皆様の掲示板 > 記事観覧
日本の街道歩き〔104〕西尾街道 ( No.76 )
日時: 2023年11月03日 17:56
名前: 小林 潔
【街道の概要】 東海道の知立宿から安城を経て西尾城に至る街道である。西尾藩の殿様が参勤交代で江戸へ向う時、東海道の知立宿までは、この西尾街道を利用していた。また三河の幡豆地方の人が京都に上る時に通行した街道であり、吉良街道の別ルートでもある。途中、西尾市内で平坂街道(西尾~豊川、45㎞)と交差している。ただ脇街道であるため、街道沿いには史跡が少ない。
【知 立】 出発は令和5年10月13日。名鉄知立駅で下車するが、平日のため通勤通学者で混雑していた。しかし駅から離れ商店街を歩くと車も人も少ない。ここは旧東海道のルートであり、宿場町として栄えた所である。私は平成24年に東海道を京都から東京に向って歩いた時に、この道を通っている。
 まもなく東海道から分岐して西尾街道をスタートする。名鉄の三河線と名古屋本線の二つの踏切を越すと、県道298号から分れ、古い町並の弘法通りに入る。この商店街には知立名物の「あんまき屋」が多い。あんまきの歴史は、江戸時代中期に小麦粉と小倉餡を用いた菓子が考案されて、東海道を往来する旅人によって美味しさが評判となり、またたく間に広く知れ渡った。近郷の大名への献上品にもなり、今に伝わる知立名物となった。明治22年、知立神社の参道の茶店から和菓子屋に転じた「小松屋本家」が知立あんまきの元祖である。藤田屋の方が有名であるが元祖ではない。
まもなく立派な山門がある弘法山遍照院に着き参拝する。遍照院は三河三弘法の第一番札所であり、弘法大師(空海)が42歳の弘仁6年(815年)に東国巡錫(じゅんしゃく)の際に、この地に1ケ月間、逗留し弘法大師自身により創建された寺院である。地元民の信仰が厚く日頃から参拝者が絶えないと言われる。私が参拝した時は、弘法大師ご生誕1250年の記念慶讃法要が10月22日に実施されると案内板が立ててあった。
 参拝を済ませて猿渡川に架かる弘法橋を渡ると小さな地蔵堂の横に西尾街道の道標が立っていた。「左・西尾、野寺道 右・高浜」と記してある。細い道を進むと長照寺を過ぎ新林町に入るが、暑さが増して汗だくになったので、休憩して水分補給とチョコレートを食べる。休憩後、知立南小学校を右手に見ながら谷田神明社(やた)を通過する。まもなく吹戸川に架かる谷田橋を渡ると、知立市から安城市に入る。
【安 城】 二本木新町の高津神社あたりから所どころに商店が散在している。県道298号と県道12号が交差する三河安城駅北の交差点では、直射日光のため汗だくとなったので、日陰で休憩しておやつの煎餅を食べる。JR在来線と新幹線の三河安城駅付近の高架を越えて県道48号に入る。直ぐに県道48号から外れ、狭い県道12号に入ると急に車の通行量が少なくなる。
  箕輪町の交差点に着くと西側に立派な光明寺の山門が立っている。見上げるほどの大きな松の木が聳えている。光明寺は元禄2年(1689年)駒場村(現在の豊田市)から移転し「西方山光明寺」と言う寺号が命名された。そもそも光明寺は中世の箕輪城の跡地に建てられている。箕輪城は天文元年(1532年)に浅井道介が築城したが、浅井氏は刈谷の水野氏と組んで三河の松平氏と争った。しかし松平氏に敗れ、箕輪城は廃城となった。その後、光明寺が建立されたが明治時代の初めまで本堂の裏に堀の跡が残っていた。今は何もなく山門の前に説明板が立っているだけである。
 なお光明寺の山門の隣に西尾街道の古い石道標「右・ふかま道、左・にしお、のてら道」が立っている。古い道標は摩耗が激しくて読むことが困難な場合もあるが、それを解読するのも歩き旅の楽しみである。参拝を終えて長田川の小さな橋を渡ると左手にピアゴ釜福店が見えてきた。時刻は11時半頃で、お腹が空いてきたところであったので、食品売り場で寿司弁当を買って店内で食べた。昼食のあと、県道12号を南へ進む。
【赤 松】 街道筋は家がまばらに並ぶ田園地帯に入る。赤松町の西ノ山付近では大豆畑が一面に広がり、ここで街道写真を撮る。枝豆がぶら下がっているのを見ると冷えたビールが欲しくなる。そこから更に南下すると半場川の小さな橋を渡り、近くの木陰の下で休みタップリ水分補給をする。
 休憩後、少し進むと右側に安城デンパークの敷地が見えてくる。DCM安城赤松店の前を右折して街道筋から外れる。かつて「日本のデンマーク」と呼ばれた歴史を基に造られた花と緑の広大な公園である。芝生広場の周りにはヨーロピアンスタイルのガーデンや花の大温室フローラルプレイスなどがあり、四季折々の美しさを見せてくれる。デンマーク風車のある広場には子供に人気のある木製遊具やローラー滑り台もある。また地ビールレストランや郷土料理レストランがあり、1日タップリ楽しめる公園である。私は東ゲートの前で写真を撮っただけで時間がないので街道ルートへ戻った。
 デンパークから15分ほど歩くと浜松公園に着く。ここは地図にもない小さな公園であるが説明文を読むと意外な事が分かった。明治用水を築造した岡本兵松は文政4年(1821年)大浜村(現在の碧南市)に生まれ、嘉永6年(1853年)32歳の時、碧海台地への灌漑用水建設計画の実行に着手した。並々ならぬ苦労と多大な尽力により明治13年に明治用水が通水した。現在では1万800haの農地が、その恩恵を受けている。
 この公園の直ぐ東側に明治用水東井筋が流れており、西尾街道はこの付近で最も隣接している。さて街道は更に南下するが、足の疲れが激しくなり石井町付近で長めの休憩を取る。まもなく左手にアイシン精機西尾工場が見えて来ると、安城市から西尾市に入る。
【米 津】 国道23号の高架を潜り中根町に入ると車の通行量が多くなる。まだ暑さが収まらず予想外の水分補給をするも、手持ちの3本を飲み干したので、セブンイレブン西尾米津店で1本購入する。そこから更に南下すると、現在話題の「ビッグモーター西尾店」の前を通る。店には客は一人もおらず店員が一人だけでパソコンの前で暇そうにしていた。店の前をよく見ると、枯れた街路樹が寂しく立っている。葉を付けていないので道路からは「ビッグモーター」の大きな看板が良く目立つ。意図的に除草剤を蒔いて枯れさせ、看板が良く見えるようにした行為だと理解できた。恐らく倒産は時間の問題であろうと感じた。
 その近くの名鉄の米津駅に立寄りトイレを借用したあと、矢作川に架かる米津橋を渡る。思ったより長い橋で高所恐怖症の私にとっては西尾街道最大の難所であった。
【西 尾】 西尾市内に入り名鉄西尾駅前の観光案内所へ立寄り地図とパンフレットを貰う。西尾城がある西尾歴史公園へ向うが車の通行量と信号が多い。西尾市は抹茶の名産地として知られており、市内いたる所に抹茶の看板を見かける。西尾茶の起源は文永8年(1271年・鎌倉時代)実相寺の境内に聖一国師が茶種を蒔いた事から始まる。温暖な気候、矢作川の川霧と土壌が茶の栽培に適した。そして栽培・生産が本格化したのは明治時代初め頃で、茶畑が大きく開墾され、今では稲荷山茶園となっている。平成17年に「東海・美の里百選」に選定された。
 さて歴史公園が近づくと、まず尚古荘を見学する。昭和初期に米穀商の大黒屋・岩崎明三郎が建てた邸宅で日本庭園が美しい。その近くに西尾小学校があり、正門は西尾城の東之丸太鼓門の跡である。西尾城の二之丸御殿の表門は鍮石門(ちょうじゃく)と呼ばれ平成8年に再建された立派な門である。城内に入ると二之丸天守閣跡の隣に「旧近衛邸」がある。京都の近衛邸内にあった書院と茶室を移築したものである。摂関家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房の夫人の実家である薩摩藩の島津家によって建てられたものである。そこから城内の奥へ進むと西尾神社があり、参拝してから本丸丑寅櫓へ向う。三層の天守閣に見えるが櫓である。
 西尾城は室町時代、三河国守護の足利義氏が築城したのが始まりで、吉良氏が一時居城したが、天正13年(1585年)酒井重忠によって整備された。その後、田中家、本多家、太田家、大給松平家と城主が変り、明治維新を迎える。現在は他に天守台の石垣と土塀が残り、城内には桜並木が連なっている。私が見学した時には、犬の散歩や老人ホームの人たちがベンチでくつろいでいた。市民の憩いの場である。
  さて予定より時間を多く費やしたが名鉄西尾駅まで疲れた足を引きずるように歩く。電車の車窓から、これまで歩いて来た街道を眺めながら景色を楽しむ。名鉄新安城駅で乗換えて金山駅でJR中央線に乗車する。車内では疲れを癒すため、持参した「いいちこ焼酎」を飲みながら帰宅の途に就いた。


▲ページの最上部に移動 | トップページへ
Powered by Rara掲示板