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日本の街道歩き〔99〕加茂街道 ( No.57 )
日時: 2023年04月13日 14:13
名前: 小林 潔
【街道の概要】 加茂街道は京都市北区の賀茂川上流に位置する西賀茂の集落から賀茂川沿いに下り、上京区(かみぎょうく)の京都御所までの街道である。途中、賀茂川左岸には上賀茂神社があり、葵祭の経路の一部でもある。
 御薗橋から南の区間は堤防や河川敷に街道並木が植えられ、緑のトンネルがある。春のシーズンには、満開の桜が延々と連なる。読売新聞社の「新・日本街路樹百景」の一つに選定されている。
【西賀茂】 出発は令和5年3月28日。この日、午前中に鞍馬寺から烏丸鞍馬口までの鞍馬街道を歩き、午後2時頃にゴールしたばかりであるが、直ぐに加茂街道のスタート地点へ向う。
 京都市北区西加茂、上庄田町へは京都市営バス、京都バスの乗り継ぎで行く事ができるが、バス停の位置や、乗り継ぎ方法が分からず、時間的余裕もなかったので、鞍馬口付近でタクシーを拾った。乗車すると「どちらへ行かれますか?」と白髪の女性運転手に話し掛けられ驚いた。年齢は50歳代に見えたが後部座席から見ると、もっと高齢に思えた。
 行先を告げてから、京都の桜の開花が話題となり、女性運転手の説明を聞き入った。今年は例年より10日も早く咲き始めたが、京都の桜は4種類が順に咲くのが普通のところ、今年は同時に開花したので異常です。会話が弾んだ。タクシーは25分ほどで西賀茂の志久呂橋に着いたが、降りる前に「ここからどこへ行かれますか?」と聞かれ「賀茂川沿いに京都御所まで歩きます」と言うと「わおー、やりますね~」と、エールを送ってくれた。
 志久呂橋で下車すると目の前は低い山が連なり、田舎風景である。この近くに京都産業大学や立命館大学のグランドがある。都心部では広い場所が無いので田舎に造ったのであろう。この付近の賀茂川界隈は並木は全く無く、殺風景である。賀茂川の右岸が西賀茂で左岸が上賀茂である。歩き始めて暫くすると、「通学橋」と言う人と自転車しか通行できない小さな橋を見ながら進む。川幅が段々と広くなり、やがて西賀茂橋に着く。
【上賀茂】 ここで賀茂川の左岸か右岸か、どちらを歩こうか迷ったが、右岸の方が桜並木が多いので真っ直ぐ歩く事にした。素晴らしい桜並木が始まり、壮観な景色に目を見張る。始めは堤防上の歩道を歩いていたが、河川敷に遊歩道があるのを見て、土手を降りた。折しも小学生は春休みとあって、みんなで飛び回っていた。また若者の男女ペアがベンチで肩を寄せ、語り合っている。ちょっと羨ましい!
 枝ぶりの良い桜の木の下で写真を撮りながら歩いていると、やがて御薗橋に着く。この橋を渡ると大勢の人がいて道路は混雑している。目の前に大きな朱色の鳥居があり、「賀茂大社」と書いてある。ここから上賀茂神社を参拝する。正式には「賀茂別雷神社」(かもわけいかづち)である。下鴨神社と共に社格は官幣大社で、ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」の一つである。境内には素晴らしい桜並木が広がり、言葉が出ないほど圧巻である。
 この神社は古代有力氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として下鴨神社と共に賀茂神社と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は、皇城の鎮護社として京都の都市形成に深く関わってきた。通称、葵祭と呼ばれる賀茂祭で、上賀茂神社から下鴨神社への行列ルートは加茂街道と一部重なっている。皇室との関わりも深く、弘仁元年(810年)以降、約400年間に亘って伊勢神宮の斎宮にならった大斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕していた。
 時代は現代になって、上賀茂神社の境内の北側にあった御生野に、太平洋戦争終戦直後に連合国軍最高司令部(GHQ)によって、日本で戦後最初のゴルフコースである京都ゴルフ倶楽部・上賀茂コースが造られてしまった。しかし神館跡と御生野はコース内に取込まれながらも、かろうじて保存されている。
 さて参拝を終えて御薗橋に戻り、今度は左岸の遊歩道を歩く事にした。ここからの桜並木は絶景中の絶景である。家族連れ、子供たちのグループ、若者のグループ、若い男女ペア、など花見客で溢れている。中には外国人の若い男女ペアが草むらにレジャーシートを敷いて抱き合いキスをしている。一瞬、目を反らすが、すぐに後を振り返り、ジーッと見つめた……。時間は既に3時半を過ぎており、上賀茂橋を渡って今度は右岸を歩く事にした。
【北大路】 右岸の桜並木を鑑賞しながら河川敷を歩くと、まもなく北山大橋に着く。ここから対岸に鞍馬街道で歩いた京都府立植物園が遠くに見える。この北山大橋から次の北大路橋までの約800mは「半木の道」(なからぎ)が続く。名前は植物園内の半木神社(なからぎ)に由来し、八重の紅枝垂れ桜が咲く散策路は見事な桜トンネルとなる。ウットリして足の疲れが忘れる。
 ここから、さらに賀茂川に沿って南下すると、鞍馬街道の時に渡った出雲路橋、そして、葵橋、出町橋を通り過ぎる。近くに京阪電車と叡山電車の出町柳駅がある。朝、鞍馬へ向う時に電車に乗った所である。ここで、西方から流れてきた賀茂川と、東方から流れてきた高野川が合流して、鴨川に名前が変わる。この合流地点に賀茂大橋が架かっており、ここから今出川通を西へ向う。
【京都御所】 通行量が多い今出川通(いまでがわどおり)を西へ進むと、まもなく赤レンガの同志社大学が見えてくる。その向いに京都御所の今出川御門があり、歩行者はここから御所の中へ入る。延暦13年(794年)に奈良から京都へ都が移り、平安京の内裏が置かれたが、当時は現在の御所より西へ1.7㎞の千本通り沿いにあった。
 現在の内裏は建武4年(1337年)から明治2年(1869年)に明治天皇が東京へ行幸するまで532年間に亘って存続した。当初は東西1町(約110m)、南北半町(約55m)という狭い敷地であったが、室町時代に足利義満により敷地が拡大され、その後、織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相になった。現在の内裏の建物は、嘉永7年(1853年)に火災で焼失したのち、安政2年(1855年)に再建されたものである。
 さて、御所に入り北側の公園にある有名な枝垂れ桜を見物に行った。大勢の観光客がいて、写真を撮るのに苦労する。見物者の中には老人の外国人ツアーの団体客がいて、コロナ騒動が終わったとの印象を持った。
 帰りは京都御所の西側の乾御門(いぬいごもん)から退出し、地下鉄今出川駅から京都駅に向った。京都駅プラットホームの売店で「東海道新幹線弁当」と缶ビールを買って帰途に就いた。


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