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日本の街道歩き〔100〕奈良上街道 ( No.61 )
日時: 2023年05月07日 22:34
名前: 小林 潔
【街道の概要】 奈良上街道(ならかみ)は古代日本における官道の一つで「上ツ道」とも呼ばれる。飛鳥時代に奈良盆地を南北に縦断するために整備された街道のルートは、奈良市(奈良・京終・帯解)、天理市(櫟本・丹波市・柳本)、桜井市(巻向・三輪・慈恩寺)を経由して、初瀬街道・横大路と合流する。国道169号と、ほぼ並行している。
 街道は6世紀後半に造られ、南北に縦断する3本の官道(上ツ道、中ツ道、下ツ道)の一つで、1500年前に造られた道幅は43mもあった。しかし平安京(京都)遷都以降は次第に使われなくなる。なお、街道沿いの箸墓(桜井市) 付近は672年の「壬申の乱」の古戦場である。
 平安時代以降は官道としての機能はなくなるが、奈良から三輪明神、長谷寺、室生寺への参拝道として多くの旅人が利用した。また大阪・京都・奈良方面から、お伊勢参りのための「伊勢街道」としての機能も有した。現在残る道筋は道幅が4mくらいの極めて狭い道で「上ツ道」の直線道路は失われ、曲がりくねった裏路地のような道になっている。しかし随所に残る連子格子の家屋や土蔵の町並みは昔の面影を良く残している。
【奈 良】 出発は令和5年4月22日。早朝に多治見駅から名古屋駅に着いたが、新幹線ホームに入ると「名古屋~岐阜羽島間で線路に人が侵入したので、現在運転を見合わせています」と言うアナウンスが流れた。見る見るうちにホームに乗客が溢れ出した。いつになったら再開するのか気をもんだが、約45分ほどで運転が再開された。しかし京都駅で近鉄に乗換える電車に乗れず、近鉄奈良駅にかなり遅れて到着した。
 直ぐに奈良公園に向うが、驚いたことに外人観光客で溢れていた。3月に歩いた京都の鞍馬街道時はヨーロッパ系の外人しかいなかったが、中国や韓国からの入国制限が緩和された影響で、マナーの悪いアジア系観光客がのさばり歩き、気分を害した。
 奈良公園の入口に「鹿に勝手にエサを与えないで下さい」という看板があったが、いたる所に「鹿せんべい」を売る小さな屋台があり行列が出来ている。その行列は外人ばかりである。せんべいを持った外人が鹿につつかれ、悲鳴をあげて逃げ惑う光景をあちこちで見かけた。
 まもなく奈良国立博物館の手前にある興福寺に着く。観光客が非常に多い。日本人の観光客の方が少なく、肩身の狭い思いをする。
 興福寺は法相宗の大本山で南都七大寺の一つである。藤原鎌足とその子の不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。藤原鎌足の夫人が夫の病気平癒を願い、天智天皇8年(669年)に建立した。 平安時代から室町時代には多くの僧兵を擁し強大な軍事力を持っていたので、幕府は守護を置く事ができず、大和国は実質的に興福寺の支配化にあった。しかし戦国時代に入り、織田信長や豊臣秀吉の力に屈し勢力が低下した。
 その後、明治維新の時に出された神仏分離令は全国に廃仏毀釈を引き起こし、興福寺も廃寺の危機にさらされた。明治13年には五重塔が売りに出され250円で買い取られた。金目の金具だけ剥ぎ取り焼却する事になった。しかし近隣の住民が延焼を心配して猛反対したため、焼失を免れた。
 現在は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。さて街道写真を撮り階段を降りて猿沢池に向う。猿沢池は周囲360mの小さな池で、興福寺五重塔と周囲の柳と一緒に水面に映る風景が「猿沢池月」と呼ばれ南都八景の一つである。猿沢池は天平21年(749年)に興福寺の「放生会」の放生池として造られた人工池である。現在は奈良県景観資産に指定されている。なお、この池には幾つもの伝説がある。昔、帝の寵愛が衰えた事を嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために池のほとりに采女神社が建てられた。他にも沢山のエピソードがある。
 奈良上街道の起点は猿沢池の西端にある常夜灯で、ここから狭い風情ある石畳の今御門通り(いまみかど)を南下する。この辺りは「ならまち」と呼ばれる連子格子の家が続く。途中、元興寺(がんこうじ)の前を通る。蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の法興寺(飛鳥寺)が平城京遷都に伴い、ここに移転した寺院である。近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降に次第に衰退していった。
暫くして赤い鳥居が目立つ御霊神社(ごりょうじんじゃ)に着く。桓武天皇が平城京(奈良)かから平安京(京都)に遷都したが、新都である平安京で疫病が流行した。天皇は、その原因は怨霊であるとして、旧都である平城京の3つの入口に、霊を鎮めるために御霊社を造営する事になった。当社は延暦19年(800年)に井上御霊社として元興寺南大門前に造られた。現在は健康長寿と家運繁盛として奈良の人々の信仰が厚い。街道はやがて奈良の郊外に出る。
【帯 解】 JR奈良線の京終駅(きょうばて)を過ぎると田園風景に変わる。「京終」の地名の由来は平城京に都が建設された時、この辺りが「都の果て」と言う事から地名になった。
この辺りは溜池が多く、四国讃岐の丸亀街道と良く似ている。神殿池、丸亀池、富池を通過すると帯解(おびとけ)の集落に入る。道幅は相変わらず狭く、奈良市立帯解小学校の近くの有名な帯解寺(おびとけでら)に着く。寺の狭い駐車場に入れない車が狭い道路に並んでいるので、渋滞が起こっている。通過するだけの車が前へ進めないので、寺の交通整理員に怒り出す運転手もいた。
 帯解寺は元々は霊松庵と言い、空海の師である勤操によって開かれた坊であった。平安時代、文徳天皇は長らく世継ぎに恵まれなかった。そこで染殿皇后(藤原明子)は当寺に祈願したところ、見事に懐妊して後の清和天皇を産んだ。それ以来、子宝、安産の祈願寺として篤い信仰を集めるようになった。
江戸時代には、第2代将軍・徳川秀忠の正室で淀君の妹「江」(ごう)が当寺で祈願して3代将軍の徳川家光を出産している。現代に入ってからは、美智子妃殿下、雅子妃殿下を始め、三笠宮、高円宮、秋篠宮の妃殿下も出産祈願のため参拝されている。私が訪れた時は、多くの若いカップルや夫婦が参拝していた。さて街道はJR桜井線に沿って南下を続ける。
【櫟 本】 田園地帯を歩いていると気温が上昇し汗をかきながら進む。服装は暑くなる事を予想して半袖シャツを着てきたが、上着を脱ぐと軽快に歩く事が出来た。やがて奈良市と天理市との境界を越えて、蔵之庄の集落に入る。この辺りも古い家並が続き、街道気分が溢れる。さらに南下すると、櫟本駅(いちのもと)の近くの楢神社(なら)に着く。小さな神社であるが「日本書紀」崇神天皇10年の条に記載されている由緒ある神社である。
神社の祭神・五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)は孝霊天皇の皇子で鬼子母神を本地とする事から、子授けの神、子供の守護神として崇敬されている。境内には8代目・市川団十郎が奉納した実増井(みますい)の井筒があり、井戸水は子供を授かる霊水と言われる。
私が境内で三脚を立て横幕を広げて写真を撮っていると、幼い孫を連れたお爺さんから声を掛けられた。「どこかの団体を引き連れてお宮参りをされてみえますか?」と尋ねられたので「奈良上街道」と書いた横幕を見せて「奈良から一人で歩いて来ました」と言うと「それは大変ですね」と言い、孫をベビーカーに乗せて、転びそうな足取りで去って行った。
この辺りも溜池がたくさん散在している。天理櫟本郵便局を過ぎると西名阪自動車道の高架をくぐるが、昼時は過ぎている。お腹を空かしながら歩くが食事処はまったく無い。旧道は車も人もほとんど通行がないが、時折、天理市議会議員選挙の候補者選挙カーが大きな声で叫びながら走って行く。
【天 理】 暑さと空腹でストレスが溜まるが、天理の中心部へ入れば昼食に在り付けると自身を励ましながら歩き続ける。街道沿いには土蔵をたくさん見かける。上半分は白壁、下半分は板塀である。また古い屋敷には連子格子に虫籠窓が付いている。あちこちに春先の美しい花が咲き、時折、爽やかな風が吹き癒される。街道沿いには古い道標や地蔵菩薩を良く見かける。段々と街中へ入って行く。
 少し疲れたので浄土院で水分補給して休憩する。街中に入ると異様な景色を見る。至る所に天理教の施設がある。3階建てや4階建てのビルがあちこちに建っていて、宿舎のような感じを受けた。しかし人の気配はほとんど無い。街の中から東の方を見ると、天理教・教会本部のバカデカイ建物が見える。
 更に道を歩いていると、「天理教」と書いた黒い法被を着ている人を良く見かける。私が保育園へ通っていた頃、近所の親戚のお婆さん(祖母の姉)の家に行くと「きよし君~よう来たな~」と言って焼きイモや駄菓子をくれた。お婆さんの家は小さかったが、黒い法被を着た人が大勢でチリンチリンと鈴を鳴らして歌を歌っていた事を記憶している。「天理教のお婆さん」と言って慕っていた。その時、天理教がどういうことなのか分からなかったが、お菓子をくれるので良いお婆さんと思っていた。
 街道はちょうど統一地方選挙の最中で選挙カーが何台も通り過ぎて行く。天理駅前のアーケード商店街に入り食事処を探そうと歩いていると、タスキを付けた市議会選挙の候補者が握手を求めてきた。またチラシを私に手渡そうとしたので「私は岐阜から来た者です」と言って受取りを辞退した。
 やっとの事で丼物の食堂があったので店に入ったが、不運に見舞われる。カツ丼を注文したが豚肉は脂身が多く、赤身は固すぎて嚙み切れない。ご飯はべちゃくちゃで食欲が無くなるほどマズい。これまでの街道歩きの昼食は幸運が続いていたが、今回は外れであった。
 アーケード街を歩いていても、「天理高校」「天理修行生」「天理奉仕団」などと襟元に書かれた法被を着た人が多く、年配から若者まで “天理教まるけ“ である。天理教は江戸時代の天保9年(1838年)に成立した新興宗教団体で「中山みき」を教祖とする。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称する。明治20年に教祖は90歳で死去するが、その後も信者は増加し、大正から昭和初期に最盛期を迎える。昭和13年の時事年鑑によれば信者は456万人。当時、日本の領土であった朝鮮半島や台湾にも布教が進んだが、太平洋戦争が終わると減少の一途を辿り、平成4年には185万人、令和3年では119万人まで減少している。
  なお天理市の地名の由来は「天理教」からでは無い。諸説たくさんあるが、有力なのは、奈良時代に天皇が東征した際に、その陣営が置かれた場所を「天里」としたが、その後、転訛して「天理」になったと言う。さてマズい昼食のあと、街道を南下すると丹波市(たんばいち)の集落を通る。天理の郊外も溜池が多い。やがて長柄(ながら)の集落に入る。
【柳 本】 この辺りに街道からは少し外れるが大和神社があり、街道沿いに一の鳥居が立っている。またこの付近は数えきれない程の古墳が散らばっている。地図を見ても、西山塚古墳、下池山古墳、西殿場古墳、中山大塚古墳、小岳寺塚古墳、矢矧塚古墳、など20基以上はある。
 まもなく南都銀行天理南支店、柳本郵便局を過ぎると柳本(やなぎもと)の集落の中心部に入る。ここには、かなり大きな前方後円墳があるので見学する。全長130mの黒塚古墳(くろつか)で広い周濠(お堀)を持っている。築造時期は3世紀後半と言われ、昭和36年から発掘が始まった。古墳は中世に起きた地震で天井部分が石室内に崩落したため盗掘者から守られる事になり、沢山の副葬品が出土した。特に国の重要文化財である33面もの三角縁神獣鏡が発見されたのは話題となった。
 室町時代には柳本氏が黒塚古墳に砦を築き、戦国時代に入ると松永久秀が柳本城として古墳に城を建てる。江戸時代になると織田信長の弟である織田長益(有楽斎とも言い東京有楽町の地名の由来となる者)の五男、尚直が陣屋を構築した。そのため明治維新まで一般の人は立ち入れず、古墳が保存される結果となった。見学のあと街道に戻り、田園の中を南下すると、天理市から桜井市へ入る。
【巻 向】 まもなく巻向(まきむく)の集落に入る。田や畑の中に家がまばらに建っている。JR桜井線の巻向駅近くの踏切を渡って西へ10分ほど歩くと纏向石塚古墳(まきむくいしづか)に着く。周囲は田園地帯で、すぐ隣に纏向小学校がある。全長は96m、幅は34m、周濠幅20mの前方後円墳で築造時期は3世紀初頭である。注目される箸墓古墳よりも古く、日本最古の可能性もあると言う。
 古墳の周濠より土器や木製の鋤や鍬が出土され、国の史跡に指定されている。全体に草がボウボウに生え、墳丘は風化して低くなっているので、一見では古墳と気付かない人もいるかもしれない。墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、高射砲や対空機銃の砲台が設置されていた。
 次に巻向駅周辺に広がる纏向遺跡を訪れた。2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡で、東西2km、南北1.7kmに及んでいる。この地域は、日本の前方後円墳の発祥地と言われる。2011年に大型建物跡が発見され、年代的にみて卑弥呼の宮殿跡ではないかと言われる。邪馬台国の最有力候補地とされ、邪馬台国畿内説を立証する証拠が沢山あるとされる。
 次に南へ15分ほど歩くと湖の中に浮かぶ島のようなものが見えてくる。湖に見えるのは箸中大池で島のようなものが有名な前方後円墳の「箸墓古墳」(はしはか)である。全長278m、高さ30mの大型の古墳で、築造は3世紀中頃と言われる。宮内庁によると「大市墓」(おおいちのはか)と称して第7代孝霊天皇の皇女である百襲姫の墓と指定している。皇室御陵のため立入禁止である。
  しかし、考古学者の研究によれば、邪馬台国の女王である「卑弥呼」の墓の可能性があると言う。この辺りの地名「箸中」は百襲姫の陰部に箸が突き刺さり絶命した事が名前の由来である。さて日本最古の首都と思われる巻向地区の見学にかなり時間を費やしたので、急いで先へ進むが、さらに街道筋は古墳だらけである。
【三 輪】 三輪の町に入ると、素麺工場、造り酒屋、三輪中学校などを通り過ぎる。町中に大和川が流れ、大神神社(おおみわじんじゃ)の一の鳥居が立っている。JR桜井線(愛称、万葉まほろば線)の踏切を渡ると大神神社の参道に出る。思ったより参拝者は多いが外人観光客は見かけない。参道は森の道で薄暗い。
  神社の創建は不詳であるが、有史以前と言われる。古代では美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれ、中世以降は三輪明神と呼ばれた。明治時代になり「大神神社」と改称された。大神神社は三輪山(三諸山)をご神体として、直接に拝するため本殿を持たない。山中には上から奥津磐座(おくついわくら)、中津磐座(なかつ)、辺津岩倉(へつ)の3つの磐座がある。大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。拝殿は寛文4年(1664年)第4代将軍の徳川家綱によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
 なお、毎年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)の時、拝殿に大きな杉玉が吊るされるが、これが全国の造り酒屋へ伝わっている。
 さて参拝を終えてゴールに向うが、ここでも桜井市会議員の選挙カーがやかましく走り回っている。ここから三輪小学校、天理教敷島大教会を通り、大和川沿いに南東方向へ進む。
【桜 井】 街道は小さな集落を幾つも越えて進むが、道は狭く曲がりくねっている。古い家並みが連なり車や人の往来は極めて少ない。まもなく大和川に架かる馬出橋に着くが、ここに大きな石碑「仏教伝来地」が建っている。ここ桜井市金谷あたりは、古代、大陸からの船が難波津(大阪)から大和川をさか登ってきた船着き場があった。外国からの訪問者や物資が上陸した地点である。
 欽明天皇の御代に朝鮮半島の百済(くだら)からの使節が、538年にこの地に上陸して、仏教を伝えたと言われる。その地に金谷河川敷公園が整備され石碑が建てられた。日本書紀によると、欽明天皇は仏教の教えに関心を持ち、大臣たちに仏教を受入れるかどうか尋ねた。蘇我稲目は「仏教は優れた大陸の文化でありヤマトでも受入れるべきです」と応える。一方、物部尾興、中臣鎌子は「新たに外国の神を取り入れるとヤマトの神の怒りを招きます」と反対した。これが原因で蘇我氏と物部氏が対立する事になり当時の政界を二分する権力争いが起きた。この争いは約50年後の587年に蘇我馬子が物部守屋を殺す事により決着し、仏教は日本全国に広まっていった。
 さて街道は大和川に沿って東へ進み国道165号を横断して「慈恩寺北」交差点に到着する。ここが奈良上街道の終点である。この三差路から東へ向うのが初瀬街道(伊勢神宮を目指す道)、西へ向うのが横大路街道(橿原から葛城方面へ行く道)であり、3つの街道が交わる重要な分岐点である。なお私が平成31年に横大路街道を歩いた時も、この慈恩寺北交差点がゴールであった。ここから近鉄の大和朝倉駅に向うが道が輻輳していて前回も迷ったが、今回も迷ってしまった。大和川の岸辺にある三輪素麺の小さな店で道を尋ねると、近道を教えてくれた。
 ところで三輪素麵は世界一細い麺で知られ、絹糸のような滑らかな舌触りと強いコシが特徴である。三輪に素麺作りが始まったのは、約1200年前に飢餓と疫病に苦しむ民の救済を大神神社に祈願したところ、小麦を粉に引き、水でこね伸ばして糸状に作りなさいと神様から啓示があった。この三輪の地では質の高い小麦が採れ、冬には湿度が低く寒風が吹き下ろすと言う気象条件が美味しい素麺作りに適していると言う。
 奈良上街道を無事にゴールし大和朝倉駅から帰途に就くが、朝の新幹線トラブルや途中の名所旧跡の見学に予想外の時間を費やしたため、午後6時になってしまった。電車の中で、リュックに入れておいた焼酎とツマミを取出し、チビリチビリ飲んで疲れを癒した。ところが途中、近鉄の伊勢中川駅付近でトラブルがあり、またJR中央線でも春日井付近でトラブルがあり、帰宅は9時過ぎになった。


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