(A型34%→R1b=14.7%、R1a=6.9%、G=10.9%、O型43%→E1b1b=10.7%、J1=9%、J2=24%、B型18%→新モンゴロイド、AB型6%→コーカソイドと新モンゴロイドの混血)を参考にすると、6万5200年前に誕生したハプログループE(Y染色体)=血液型O型と推測できる。ハプログループE(Y染色体)=血液型O型から6万年前にハプログループD(Y染色体)=血液型A型が分かれ、日本(天然パーマ・癖毛)、チベット(直毛)、ブータン(直毛)、アンダマン諸島(黒い肌、縮毛)等に到達した。血液型O型が多い志那大陸南部や東南アジアと違い、これらの地域では血液型A型が多い。
 最終氷河期には中近東と南欧は陸続きでハプログループDEは南欧に入った。その後、DE→D(YAP+) (Y染色体)=血液型A型(約6万年前)、E(YAP-) (Y染色体)=血液型O型(6万5200年前)に分かれた。約3万9000年前にイタリア・ナポリ西側で火山の大噴火が起きた。これに伴い、ハプログループD(Y染色体)=血液型A型は黒海北岸(ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)に移り住んだ。2万年前、ハプログループD(Y染色体)は寒いヨーロッパから暖かい太平洋側に東進し、食料のマンモスを追ってコーカサス北部・ウラル南部・シベリア南部・バイカル湖畔・アムール川・樺太・北海道と移動した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。氷河期が終わり、海面が上昇すると、北極海の冷たい海水がベーリング陸橋→海峡を通って親潮(寒流)となって太平洋に流れ込んだ。これにより太平洋沿岸の寒冷化が進み、これに伴い、3500年前、東日本縄文人が南下し、西日本にも広がった。
 4万2900年前に現在のアルメニア付近で誕生したハプログループI (Y染色体)人(クロマニョン人)は狩猟採集民だが、その後にハプログループG2a (Y染色体)人がやってきて、農耕と巨石文明をもたらした。4万8500年前に誕生したハプログループG (Y染色体)は6万5900年前に誕生したハプログループF (Y染色体)の子系統で、4万8500年前にジョージア付近で発生した。非印欧系集団と考えられる。ハプログループG2a (Y染色体)はG (Y染色体)から分離した後、紀元前5000年ころからヨーロッパに移住した。彼らは新石器文化と農耕技術を備え、ハプログループ I2a (Y染色体)人を巻き込んで文明をもたらした。紀元前5000年~紀元前3000年のヨーロッパの人骨の多くはハプログループG2a (Y染色体)である。現在もコーカサスとカザフスタンで最多頻度を示しているが、ヨーロッパではまれな存在となっており、後続人種に駆逐された可能性がある。1991年にアルプス山中で発見された約5300年前の凍結ミイラ・アイスマンはG2a2a1b (Y染色体)だった。あまりにも急激なG2a (Y染色体)人の衰亡は、彼らに対するジェノサイド攻撃があったことを示唆する。凍結ミイラ・アイスマンG2a2a1b (Y染色体)は黒人そのものだった。イギリスでG2a(Y染色体)人を駆逐したビーカー人とケルト人は異なっている?
 ハプログループI (Y染色体)は4万2900年前に現在のアルメニア付近で発生した。下位系統の分岐は3万年前に始まっており、この頃から小アジア・コーカサス方面へ展開を始めた。3万2000~2万2000年前にヨーロッパに至り、コンゲモーゼ文化などを担ったとされる。ハプログループI(Y染色体)はバルカン半島やスカンジナビア半島に高頻度である。I1 (Y染色体)系統がスカンジナビア半島に、I2 (Y染色体)系統がバルカン半島に多い。1万3000年前のクロマニョン人がスイスで出土され、ハプログループ I2a (Y染色体)であることが明らかとなった。このことからクロマニョン人は I2a (Y染色体)人と考えられる。ヘルツェゴヴィナ人63.8%、ルーマニア人48.1%、ボスニア人42.0%、ノルウェー人40.3%、スウェーデン人40%等である。ハプログループC1a2 (Y染色体)に次いでヨーロッパに分布を広げたグループであり、3万2000~2万2000年前にヨーロッパに至った。コンゲモーゼ文化、スウィデリアン文化やクンダ文化の担い手と考えられる。サブグループI1 (Y染色体)は北方人種と、I2 (Y染色体)はディナール人種と分布の相関がみられる。
 以下はハプログループの分布などの証拠からして通説と異なる。
 ヨーロッパ人にはコーカサスG(Y染色体)から広がったI(Y染色体)と、アジアから西北進したハプログループR(Y染色体)、Q(Y染色体)、C (Y染色体)、N(Y染色体)がいた。
 CT(8万8000年前にアフリカで誕生)→T→F(6万5900年前にユーラシアで誕生)→コーカサス地方に多いG(Y染色体) (4万8500年前に中近東で誕生)→インドに多いH(Y染色体)、バルカン半島やスカンジナビア半島に多いI(Y染色体)(4万2900年前にヨーロッパで誕生)、中近東に多いJ(Y染色体) (4万2900年前に中近東で誕生)→アジアで4万7200年前に誕生したK(Y染色体)→P(Y染色体)、NO(Y染色体)、MS(Y染色体)に分かれた。
 ヴュルム氷期(7万年前~1万年前)は現在より海面が140m程低く、①寒流の親潮がベーリング陸橋(約5万年前~約3万5000年前、約2万5000年前~約1万年前)に遮断されていたため、太平洋は大西洋より暖かかった、②現在の東アジアの降水量は夏に非常に多いが、冬はヨーロッパや北アメリカの同緯度と比べて極端に少ないことから、氷河が形成されるだけの降雪が起こらなかった、③東アジアには東西方向に高い山々が連なっているため、氷床の南下が妨げられた、ことが原因で東アジアは氷河化しなかった。ヨーロッパ北部~シベリア北部及び北アメリカ北部は高さ2000mにも及ぶ氷床に覆われていた。このため、人類の大部分は太平洋沿岸の暖かい日本列島~東南アジアに住んでいた。
 東南アジアで4万5400年前に誕生したP(Y染色体)は北上し、東西に分かれて進んだ。スンダランド~北東亜平野で誕生したNO(Y染色体)系統は、O(Y染色体)が志那大陸、日本列島、東南アジアに広がり、N(Y染色体)が極東~北欧までの北ユーラシア一帯に広がった。P(Y染色体)&NO(Y染色体)系統は最大集団。インドネシア・パプアニューギニア・オーストラリア・ニュージーランド辺りのハプログループMS(Y染色体)→M(Y染色体)、S(Y染色体)は少数派。オーストラリア・アボリジニは肌が黒いが、その女性や子供は金髪である。北欧や日本のN(Y染色体)は色白金髪碧眼高身長。ユーラシア大陸北部一帯に多いN(Y染色体)は色白だが、金髪碧眼ではない。O(Y染色体)は東アジアでは肌が白いが、東南アジアでは肌が黒い。P(Y染色体)から分かれたR(Y染色体)やQ(Y染色体)は必ずしも色白金髪碧眼ではない。特にアメリカ大陸のQ(Y染色体)はレッドマンと呼ばれた。
 ハプログループP(Y染色体)はQ(Y染色体)、R(Y染色体)の祖型であり、4万5400年前にインドシナ半島で誕生した。P*(Y染色体)はフィリピン・ルソン島のアエタで高頻度であり、他の東南アジアでも見つかっている。ルソン島ではP2(Y染色体)、P1*(Y染色体)も見られる。ハプログループP(Y染色体) は東南アジア~中央アジア辺りでQ(Y染色体)とR(Y染色体)に分かれた。親系のハプログループP(Y染色体)が非常に奇妙な移動を行っており、現在も不明な点がある。中央アジアに到達したハプログループP(Y染色体)人が2万年前~2万9000年前にハプログループR(Y染色体)に分岐し、その後も東西に移動拡散を繰り返している。恐らく半ば狩猟、半ば遊牧の生活を送った。
 ハプログループR(Y染色体)=血液型A型は大部分が西のヨーロッパ、中東、インドに向かった。一部は北アメリカ北東部に向かい、ハプログループQ(Y染色体)=血液型O型とともにエスキモーとなった。R1(Y染色体)系統は最終氷河期の後に拡散を開始した。R1a(Y染色体)がインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに進出、R1b(Y染色体)が西欧・南欧に進出した。R1b(Y染色体)人は青銅器文明(武器)を伴って西欧まで分布を広げた。今日のバスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に存在する。R1(Y染色体)系統は最終氷河期の後に拡散を開始した。
 ハプログループQ(Y染色体)=血液型O型は北に向かい、大部分がアメリカ大陸に渡った。一部はユーラシア大陸に残り、シベリアを中心に分布するタタール人等になった。
 コーカサス地方のG(Y染色体)=血液型A型、バルカン半島のI(Y染色体)=血液型A型は肌が黒かった。色白金髪碧眼高身長はネアンデルタール人→日本列島先住民・蝦夷(えみし)系のハプログループN(Y染色体)→遼河沿岸で匈奴(フィンランドのフィン人、スカンジナビア半島東半分のサーミ人、バルト三国人、ハンガリー人等)のN(Y染色体)→コーカサス地方北部でR(Y染色体)に受け継がれた。N(Y染色体)、R1a(Y染色体)、R1b(Y染色体)、I(Y染色体)はスカンジナビア半島でバイキングとなり、ヨーロッパ各地に広がった。





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