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日本の街道歩き〔102〕高須街道 ( No.63 )
日時: 2023年05月16日 23:50
名前: 小林 潔
【街道の概要】 美濃国、高須藩(現在の岐阜県海津市)は松平家3万石の小藩であるが、徳川御三家筆頭の尾張藩の支藩として存在した。高須街道はその高須城から名古屋城へ出府するための街道である。
 長良川、木曽川を越えて、八開、佐織を通って勝幡で津島街道に合流する。そこから新川に出て、更に美濃街道と合流して名古屋城へと繋がっていた。高須街道のルートは濃尾平野の真っ只中の田園地帯を通っていたが、明治維新以降、農地整理や区画整理で旧道はほとんど消滅しているので近傍の道を歩く事になる。
【佐 織】 出発は令和5年5月11日。名鉄勝幡駅で下車すると、駅前に織田信長が両親(織田信秀と土田御前)に抱かれた赤ちゃん像が立っている。そこから津島街道を少し北へ向うと勝幡神社があり、道中安全の祈願をする。その先の三宅川に架かる那古良橋(なこらばし) を渡って勝幡城址へ向う。
 勝幡城の城域は尾張国の海東郡と中島郡に跨っており、現在の愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪の両域に広がる。天守閣は無く二重の堀に囲まれた館城であった。戦国時代の覇者、織田信長の生誕地は、以前、名古屋の古渡城か那古野城というのが通説であったが、最近の研究では勝幡城が有力となっている。
 城の位置を示す表示は2ヶ所ある。一つは大きな石碑と黄色の看板がある所と、そこから300mほど南へ行った三宅川沿いに「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」と表示してある小さな石碑である。2つは城域の北端と南端に位置している。
 勝幡城は戦国時代の永正年間に織田信定が築城したが、当時のこのあたりの地名は、「塩畑」(しおばた)と呼ばれていた。信定の息子の信秀(信長の父)が縁起が悪い地名だと言う理由で「勝ち旗」の意で「勝幡」に改名された。後に弾正忠家の本拠地が清洲城に移ると、武藤掃部は尾張野府城へと転属したため、勝幡城は次第に価値がなくなり、やがて廃城となった。
 見学のあと、日光川に架かる小津橋を渡り、右折する。津島街道は直進するので、ここが街道の追分である。高須街道は、ここが起点となり、日光川の支流の領内川の右岸沿いを遡る事になる。旧道は道幅が3m程度で車も人もほとんど通行がない。
暫くすると国道155号と名鉄尾西線と交差するが、直進できず、かなり大回りして川岸へ戻る事になる。領内川緑地公園の中に街道は通っているが、道の両端に可憐な花が咲いていて癒される。草平橋を右手に見ながら進むが、時々、川沿いの道がなくなり迂回しながら進む。
【八 開】 街道は領内川に架かる西川端橋に着くが、ここから先は道が無く、止む無く西川端橋を渡って、少し先の別の橋を渡り街道筋に戻る。しかし地図通りに進めず、大雑把に進行方向を見定めて田園地帯を進む。あらかじめ予定していた定納白山神社が分からず、諦めて前へ進む。とにかく昔の道はまったく存在せず、北西方向にジグザグに進むしかない。
 暫くすると小さな川にぶつかり橋を渡るが、直線的な川なので人工の水路だと想像できる。地図を見ると「海部幹線水路」(あまかんせんすいろ)と表示してある。愛知県西部を流れる用水路で、水資源機構が管理している。海部幹線水路は木曽川馬飼頭首工から取水して、稲沢市、愛西市、弥富市、飛島村、三重県の木曽岬村、長島町へと供給されている。総延長は38kmで水路調整堰が59ヶ所もある。
 昭和25年に国土総合開発法により、木津用水、宮田用水が着手され、後に大規模な愛知用水、濃尾用水も着手された。しかし佐屋川用水を含めた濃尾第二地区は発展する中部経済圏の都市用水需要の増大を受け、農業用水を含む総合用水として着手された。私が見た水路はかなりの水量があり、需要を満たすには十分な施設であると感じた。
 街道は八開(はちかい)の田園地帯を進むが、所どころに水田とは異なる沼のような場所が点在している。昔の八開村、立田村周辺では蓮根畑が多い。この地域で蓮根の栽培が始まったのは江戸時代の天保年間である。当時の戸倉村(現在の愛西市戸倉町)の陽南寺の住職、龍天師が門前の田圃に植え付けたのが始まりである。
 現在では栽培面積が約500ヘクタールあり、出荷量は約8000トンである。蓮根の「日本三大産地」の一つと言われるが、蓮根の産地ランキングをネット検索すると、1位は茨城県、2位は佐賀県、3位は徳島県で、4位が愛知県である。現在はベスト3に入っていないが、愛知県では蓮根栽培の従事者が高齢化して以前より生産量が減少しているようだ。
 蓮根畑を見ながら歩いていると、予期しないアクシデントに見舞われた。スマホで写真を撮ったあと、ポケットに仕舞ったつもりが、実はベストの内側に入っただけで、歩き始めたら、ポロリと落ちて舗装道路に叩きつけられた。あ~、これまで撮った写真がすべて水の泡になってしまった。えらい事になってしまった。「悔し~い」と諦めかけたが、念のため操作してみたら、壊れていない事が分かり、胸を撫で下ろした。
【木曽川・長良川】 八開の田園地帯を抜け八幡神社で少し休憩し、県道128号の藤ケ瀬に着く。ここから西へ進むと赤い橋が見えてくる。木曽川と長良川に架かる長い東海大橋である。この橋が見えた時、イヤな予感がした。
 本来の高須街道のルートは、もっと下流にある「塩田の渡し」である。明治時代以降は「日原渡船」(ひわらとせん)と言う渡し舟が設置され、昭和45年以降は船外機を取付けた船が使用された。運営費は愛知県と岐阜県が負担して、運賃は無料であった。しかし利用者が減少し、平成23年に廃止となった。
 さて問題の東海大橋は木曽川部分の802m、長良川部分が426mで、合計1228mの驚くほど長い橋である。昭和44年に有料橋として開通したが、昭和62年に無料化となる。渡り始めると折からの強風に煽られ、体が空中に浮くような感じで恐怖心がこみ上げてくる。橋は古く、ペンキは所どころ剥げて、車の振動で歩道が揺れる。
 私は街道歩きで日本中の長い橋を幾つも渡っているが、その中でも日光街道の利根川大橋を渡った時は強風と横殴りの雨で、もっと怖い思いをした経験がある。高所恐怖症の典型的な弱点である。なお、平成30年に竹鼻街道を歩いた時、長良川に架かる羽島大橋はバスで渡ったが、今回は路線バスがないので歩くしかない。何とか無事に渡り終えて岐阜県の海津市に入るが、生きた心地がしなかった。
【海 津】 海津市は、北の方に商売の神様で有名な「千代保稲荷」があり、南には長良川と揖斐川に挟まれた「木曽三川公園」がある。今回のゴールとなる高須は、その中間の所に位置する。
 海津市に入った時刻は既に昼時を過ぎていたが、恐い橋を渡った緊張で食欲がなくなっていた。街道ルートは県道8号より北の方に外れた田舎道であり、食事処がないので県道を歩いて探した。暫くすると喫茶店があり「喫茶・食事の館」と言う看板があったので店へ入った。客は誰もいない。店には80歳代の、よぼよぼの老人がいて、「食事はカレーしかありません」と言われた。しかたなくカレーを注文すると、とんでもないカレーが出て来た。べちょべちょのライスに、しょびしょびのカレールーである。一口食べただけで、滅茶苦茶にまずいと感じた。
 4月の奈良上街道の天理でのまずい「カツ丼」を思い出した。今回も不運であった。しかし驚いた事に代金が450円。「えっ、安すぎる!」と思った。あれだけ、まずいのなら妥当な値段であると自分を納得させた。しかし今どきの喫茶店でカレーが450円の店なんてどこを探してもないだろう。貴重な体験だ。
  食後、街道ルートに戻るため北の方に向うが、道を間違えた事に気づき、グーグルマップで自分の位置を確認すると大きくズレている事が分かり、田園の中を南へ向う。無駄な時間を費やすが、本来の街道に戻り、やがて春日神社に着く。周りは家がまばらで車の通行は少ない。神社の謂れの説明板はないが、小さい神社にしては石碑と鳥居は立派であった。
 そこを出て海津市内の中心地に向うが、途中の三叉路で道を間違えてしまい「馬目」の交差点に出てしまった。道には「薩摩カイコウズ街道」と表示してある。この街道は岐阜県・鹿児島県姉妹同盟20周年(江戸時代の木曽三川堤防工事が縁で友好関係を結ぶ) を記念して、平成3年に命名された主要地方道の南濃関ヶ原線を中心に、海津市から関ヶ原町までの35㎞に亘り、鹿児島県の木「カイコウズ」が植えらえれている。道を間違えた事に気づき、ここから南へ向う。
 海津市役所が見えてきたところで、街道に戻り、狭い道を西へ進むと海津市立高須小学校、岐阜県立海津明誠高校を通り、城跡公園に着く。城跡が公園になっているが、子供遊具のブランコ、シーソー、ジャングルジム、鉄棒などが並び、説明板がひとつポツリと立っているだけである。ここで再びアクシデントに見舞われた。三脚を立ててスマホで写真を撮っていると、折からの強風で三脚が倒れ、スマホが地面に叩きつけられてしまい、今度こそはダメかなと思ったが、今回も奇跡的に異常なかった。幸運!
 高須城は室町時代の1522年に大橋重一が築城し、その後、城主は氏家、高津、平野、恒川、秋山、林、稲葉、と目まぐるしく変り織田氏に仕えた。1600年の「関ヶ原合戦」の後、徳永氏が5万600石で高須藩を立てたが「大坂の陣」の後は幕府直轄地となる。その後、1640年に下総国(千葉県)から小笠原氏が入封して、高須藩は復活するが、再び天領(幕府直轄地)となる。さらに元禄13年(1700年)尾張藩主徳川光友の次男、松平義行が3万石を領して城主となる。本家の尾張藩主の第3代、5代、9代、10代の藩主は高須藩の城主が宗家を継いでいる。城跡は現在、公園と海津明誠高校になっている。この公園の近くに赤い橋があるが、初代藩主の徳永寿昌が城下町を整備した時、2000石の家老、稲葉主水の屋敷がこの橋の北側にあったことから「主水橋」(もんどばし)と名付けられた。
 その橋のすぐ近くに「殿町ポケットパーク」がある。かつてのお堀跡に整備された公園で石垣が復元され、奥の方に先ほどの主水橋が見える。
 これで高須街道のゴールとなり、帰路はバスで養老街道の駒野駅へ出て、大垣、名古屋を経由して多治見へ戻る。


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