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日本の街道歩き〔106〕嵯峨街道 ( No.82 )
日時: 2023年12月08日 15:28
名前: 小林 潔
【街道の概要】 嵯峨街道は西国街道の京都府向日町(むこうまち)の五辻付近の追分で分岐して、京都市の嵯峨へ通じる街道である。摂津の高槻から島本、山崎を経て向日町に入り、嵐山へ向う物集女街道(もずめ)と重なっている。平安時代の嵐山、嵯峨地区は皇室や貴族の別荘が多く、大坂方面から嵯峨へ旅する人が通った街道である。
【向 日】 出発は令和5年11月28日の寒い日であった。新幹線の名古屋駅ホームは乗客で混雑しジパング俱楽部会員として乗る「ひかり号」自由席に座れるか心配であったが、辛うじて座れ安堵した。京都駅で在来線の東海道線に乗換え向日町駅で下車する。そこから5分ほど西に向って歩き、阪急の東向日駅に着く。ここから電車で次の西向日駅まで行き街道歩きをスタートする。
 西向日駅は大阪方面へ通勤、通学する乗客で多かったが下車する人は少なかった。直ぐに北へ向って歩き出すと長岡宮朝堂院跡に着く。ここには標柱と説明板が立っているだけで犬の散歩をしている人を見ながら空き地を回った。そこから3分ほどで長岡宮大極殿跡に着く。ここは令和元年に歩いた西国街道(京都~西宮、61㎞、3日間)の時に立寄った所である。
 長岡京は桓武天皇が延暦3年(784年)に奈良の平城京から山背国(やましろ)乙訓郡(おとくに) 長岡村に遷都した古代の都である。ここ大極殿跡は現在の東京の霞が関のような国の役所が建ち並んでいた所である。しかし延暦13年(794年)に京都の平安京に遷都するまでの10年間だけ、日本の首都であった。その後、都は廃墟となり、その所在が不明であったが、昭和36年から始まった発掘調査で徐々に全容が解明された。
 さて見学を終えて西に進み向日市立勝山中学校を過ぎると「五辻」と言う西国街道と物集女街道(もずめ)が交差する地点に出る。ここを右折すると向日神社に着く。ここも以前に通った所であるが、参道が300mもあるので鳥居で礼拝したに留めた。神社の創建は養老2年(718年)で五穀豊穣の神、祈雨・鎮火の神として朝廷の崇敬が篤かった。幕末には坂本龍馬や中岡慎太郎が立寄った記録がある。
 この神社から北へ2分ほど行くと京都府有形文化財に指定されている「須田家住宅」に着く。昔は松葉屋の屋号で醤油製造販売業を営んでいた。この角に街道の道標が立っている。「右・西国街道、中・愛宕道、左・丹波道」と記されている。愛宕道とは物集女街道の事で、私は真ん中の道を進む。暫くすると京都向日町競輪場の前を通るが、まだ午前9時頃なのでガードマン以外には誰もいなかった。向日町市役所を過ぎると街道は一直線に北へ進む。
【物集女】 永田通りの交差点を過ぎると、町の中に小高い丘が見えてくる。これが物集女車塚古墳である。築造時期は6世紀中頃とされ、墳丘長46mの前方後円墳である。乙訓古墳群(おとくに)の一つで乙訓地域の盟主的首長の墓と推定される。住宅地の中に突然、草が生い茂る丘が現れるので異様に感じた。この古墳の周辺が古くから形成されてきた物集女の集落である。物集女の地名の由来は、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)〔現在の大阪府堺市〕の土師氏(はじ)の支族が、この地に移り住んだと言われる。また平安時代の辞書「倭名類聚抄」(わみょうるいしゅうしょう)に乙訓郡の郷名に「毛都米」(もずめ)の表記がある。これが中世以降に「物集女」に変化する。
 物集女街道は古代から多くの人が行き交い物資が運ばれ、戦乱時には軍勢が行き交った道である。街道は物集女郵便局、旭米顕彰碑を通過すると物集女城が近づくが、街道からかなり外れているので道に迷った。悩んでいると若い女性が通り掛ったので道を尋ねる。すると親切にも分かりやすい分岐まで案内してくれた。お陰で無事に物集女城まで辿り着いた。
 物集女城跡は閑静な住宅地の中の小さな公園になっている。本来の城域は東西100m、南北75mの規模であり、現在は堀と土塁が僅かに残っている。築城は室町時代にこの地の荘園の代官であった物集女氏による。しかし戦国時代になり、織田信長が山城国を平定し、細川藤孝の領地になる。その時、桂川西岸一帯の国人(土豪)の領地は細川氏に臣従したため安堵された。しかし物集女氏は先祖代々に亘って自分たちの領地だから臣従できないと拒絶したため、細川藤孝に滅ぼされ物集女城も廃城になる。
 見学を終えて街道ルートに戻ると、先ほど道案内してくれた女性に遭遇し「無事にお城の見学が出来ました。ありがとうございました」と礼を言うと「それは良かったですね。お気をつけて歩いて下さいね」と気遣ってくれた。若いのに礼儀正しい応対に感心し一期一会の出逢いが嬉しかった。その後、天保2年銘の常夜灯と大池を見て、西羽束師川(にしはづかし)を渡ると、向日市から京都市西京区に入る。
【 桂 】 京都市立樫原小学校(かたぎはら)を過ぎると、山陰街道と交差し更に北へ進む。京都府西京警察署を過ぎ国道9号を横断する。次の千代原口の交差点の角に、レストラン「ロイヤルホスト」があったので昼食にハンバーグ定食を食べた。まだ午前10時50分であったが、朝食が5時であったので空腹を感じていた。
 昼食後、軽快に歩き出すと京都市西京区役所と京都市立桂中学校の前を通る。そして阪急嵐山線の上桂駅近くの山田口の交差点を左折して狭い道に入る。紅葉の名所で有名な浄住寺へ行くのに道が複雑なので地図を見ながら悩んでいると、通りすがりの老人が「どちらへ行かれますか?」と声掛けしてくれ、道を教えてくれた。また、そのあと予定していた地蔵院と鈴虫寺までの道も、尋ねてもいないのに気を利かして説明してくれた。親切な人に丁重にお礼を述べた。
 さて浄住寺(じょうじゅうじ)に着くと門前にテントが張ってあり、拝観料800円を払って紅葉真っ盛りの境内に入り、方丈庭園など絶景を堪能する。京都の郊外に位置するので観光客は少ない。寺伝によれば大同5年(810年)嵯峨天皇の勅願寺として創建され、何度も焼失にあっている。黄蘖宗(おうばく)に属し、日本の煎茶の発祥地として有名である。
 その後、通称、竹の寺と呼ばれる地蔵院へ立寄る。室町幕府の管領である細川家が建立した臨済宗の寺院で、庭園は夢窓国師が設計している。また有名な一休禅師が幼少期をこの寺で過ごしている。なお境内が広く竹林で覆われているので「竹の寺」と呼ばれる。
【松 尾】 その後、苔寺の愛称で有名な西芳寺の近くを通るが、予約なしでは入れないので通過する。ここは以前、妻と一緒にクラブツーリズムのツアーで見学した事がある。狭い道を進むと鈴虫寺に着く。正式には華厳寺であり、享保8年(1723年)に創建された寺院である。四季を通して鈴虫を飼育しているため「鈴虫寺」と呼ばれる。
 この近くに西芳寺(苔寺)があるが、1977年から拝観が完全予約制に移行したため、苔寺の参拝者の「おこぼれ」観光客を拾う事を考えた。ところが華厳寺には寺宝がないため鈴虫の音色に禅の悟りを感じてもらおうと鈴虫の飼育を始めた。今では1万匹以上の鈴虫が居ると言う。また鈴虫説法も有名になり一躍、人気スポットになった。しかし紅葉時期は大勢の観光客で行列が長くなるため、入場は諦めて門外から綺麗な紅葉を眺めた。
 鈴虫寺の見学を終えて、ここから先に進むのが大変であった。詳細な街道地図を持参していたが、地図にない人だけが通れる道が迷路のようにあり難儀をした。悪戦苦闘しながら進むと京都花鳥館の裏の駐車場を見つけ車道に出られた。すると朱色の大きな鳥居が目立つ月読神社(つきよみ)に着く。創建は日本書紀によれば顕宗天皇の御代(5世紀)と言われる。主祭神の月読尊(つきよみのみこと)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の兄弟神と言われる。京都の「桂」の地名は山城国風土記によれば、月読尊が桂の木に憑(つ)かれた故事からきている。月読神社は中世になると松尾大社に従属して、松尾大社摂社七社の一つとなる。
 そこから山の裾野に沿って進むと松尾大社に着く。標高223mの松尾山の麓に位置し、大きな鳥居と豪華な社殿を見ると荘厳な気持ちを抱く。大宝元年(701年)文武天皇の勅命で創建された。東の賀茂神社と共に西の王城鎮護社と言われる。中世以降は酒の神様として全国の醸造家からの信仰が篤い。道理で門の周辺に酒樽がたくさん並んでいた。境内には七五三参りで和装の子供たちが歩いていた。また拝殿の前には令和6年用の大きな絵馬が飾られ正月が近い雰囲気を感じた。
【嵐 山】 松尾山の麓の道は寂しく、孤独に歩き続けると小高い丘の上の無量壽寺に着くが「一般の方は参拝できません」の貼り紙があり門扉は閉じられていた。インドのカルカッタに本部を置く宗派で1979年に設立された新しい寺院である。
 天気の雲行きが怪しくなり少し寒くなってきた。まもなく法輪寺に着き、100段以上ある階段をゆっくり登る。本殿前の展望台から嵐山方面の町並みが眼下に見える。しかし、この頃から雨が降り出し、境内にいた数人の参拝者は本堂の横のテントで雨宿りをしていた。
 法輪寺は和銅6年(713年)に行基が創建したが、江戸時代から「十三参り」信仰が盛んになり今でも続いている。「十三参り」とは13歳になった男の子、女の子が参詣すれば、智恵が授かると言う。また境内の横に「電電宮」の小さな社殿がある。昭和31年に新しく建立され、電力、電話、電機、電波、電子などの業界の発展を祈願するため、毎年5月23日を電電宮大祭日と定め、関係者が参詣している。傘を差して境内の紅葉を鑑賞しながら階段を降りたが雨は降り続く。
 桂川が近づいて来ると、人の往来が多くなる。渡月橋に着くと大勢の観光客がひしめいているが、半分以上が外国人である。しかも貸切バスの団体が多く、女性添乗員が振る小旗に引率されて歩いている。しかし雨のため、桂川の河畔には人が少なく三脚は立て易かった。渡月橋から見る嵐山の紅葉は今一であった。渡月橋は平安時代初期、空海の弟子で法輪寺の道昌が架けたが、当初は法輪寺橋と言う名前であった。その後、鎌倉時代に亀山上皇が橋の上空を移動する満月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べ「渡月橋」と命名された。現在の橋は昭和9年に鉄骨鉄筋の桁橋が架けられたが景観を考慮して木製の橋に見せる工夫がしてある。また嵐山の地名の由来は、桜や紅葉を「吹き荒らす山」から転じて「嵐山」と名付けられた。この辺りは、平安時代の貴族が舟遊びに興じた所であるが、桜、紅葉の他にも夏は鵜飼、冬は雪見と通年で親しむことが出来た。そのため皇族や貴族の別荘が多く並んでいた。
 渡月橋の袂に橋の名前が書いてある所で写真を撮りたかったが余りの混雑さで諦めかけた。しかしダメ元で通行人にシャッターを押してもらうよう依頼してみた。だが日本語が通じない。中国人であった。私の作った「嵐山」の横幕を広げてスマホを渡すと、彼女はすべてを理解し、周辺の邪魔になる外国人を英語でまくし立て、排除してシャッターを押してくれた。なんと痛快な女性だと思った。何度も英語でお礼を述べた。
 その後、渡月橋から北へ進むと昔の「美空ひばり館」の建物を見た。現在は「嵐山三芳亭」という和牛と京豆腐の料理屋に変っていた。直ぐ近くの天龍寺の山門を潜り参道を進むが絶景の紅葉見たさの観光客が大行列を作っている。天龍寺の作庭は多治見の虎渓山永保寺の庭を作った夢窓国師であるため、約20年ぶりに是非とも見たかったが諦めた。天龍寺は1994年に世界遺産に登録されただけあって人気は凄かった。
【嵯 峨】 次に有名な竹林のトンネルを歩くが、ここも外国人だらけで混雑していた。人力車もゆっくりしか進めないようだ。しかし、ここで嬉しい光景を見た。予想外に和服姿の観光客が多かったが、顔を良く見ると半分くらいは外国人である。ぎこちない着方であるが、日本の伝統衣装を身に着けて歩いているのは、日本文化を忖度している証拠だと思い嬉しかった。観光客で賑わう竹林は空が見えなくなる程の背丈が高い竹が続き、人気スポットである。
 竹林を抜けると野宮神社(ののみや)に着く。この神社は伊勢神宮に仕える斎王(未婚の皇女)が伊勢に赴く前に身を浄める場所で、源氏物語「賢木の巻」に登場する。ここでも写真を撮る時、4人連れの女子大生グループの一人に撮影依頼すると、邪魔な人に声掛けしてくれてシャッターを押してくれた。気の利く人が多いので気分良くした。
 次にJR山陰本線の踏切を渡り、嵯峨公園のトイレで小用を済ませて、北西方面へ向うと落柿舎(らくししゃ)に着く。前日のテレビ番組「嵐山の紅葉」で取材を受けた管理人がチケット売り場にいたので「あっ!昨日、テレビに出られた方ですね!」と言うとニッコリ笑って「ありがとうございます。散策されたあとに、宜しかったら俳句を詠まれ、投句箱に入れて下さいませ」と言われ、投句用紙を渡された。ここは松尾芭蕉の高弟、向井去来が住んでいた庵である。
 俳人の去来は、ある時、庭の40本の柿の実を京都の商人へ売る事にして代金を既に貰っていたが、前夜に嵐がきて一晩にして柿が全部落ちてしまい、泣く泣くその代金を返金した。そこで去来が一句詠んだ句が「柿主や梢はちかきあらし山」。この句の意味は「柿が全部落ちてしまったので見晴らしが良くなり嵐山が美しく見えるようになった」と悔しさを隠して見栄を張っている。「落柿舎」の語源は「柿が落ちる舎(ありかの意)」である。私も、ここで一句詠んだのが「落柿舎の茅葺屋根に紅葉散る」
 私が尊敬する松尾芭蕉は一時、ここに滞在して「嵯峨日記」を著している。私が芭蕉を尊敬するのは俳句の達人であり、街道歩きの達人であり、紀行文の達人だからだ。芭蕉が歩いた街道と紀行文は、①野ざらし紀行(江戸・伊勢・奈良・京都・尾張・甲斐・江戸)、②鹿島詣(江戸・鹿島・筑波・江戸)、③笈の小文(江戸・名古屋・伊賀・伊勢・吉野・大阪・明石)、④更科日記(美濃・木曽・更科・江戸)、⑤奥の細道(江戸・奥州・北陸・大垣)、⑥嵯峨日記(落柿舎に滞在した日記)である。
 私は59歳から15年間かけて日本全国の街道を97回も歩いている。街道の距離、回数、紀行文の執筆数は内容はともかく、数の上では芭蕉に勝っている!
 最後に二尊院(にそんいん)を参拝する。平安時代初期に嵯峨天皇の勅命により建立されたが、応仁の乱で焼失するも摂関家や豪商の援助で復興している。二尊院の総門を入ると「紅葉の馬場」と呼ばれる参道があり、紅葉の絶景ポイントである。私が訪れた時も紅葉真っ盛りで感嘆した。また小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ場所でもある。そして「小倉あん」の発祥地としても知られている。
 ここでも外国人の団体客が大勢いたが、中に団体からはぐれスマホで仲間と電話をしている人がいた。すると電話中に私に「ココハ、ナントイウ、テラデスカ?」と、たどたどしい日本語で尋ねてきたので「ニソンイン」と答えると、電話の相手に「ニソイニン」と話していた。言い間違いではなく、聞き間違いである。
 なお「嵯峨」の地名の由来は、京の洛西の山々が「険し」(発音は、さがし)と言われた故である。さて時間を大幅に超過したが嵐山、嵯峨の名所巡りを終えてJR嵯峨嵐山駅へ向った。電車は夕方の通勤通学で混み合い、京都駅まで立ちっぱなしであった。帰りの新幹線もほぼ満席であったが、空席を見つけ、持参した焼酎とつまみを取出し、自分で撮った街道写真を見ながら、チビチビ飲んで名古屋へ向った。


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