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日本の街道歩き〔105〕淀街道 ( No.77 )
日時: 2023年11月20日 16:15
名前: 小林 潔
【街道の概要】 延暦13年(794年)京都に平安京が造営された時、その玄関口である羅城門(羅生門)と桂川の川湊である納所(のうそ)を結ぶ街道が造られた。大坂方面から淀川の舟運で海産物を始め、平安京の人々の生活に必要な物資が運搬され、納所に倉庫が設置された。現在の淀にある納所の地名由来は「納めた物品を保管する所」から来ている。
 平安時代には街道は南北に一直線であったが、度重なる戦乱や災害等で時代の変遷と共に道は蛇行するようになった。当初は「鳥羽作り道」と言われ、別名、鳥羽街道とも呼ばれた。また大阪へと道が通じているので後に「大坂街道」「京街道」と言う名前も使われた。
 幕末に新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争の時、この周辺が「鳥羽伏見の戦い」の主戦場となったので、双方の軍勢が、この淀街道を往来している。
【京 都】 当初、計画していた出発日が雨天になったため、翌日に順延して、令和5年11月11日に出発した。当日の朝は冷え込みが厳しかった。名古屋駅の新幹線ホームは予想外の人出で大変混雑していた。車内には大勢の外国人乗客がいて、完全にコロナ禍が収束したと感じた。
 京都駅から近鉄電車に乗換えて東寺駅で下車してスタートする。この東寺駅は令和元年10月に西国街道(京都~西宮、61㎞)を歩いた時と同じ出発地点である。東寺駅から西へ九条通りを進むと右手に大きな五重塔が見えて来る。奈良の平城京から京都の平安京に遷都してまもなく東寺は建立された。羅城門の東西に東寺と西寺が国家鎮護の官立寺院として建設されたが、現在は東寺のみが残る。後に嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され真言密教の根本道場として栄えた。鎌倉時代から弘法大師信仰の高まりと共に、「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集める様になり、平成6年に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。なお、境内に聳える五重塔は高さ55mで日本一の高さを誇る。これまで4回も焼失しており、現在の塔は5代目である。寛永21年(1644年)に3代将軍の徳川家光による寄進である。
 さて参拝と見学を終えて西へ10分ほど歩くと羅城門跡に着く。平安京の朱雀大路の南端に設けられた都の玄関口の大門である。この門が京の内外を分ける境界である。天元3年(980年)の暴風雨で倒壊した後は再建される事なく、現在は住宅地の隅にある小さな公園に石碑がポツンと立つだけである。
  この羅城門から南へ一直線に伸びる道が淀街道である。別名、鳥羽街道とも呼ばれる。昔の朱雀大路を通る千本通(せんぼんどおり)があるが、現在は西に新千本通があるので、淀街道は旧千本通と呼ばれる。昔は道幅が広かったが現在では狭くて微妙に蛇行している。そのため昔の本通りが今では裏通りに変ってしまった。
【鳥 羽】 「九条旧千本」の交差点を過ぎると京都府立鳥羽高校、京都醸造の工場を通過して上鳥羽郵便局に着く。ここで寒さが和らぎ防寒着を脱いで水分補給と持参したチョコレートを食べ暫く休憩する。
 その後、右手に西高瀬川を見ながら南下すると浄禅寺に着く。小さな寺であるが門前の庭園に趣があったので寺に入る。寺伝によれば寿永元年(1182年)文覚上人(もんがく)の開基であるが「恋塚」の物語が有名である。平安時代末期に北面の武士の遠藤盛遠(もりとお)は渡辺左衛門尉源渡(みなもとわたる)の妻である袈裟御前に恋してしまった。盛遠は袈裟に渡と別れて欲しいと迫ると、彼女は夫を殺してくれと言う。彼女は不倫など出来ず操を守るため、自分が夫に装って身代わりとなり、盛遠は間違えて袈裟を殺してしまうと言う悲恋物語である。自分の罪を恥じた盛遠は武士を捨てて出家し、文覚上人となり袈裟御前の菩提を弔うため浄禅寺を建立したと言われる。そんなエピソードを知って男と女の関係は昔も今も変る事がないと思いながら寺を出た。
 名神高速道路の高架を潜ると左手に京都南I,Cが見える。鴨川に架かる小枝橋を渡るが橋には広い歩道があり川面を見ずに渡れるので高所恐怖心は起きなかった。まもなく国道1号線を横断すると森に囲まれた城南宮に着く。朱色の鳥居を潜ると荘厳な社殿があり、折しも七五三参りの時期とあって、子供を連れた家族連れで賑わっていた。城南宮は平安京遷都の際、都の南に国の守護神として創建された。平安時代後期に白河上皇が院政の拠点として鳥羽離宮を造営すると一層、賑わいが増し南隣に「城南離宮の庭」が造られ、今も有料公開されている。広い日本庭園で垣根越しに見てもウットリするほど素晴らしい庭である。しかし時間が無く、入場料800円と高額だったので引返した。
 なお、先ほど渡った小枝橋から城南宮あたりに掛けては、幕末の戊辰戦争の主戦場になり「鳥羽伏見の戦い」として歴史上、有名な所である。旧幕府軍と会津、桑名藩からなる大軍と、新政府軍の薩摩、長州、土佐藩等の諸藩の少ない軍勢が激しく戦ったが、新政府軍が勝利し旧幕府軍は淀街道(鳥羽街道)を淀方面へ退却した。ここで少数の新政府軍に大軍の旧幕府軍が負けたのは、官軍が初めて「錦の旗」を掲げたため賊軍にされたと思い戦意が低下したのと、総大将の15代将軍の徳川慶喜が夜中に敵前逃亡し、残された将兵が呆れかえったためと言われる。
 次にそこから西へ10分ほど歩くと鳥羽離宮跡に着く。現在は鳥羽離宮公園として野球場やサッカー場などがあり、公園の片隅に石碑があるだけで当時の面影は全く無い。鳥羽離宮は応徳3年(1086年)に白河天皇が退位後に院政の拠点として造営した院の御所である。鳥羽殿(とばどの)、城南離宮とも呼ばれる。朱雀大路の延長線上に立地し、鴨川と桂川の合流地点の近くにあり、この辺りは貴族たちの狩猟や遊興を行う風光明媚な所であった。そして貴族の別邸が建ち並ぶ小さな都市であった。しかし平安時代末期に平清盛が後白河法皇を幽閉して院政が終了すると離宮の機能が無くなる。また南北朝時代の戦火によって、鳥羽離宮の建物が焼失したため荒廃していった。
 次に千本通赤池から更に南下すると恋塚寺(こいづかでら)の前を通る。先ほど立寄った浄禅寺と関係がある寺である。盛遠が源渡の妻の袈裟御前に横恋慕したあげく、誤って袈裟を殺害した己の非道を深く恥じ、彼女の墓をこの寺に造ったが、その宝篋印塔を「恋塚」と呼んでいる。
 鴨川の堤防沿いに街道は続く。平成25年の台風18号により京都は大雨洪水の被害にあったため、これを契機に大規模な「鴨川改修」と言われる工事が今でも施工中である。この鴨川の河原に「鳥羽の大石」が三つ並んでいる。寛文2年(1662年)京都に大地震が発生し、二条城も大被害を受けた。その修理のため城郭石材を瀬戸内海から水運で鳥羽の湊まで運ばれたが、途中、石材が船から落ちて川底に沈んだと言う。それが平成時代になって発見された。
 次に法傳寺(ほうでんじ)を参拝する。神亀3年(726年)行基によって創建されたが、木魚念仏の日本最初の寺として有名である。また慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いにおいて旧幕府軍は多数の負傷者を出したが、この寺で民衆が負傷者の手当てをして、さながら野戦病院のようであったと言う。また境内には大きな「精忠碑」が立てられているが、日清戦争、日露戦争、支那事変、大東亜戦争の戦死者の供養塔である。
【横大路】 さらに街道を南下すると一念寺(いちねんじ)と言う小さな寺に立寄る。庭が美しく、境内には「法然上人御乗船・舟繋石」が置いてあった。まもなく鴨川と桂川が合流する「佐比の河原」に着く。近くの塔ノ森あたりが葬送の地であったと言う。この近くには桂川に架かる羽束師橋(はづかし)があり、車が上段、人・二輪車が下段の二階建て橋である。この橋の袂に藤田権十郎の屋敷がある。藤田家は横大路村の庄屋を務める一方で川運の運送業を営んでいた。大坂から淀川で運ばれてきた物資を陸路で京都まで運ぶ事業をしている資産家であった。
 少し先に京都市立横大路小学校があり、直ぐ近くに「魚市場跡」がある。桂川と鴨川が合流する横大路村には草津湊と呼ばれる川湊があり、大阪、紀州、淡路、瀬戸内海で獲れた鮮魚が淀川を溯る舟で、この地に荷揚げされた。湊には江戸幕府の命により公設市場が開設され、多くの問屋が軒を連ねていた。江戸時代前までは日本一大きい都市である京都を維持するための流通機構が整備されていたのに感心した。
【納 所】 桂川沿いに南下すると納所(のうそ)の集落に入る。途中、戊辰役東軍戦死者埋骨地の石碑や和泉屋公園を過ぎると古い町並に入る。ここで淀古城を探すが見当たらず、地元の人に尋ねてやっと妙教寺(みょうきょうじ)に辿り着く。
  淀古城は室町時代中期に畠山政長によって築城され、槇島城と並ぶ洛南の二大軍事拠点であった。また対岸の山崎城と並んで西国方面に対する京都の要害で、東側には現在存在しない巨椋池(おぐら)が広がっていた。応仁の乱では畠山氏と細川氏の対立が激しくなると幾度も戦場になった。さらに織田信長が上洛した後、淀古城は織田軍の手に落ちている。天正10年(1582年)の本能寺の変の後、明智光秀が改修した記録がある。また、豊臣秀吉が天下人になってから、弟の秀長が淀古城を改修し、秀吉の側室の茶々が、ここで鶴松を出産する。その関わりから「淀君」と呼ばれた。
 その後、甥の秀次が秀吉の養子となるが、二人に軋轢が生じ、秀次が切腹すると淀城は廃城となる。その後、江戸時代となり、城跡に法華宗の妙教寺が建立された。現在は往時の面影はまったく無く、妙教寺に小さな石碑が立つのみである。
【 淀 】 淀古城跡の見学を終えて淀駅方面に向かって歩く。桂川に架かる宮前橋付近で食事処を探すが無く、京阪電鉄の淀駅前まで行き、小さな寿司屋に入る。狭いカウンター席が7人分しかない。古びた安普請の店であったが、ここで海鮮丼を食べた。しかし、刺身は驚くほど身が大きく美味しい海鮮寿司を堪能した。店の名前は魚楽(ととらく)。
食後、駅前商店街を抜けて淀城を訪れた。秀吉の側室の淀君が一時住んでいた淀古城は桂川と宇治川の合流点の納所にあるが、淀城は南へ500mの位置にあり、宇治川と木津川の合流点にある。築城は江戸時代の元和9年(1623年)松平定綱が所領3万5千石で入封し淀城が建設された。その後、城主が目まぐるしく変り、石川氏、戸田氏、松平氏、稲葉氏と続き、明治維新を迎える。
 幕末の鳥羽伏見の戦いに敗北した旧幕府軍は、淀城に逃げ込もうとするが、旧幕府軍が不利とみて、戦争の最中に淀藩は新政府軍に寝返ったため、敗残兵は行き場を失い、沢山の戦死者を出した。
 淀城の見学を終えて淀川河畔へ行くと、「淀川瀬水車旧跡の碑」が立っている。淀には昔から水車が多く設けられ、12世紀の「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にも「淀の川瀬の水車」と詠まれている。特に淀城の北側の桂川と宇治川の合流点付近には、直径が8間(約15m)の水車があって、川の水を淀城に引いていたと言う。
その後、帰途に就くため京阪淀駅に行くが、駅前広場に大きな水車のレプリカがあった。淀駅の隣に京都競馬場がある。明治40年に島原競馬場として開設され、大正2年に須知競馬場に改称され、大正14年に現在地に移転した。通称、淀競馬場と呼ばれる。以前の京阪淀駅は淀城正門前にあったが、平成21年に競馬場へ来る客の便宜を図り、北へ300mの現在地に移転された。高架の淀駅から競馬場が良く見え、私が電車に乗る時、パドックに馬が行進するのを競馬ファンが品定めしていた。
ここから電車で京都の東福寺駅まで行き、JRに乗換えて京都駅へ向った。新幹線は自由席であったが、ちょうど京都の観光シーズン真っ最中であるため、ほぼ満席であった。何とか席を見つけて持参した焼酎をチビチビ飲みながら疲れを癒した。


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