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書き起こした。。。。。。
名無し 投稿日:2019年07月25日 22:22 No.20
僕はこの1週間冷静ではいられなかった。
焦っていたけど、何かをするべき時ではないと思いとどまった。
だけど、ある文章だけは残しておくべきかと思い書き起こした。

以下、ネットの画像からテキストに打ち直した。
タイプミスや変換間違いがあるかもしれないけどすみません。

以下、書き起こし。


『あまりに痛ましい事件だ。
だが、いつか起こると思っていた。
予兆はあった。例えば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。
アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であると言う自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。
同じころ、もう一方のアニメの雄、東映からも労働争議で多くの人材が放出。
かれらは、それぞれにスタジオを起こした。
だが、これらのスタジオは、アニメの制作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請け的な過労働が常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された「宇宙戦艦ヤマト」は、視聴率の低迷以前に予算管理と制作進行が破綻して打ち切り。
にもかかわらず、時間帯を代えた再放送で人気を得て、77年の映画版として大成功。
当初はSFブームと思われ、78年の「銀河鉄道999」や79年の「機動戦士ガンダム」が続いた。
しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ「翔んだカップル」の実写化で、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり学園物の手応えを感じており、81年、アニメに転じて「うる星やつら」を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。
そして、方向として決定的になったのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」。
SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方がない宇宙人の女の子ラムの夢の世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、「サザエさん」や「ドラえもん」のようなファミリーテレビ番組はもちろん、「ドラゴンボール」や「ワンピース」のような人気漫画を動かしたもの、「ベルサイユのばら」「セーラームーン」のような少女マンガ系、「風の谷のナウシカ」や「AKIRA」のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園ものなのだ。
それも、「ビューティフルドリーマー」終わりなき日常というモティーフは、様々な作品に反復して登場する。
たとえば、07年の「らき☆すた」の最終回24話は、「BD」と同じ学園祭の前日。
エンディングでは、あえて「BD]のテーマ曲を下手くそに歌っている。
つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。
しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の「涼宮ハルヒの憂鬱」2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、「BD」に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。
学園物、高校生のサークル物語、友達話を作り、終わり泣く次回作の公開に追われ続けてきた。
内容が似たり寄ったりの繰り返しと言うだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。
天性の善人とはいえ、社長の姿は、「BD」の「天邪鬼」と重なる。
そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園ものが当たったのか。
なぜそれがアニメの主流となったのか。
中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。
入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。
教室、体育館、登下校。
だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。
もっと上だ。
学園ものは、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことが出来なかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。
それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。
そこに一線があるうちはいい。
だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。
連中は、もとより学園祭体験を求めている。
だからファンなのだ。
そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。
それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

「恋はデジャブ」(93)という映画がある。
これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。
この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。
つまり、主人公の成長を待ってくれる。
だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。
終わりの無い学園もののアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前にすすめていく。
記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。
しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。
こういう連中に残された最後の希望は、自分も夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙に立候補する、アイドルになる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。
時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。
だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。
だから、一発逆転も、また別の夢。
かならず失敗する。
そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽りの夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ。
まずは業界全体、作り手自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製乱造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。』

以上で書き起こし終わり。

言いたいことは分かるような気もする。
だけど、ちゃんと読み直したのかな?
かなり慌てて書いたと思うけど以下の文章があまりよろしくないのは僕でも分かる。

『いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽りの夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ。』

どこがどう悪いのか正確には分からないけど
お亡くなりになった方やその親族、
大けがをされて今なお苦しんでおられる方、
それと会社の関係者が読んで「なるほどそのとおりだ」と思うだろうか。

ちょっと冷静じゃいられなくてごめんなさいね。




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