皆様の掲示板 > 記事観覧
日本の街道歩き〔93〕成田街道 ( No.40 )
日時: 2022年11月28日 21:55
名前: 小林 潔
【街道の概要】 成田街道は江戸と成田山新勝寺を結ぶ街道である。日光街道の千住宿から分れた水戸街道と一部重なるが現在の東京都葛飾区の新宿(にいじゅく)で分岐する。途中の宿場は①八幡宿②船橋宿③大和田宿④臼井宿⑤佐倉宿⑥酒々井宿を経て成田山までの14里半(58km)である。
 江戸時代は、佐倉藩や多古藩が参勤交代に使った。別名を佐倉街道とも呼ばれる。江戸時代前期の元禄時代(17世紀後半)から成田山信仰が盛んになり、成田詣での旅人がこの街道を頻繁に歩いた。
【東 京】 出発は令和4年10月27日。新幹線で東京方面へ行くのは、平成30年の北海道・松前街道へ向った時から数えて4年ぶりである。朝から晴天に恵まれ、静岡から三島までの間では、頂上付近が雪化粧で覆われた美しい富士山を眺められ感動した。
 東京駅から地下鉄で大手町へ行き、そこから亀有までの直通電車に乗る。亀有は葛飾区の北部に位置し、平成26年に歩いた水戸街道歩きの時に通った所で懐かしかった。歩き始めると、すぐに気温が上昇し上着を脱ぐ。荒川の支流である中川に架かる中川橋を渡るが、昔は「新宿の渡し」(にいじゅく)があり、舟で渡ったが、川幅が広くないので舟賃は無料であった。川を渡って右折すると新宿(にいじゅく)に入る。新宿は宿場の面影はないが、直角に曲がった枡形の道筋は昔のままである。参勤交代で大名14藩がこの宿場を利用したが、新宿は江戸に近いため休憩するだけなので、本陣、脇本陣は設置されなかった。まもなく西念寺に着く。そこには「鯖大師」が鎮座しているが、これは弘法大師の事である。
 そこから南へ進むと日枝神社に突き当る。創建は永禄2年(1559年)で、ここの手水は猿が持つ瓢箪から流れ出る珍しいものである。枡形を東に進むと「金阿弥橋」の親柱があるが、現在は暗渠になって川は見えない。ここに街道の追分があり、左折すると水戸街道、右折すると成田街道である。古い石道標には「右・なりた,ちば道、左・水戸街道」と表示してある。平成26年には、ここを左折して水戸まで歩いたが、今回は右折して成田を目指す。
 国道6号線を横断して江戸川へ向うが、途中に柴又帝釈天へ寄り道する。少し道に迷うが何とか帝釈天参道に着く。参道の両側には、うなぎ屋、天ぷら屋、うどん屋、団子屋など飲食店が多い。お茶を飲みながら柴又名物の草団子を食べている人が多い。渥美清主演の映画「男はつらいよ」に出てくる「寅さん」や「さくら」が横丁から出てきそうな雰囲気で、東京の下町風情が漂う。葛飾柴又の帝釈天は正式には経栄山題経寺と号し、日蓮宗の寺院である。創建は寛永6年(1629年)で山門も本堂も重厚感があり、立派である。外国人観光客も見かけ、コロナ禍が収束に向っている印象を受けた。参拝を終えて再び参道を歩くが、名物の草団子が気になり、私も1箱650円の団子を買った。京成柴又駅前には渥美清こと「フーテンの寅さん」の銅像があり、みんなが写真を撮っていたので、私も撮った。周辺には昔の映画ポスターが貼ってあり、倍賞千恵子、浅丘ルリ子、吉永小百合、栗原小巻などのマドンナ女優の写真を懐かし気に眺めた。
 昼食には少し時間が早かったが柴又駅前の小さな食堂へ入った。ここの女将さんに話掛けられ、多治見から来たと言うと、女将さんの娘さんが陶芸の勉強のため、多治見で修行しているとの事。多治見市役所の近くで下宿していると聞いて、意外な出逢いを嬉しく思った。街道はやがて江戸川の河川敷に沿って下流に進むと小岩菖蒲園の近くの京成江戸川駅に着く。昔、ここに川渡しがあったが、今は国道14号線の市川橋を渡る事になる。しかし、この橋を渡るのが恐く、江戸川駅から対岸の国府台駅まで一区間だけ電車に乗って川を渡った。東京都江戸川区から千葉県市川市に入る。
【市 川】 国府台駅で下車して江戸川の土手を10分ほど歩くと「市川関所跡」の史跡に着く。江戸時代の初めは、小さな番所でしかなかったが、元禄時代に入り成田山参詣者が多くなると関所に格上げされた。現在は堤防上に石碑しかない。市川の市内に入るが、人口50万人の街は車も人も多い。市川広小路の交差点に出ると県道1号を横断するが「松戸街道」の表示がある。街道は国道14号と重なり、千葉街道と表示されている。京成の市川真間駅の近くにあるファミリーマートに入って小用を済ませるが、トイレの洗面所にスマホが置き忘れてあったので店員に渡した。スマホには銀色のチャラチャラした鎖が付いていて、マスコットがぶら下がっていたので、若い女性のものかと思った。
 街道は京成八幡駅の近くで左折して葛飾八幡宮へ向う。この辺りが昔の八幡宿(やわた) の中心地である。しかし、成田街道随一の賑わいであった船橋宿が隣にあったので、本陣は置かれず小さな宿場でしかなかった。葛飾八幡宮は平安時代の寛平年間(9世紀末) に京都の石清水八幡宮を勧請して建立された。参道に朱塗りの立派な隋神門が立っており市川市の文化財に指定されている。境内には「千本公孫樹」(せんぼんいちょう)があり、根周り10mを超す巨木で国の天然記念物である。
 そこから東へ暫く進み、京成中山駅の近くの法華経寺に着く。鎌倉時代の高僧である日蓮上人が開いた寺で、江戸時代には広く庶民の信仰を集めた。店が立ち並ぶ参道の突当りの黒門は、途轍もなく大きい。境内には、元和8年(1822年)に建立された五重塔が高く聳え、重要文化財に指定されている。しかし、本堂は残念ながら修理中で覆いに隠れていた。京成中山駅の近くに市川市と船橋市の市境があり、次の宿場に入る。
【船 橋】 人口65万人の大都会である船橋市に入る。船橋の地名由来は「昔、東征に赴いた兵士たちが海老川を渡るために、地元民が船を並べて橋にした」と言う故事からである。京成中山駅の北側に中山競馬場がある。日本中央競馬会に所属し、日本の四大競馬場の一つである。ほかは、東京競馬場、阪神競馬場、京都競馬場である。1907年に開場され、有馬記念、皐月賞、中山金杯などの開催地として知られている。
この辺りで、私の妹の紀代美に電話をした。街道歩きを出発する数日前に、成田街道を歩くから津田沼付近で逢おうと約束していた。妹は船橋市に在住しているが、母の葬儀以来、13年も会っていないので楽しみにしていた。しかし電話では急に発熱したので外出が出来ないとの事であった。病気ではしかたないので諦めた。私より3歳年下であり体力が低下しているのかと少し心配した。
 街道は国道14号と重なり、車の通行量が多く、街道の面影はまったくない。JR西船橋駅で総武本線と武蔵野線が交差している。西船橋駅の近くに東京無線電信所・船橋送信所跡の碑文がある。太平洋戦争の開戦時、ハワイを目指していた日本帝国海軍連合艦隊に「ニイタカヤマノボレ」の電信を発した場所である。これは「ハワイ真珠湾をを奇襲せよ」の暗号電文である。
 春日神社を過ぎると、足が疲れてきたので、あるマンションの前で休んでいると、通行人から「道に迷って困っているんですか?」と聞かれた。「ただ休んでいるだけですよ」と返事したが、お茶を飲みながら地図を見ていたので、そう思われたのだろう。午後4時頃に大覚院と言う由緒ありそうな寺を参拝する。別名、赤門寺と言われ赤色の門が立派であった。
 総武本線の高架を越すと船橋駅が近づいてくる。駅前の繁華街を通過して、さらに東へ進むと船橋大神宮に着く。小さな山の上に立っているが「日本一小さい大神宮」なのだそうだ。正式には「意富比神社」(おおひ)と言うが、歴史は古く、景行天皇の御代(2世紀)日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折、東国平定の成就を祈願したと言う。この辺りは幕末の戊辰戦争で、新政府軍と旧幕府軍が激しく戦った戦場跡である。
 ここで1日目の街道歩きを終えて、京成大神宮駅から京成船橋駅まで電車で行き、駅前の「ホテルシロー」にチェックインした。直ぐに入浴して全身を念入りに洗ってサッパリした。そのあとコンビニで買った幕の内弁当とビールを飲んで疲れを癒した。食後スマホのLINE友だちに街道1日目のレポートを送信して早めに就寝した。
 翌朝は8時頃チェックアウトして東へ向って歩き始める。街道は東船橋駅近くの中野木を過ぎると、津田沼駅手前の三叉路を左折する。ここには成田街道の大きな道標が立っている。かなり古く「成田山道」と表示してある。この石柱の上に異様な八角形の輪宝が置かれているが、これは古代インドの武器を模したものであり、後に仏教に取り入れられた。
 この三叉路を直進すると千葉方面に行くが、左折すると八千代、佐倉方面である。京成前原駅を過ぎると北東に向って国道296号が真っ直ぐに伸びている。街道は京成の薬園台駅辺りまでは線路に沿っているが、ここから離れて東へ進む。国道296号は、この近くに陸上自衛隊の習志野駐屯地があるため、頻繁に軍用トラックが往来している。自衛隊の敷地は鉄条網の塀が1km以上続き広大な演習場である。また航空自衛隊の第一空挺団(パラシュート部隊)もあり、飛行場の滑走路もある。明治時代に近衛兵の演習観覧された明治天皇は広大な野原に野馬が放牧されているのを見てこの地を「習志野原」と命名された。やっと自衛隊敷地を過ぎて新木戸の交差点に着くが、ここが船橋市と八千代市の市境である。
【八千代】 街道は通行量が多く単調な道路を歩くので、ストレスが溜まる。人口が20万人の八千代市に入るが、昔の宿場名は「大和田宿」である。所どころに道標があるだけで、常夜灯はほとんど見当たらない。街道沿いに八幡神社があり、その中に子安観音が何体も置かれてある。その先に出羽三山碑がある。大和田周辺では講を組み出羽三山に参詣する風習があった。ほかに二十六夜講、馬頭観音、など沢山の石塔が立っている。街道はやがて八千代市の中心部に入る。
 左手に八千代市役所を見て少し進むと長妙寺に着く。この寺に「八百屋お七」の墓がある。天和2年(1682年)江戸本郷の八百屋の娘「お七」は恋人「生田庄之助」に逢いたい一心で放火事件を起こすが、捕えられ鈴ケ森刑場で火刑に処せられた少女である。井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられた事で有名である。墓は江戸の円乗寺にあるがお七の母親がこっそり遺骸を持ち出し、大和田宿(八千代市)の長妙寺に葬ったと言われている。
 そのあと、圓光寺や時平神社を過ぎたあたりで昼時になったので、街道沿いの古びたうどん屋に入る。見すぼらしい建物で、80歳くらいの老人と50歳くらいの中年女性の二人で経営していた。しかし「天丼うどん定食」を食べたら絶品の美味しさであった。代金の1045円は値打ちであった。昼食後、大和橋を渡り、京成勝田台駅を過ぎると、八千代市から佐倉市に入る。
【臼 井】 佐倉市臼井町はプロ野球、元巨人軍の長嶋茂雄選手の生れ故郷である。井野町に入ると、天保2年(1831年)に建てられた道標がある。当時、成田山の信者であった歌舞伎役者の七代目、市川団十郎が成田山参詣の度に、加賀清水と言う湧き水の近くに立寄ったと言われる。団十郎は旅人のために成田山への道しるべと加賀清水の案内を兼ねた道標を建てた。
 街道は志津駅、ユーカリが丘駅を過ぎると坂が多くなる。臼井台と言う団地の中を通るが、複雑な道に迷ってしまい、スマホで現在地を確認して本来の街道に戻る。この付近に江戸時代の相撲取りの「雷電」の墓があると言うので探すが、見当たらず諦めかけた時に、小さな案内板を見つけ、森の中にある寂しい墓地に入る。雷電と言えば、私が平成25年に北国街道(軽井沢~出雲崎)を歩いた時、長野県の小諸の隣の滋野(しげの)で、雷電の生誕地を通ったので、人生の始まりと終りの両方を訪ねた事になる。ここには妻と娘も一緒に葬られている。ちなみに雷電の相撲の生涯星取り成績は254勝10敗の無類の強さであったと言う。
 墓の参拝のあと、キツイ坂を登り臼井城跡に向うが、道が良く分からず悩んでいると山道を歩いていた老婆に逢い、道を尋ねたら教えてくれた。城跡へ行く途中、「太田図書の墓」があった。室町時代の武将、太田道灌の弟と言われ、古河公方足利氏と管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、上杉方の太田氏は臼井城で戦うが討死にする。その近くに臼井城跡があるが、100m四方の土塁に囲まれた小さな城であった。千葉氏の一族であった臼井氏が室町時代(14世紀)に築城したが、城主が何度も変り、酒井氏が慶長9年(1604年)に転封すると廃城になった。
 さて、城の見学を終えて山を下り、臼井の宿場に入る。京成臼井駅の近くの三叉路に古い道標を見て、東へ進む。左手の方に印旛沼の湖面がわずかに見える。また印旛沼に注ぐ鹿島川に架かる飯野橋の傍に臼井出身の作家、吉川英治の歌碑が建っている。
【佐 倉】 街道は人口19万人の佐倉市内に入るが、時刻は午後3時を過ぎており、急がないと日が暮れてしまうので、早足で佐倉城に向う。国道296号の鹿島橋を渡ると右側の山の上に、国立歴史民族博物館が見えてくる。愛宕坂を登ると大きな建物の博物館に着く。ここは原始古代から現代に至るまでの、日本の歴史と民族についての資料があり、国宝や重要文化財も多く、日本で最大の歴史民俗博物館である。しかし佐倉城へ明るいうちに行きたいため、通過した。
 博物館の横から、さらに山の手に進むと佐倉城址公園に入る。天文年間(1532年)に千葉一族の鹿島氏が築城を開始したが、途中に工事が中断したまま、千葉氏は滅亡した。慶長15年(1610年)佐倉藩主に封じられた土井利勝が6年の歳月を掛けて完成させた。その後、城主は度々変り延享3年(1746年)堀田氏が10万石で入封して以来、明治維新を迎える。城の規模はかなり大きいが、石垣がまったく無く、水堀、空堀、土塁だけで造られている。江戸時代に築城された近世の城郭であるが、石垣が無いのは極めて珍しいと思う。現在は天守閣も残存していない。城跡は公園として良く整備され、ウォーキング、ジョギング、犬の散歩などで人の往来は多い。本丸跡には、幕末の老中筆頭の堀田正睦像、アメリカ公使タウンゼント・ハリス像、正岡子規の句碑「常盤木や 冬されまさる 城の跡」が立っている。
 城の見学を終えて坂を下ると、佐倉兵営跡の自由広場、佐倉東高校、佐倉中学校を通る。佐倉市民体育館を右折して、薬師坂を下り武家屋敷跡へ向うが、道が分からず悩んでいると、中年女性が通りかかったので尋ねた。分かり易く教えてくれ、小高い丘を登り始めた。「ひよどり坂」と呼ばれる昼間でも非常に暗くて、人里離れた寂しい坂を進むが、気持ち悪いほど不気味である。少々恐怖心を抱きながら登り切ると、昔の面影が色濃く残る武家屋敷の通りに出る。一軒一軒の敷地が広いので上級武士の屋敷であるとすぐ分かる。特に河原家、但馬家の屋敷は立派である。
 時刻は午後5時となり、これから予約してあるホテルに向うが、道が輻輳して分からず、付近の民家の人に尋ねる。しかし、ここでとんでもないミスを犯してしまう。佐倉駅前の「佐倉第一ホテル」を予約してあったが、JR佐倉駅前である所を、京成佐倉駅前と思い込み、正反対の北へ向ってしまった。途中で日が完全に暮れて真っ暗になり、ホテルへ電話して自分の場所を伝えたら、話のつじつまが合わず、JR駅と京成駅を間違えたことに気づいた。反対方向に歩いたのでJR駅へ行くのに40分も掛かると言われローソンの店員に頼んでタクシーを呼んだ。直ぐに来てくれ、タクシーの運転手と会話していると、「どこから歩いて来たの?」と聞かれ「東京から歩いて来ました」と返事する。「え~、うっそー」と驚き、暫く街道歩き談義をしているとホテルに到着した。降りる時「明日も頑張って下さい」と激励され、ポケットティッシュを5個もくれた。時間の浪費と1200円の余分な出費であったが、これも筋書きのない街道歩き旅のハプニングかと思い、腹の中で失笑した。
 さて翌朝は早朝7時半から歩き始め、佐倉警察署、千葉県印旛合同庁舎、旧堀田邸を通って成田街道の道筋に向った。しかし佐倉の街は、昨日も感じたが坂が多く、朝から汗をかく始末でハンカチを手に持ったまま歩く。暫くすると佐倉順天堂記念館に着くが早朝のため開館時間前で入館できなかった。佐倉順天堂は蘭方医の佐藤泰然が長崎に遊学後、江戸に蘭医学塾を開いたが、天保14年(1843年)に佐倉に移り住み、オランダ医学塾を開設した。日本で一番古い西洋式医療機関である。現在の建物は安政5年(1858年)に建てられたものである。現在、東京にある順天堂大学は全日本大学駅伝で有名であるが、佐藤泰然を創始者として1946年に発足した大学である。なお、記念館の隣に「順天堂医院」と言う小さな開業医があるが、表札が「佐藤仁」と書いてあり、何らかの関連がある医院だろう。さて佐倉本町を東へ進むと、やがて印旛郡酒々井町(しすい)に入る。
【酒々井】 街道は上本佐倉の交差点を過ぎると酒々井宿に入る。酒々井は戦国時代、本佐倉城の城下町として栄え、江戸時代に入ると佐倉七牧(ななまき)として、幕府直轄の野馬牧場、野馬会所として栄えた地域である。酒々井商工会議所の前に「莇吉五郎の家」がある。莇家(じょ)は江戸時代後期に油販売で成功し、明治初期の吉五郎の代には醤油醸造業を営んでいた。現在残る土蔵2階建ては明治時代に建てられ、酒々井町登録有形文化財に指定されている。酒々井宿の歴史的景観を形成する建物である。そこから北へ進み、J A酒々井農作物直売所、酒々井町立中央保育園を通る。左手に本佐倉城への案内板がある。本佐倉城は文明年間(15世紀後半)千葉氏の居城として築かれ約100年間、下総国の政治・経済の中心地であった。現在は草むらに覆われ土塁が残っているだけである。城山までは遠いのでパスした。
 そこから少し先の「酒の井碑」(酒が湧き出る井戸)に立寄る。昔、この村に年老いた父親と孝行息子が住んでいた。父親思いの息子は一生懸命に働いて、父親の酒を買っていた。ところがある日、どうしても酒を買う金が作れず途方に暮れていると、道端の井戸から酒の香りがしてきた。この井戸水を持ち帰ると、父親は「これはうまい酒だ!ありがたい」と喜んだ。しかし、これが近隣で評判となったが、息子以外の人が汲んでも只の水であった。この話は室町時代であるが、この井戸を「酒の井」と呼ぶようになり、いつのまにか「酒々井」と言う地名の由来になった。この種の話は岐阜県の「養老の滝」にも孝行息子が滝の水を汲むと酒になったという伝説がある。こちらは奈良時代なので歴史が古いが、ひょっとしたら話のネタは同じかもと、私は勝手に思った。
 そこから少し進むと小高い丘に「下り松、三山碑」があり、関東平野の広々とした景色が眺められた。さらに北へ進むと「順天堂大学キャンパス」の矢印表示板を見たが、近くにその施設があるのだろう。
【成 田】 街道は酒々井町を抜けて、人口15万人の成田市へ入る。成田街道はJR成田線と京成電鉄の間を進む。京成の宗吾参道駅と公津の杜駅の間から少し西へ行くと宗吾霊堂があるが遠いので行かなかった。佐倉宗吾は江戸時代前期の下総国佐倉藩の義民として知られている。印旛郡公津村の名主で、本名は木内惣五郎と言う。通称は佐倉宗吾郎の名で良く知られている。当時、佐倉藩の重税に苦しむ農民のため、宗吾は江戸の将軍へ直訴を行い、死刑になるが、聞き届けられ、義民伝説を作った。現在、国道464号沿いに宗吾霊堂(正式には東勝寺)があるが、平安時代初期に坂上田村麻呂が開基した古刹である。今では佐倉惣五郎を祀る霊堂としての方が有名である。
 街道沿いの成田山護摩木山供養碑を見て、北へ真っ直ぐに進むとJR成田線の高架を越す。成田山が近づいて来たが、意外と道標や常夜灯は見かけない。市街地に入ると、一本松跡の碑だけがある。まもなくJR成田駅に着く。すぐ向かいに京成成田駅がある。JR成田駅前には、歌舞伎役者の市川団十郎の大きな像が立っている。さすが駅前には人が多い。コロナ禍が下火になったので、意外と西洋系の外人観光客が多いが、中国人、韓国人は見かけない。
 駅前から成田山表参道を歩き始めるが飲食店や土産物店が延々と続く。成田名物と言えば、佃煮・うな重・そば・羊羹・漬物・日本酒・せんべいなどである。昔から成田詣で賑わう門前町である。成田小学校が見える辺りから参道は下り坂になり、狭い道を大勢の人が歩いている。途中に川豊本店と言う老舗のうなぎ屋があり、長蛇の列を作っている。かば焼きの美味しそうな匂いがプンプンしてたまらない。参道を下ると、成田山新勝寺の大きな総門に着く。2007年に建立された正門であるが高さが15mもある。その荘厳さに圧倒される。総門を潜ると仁王門が立ちはだかる。赤い大きな提灯がぶら下がり、その下で写真を撮る人が多い。仁王門を潜り、さらに石段を登ると、大本堂の前に着く。その右手には豪華絢爛な三重塔が聳えている。こんな、きらびやかな塔は、私が見た日本中の塔の中では最高である。金色や朱色の細かい細工が施され目を奪われる。
 ここが成田街道のゴール地点で、大本堂にて道中無事のお礼参りをする。成田山新勝寺の寺域は広大で、大本堂の奥には弘法大師1150年を記念して建てられた写経場の平和大塔があり、成田市内ならどこからでも見える。また幾つもの池があり、成田山公園の散策も出来たが、疲労困憊で気力が失せていた。この寺院は天慶3年(940年)寛朝大僧正が平将門の乱の平定後、朱雀天皇より新勝寺の寺号を授与されて成田山が開山した。そして東国鎮護の中心的寺院となったが、戦国時代の戦乱で寂れた寺になってしまった。
 それでも江戸時代に復興を果たし、歌舞伎役者の市川団十郎と切っても切れない縁となった。初代の市川団十郎は成田村出身の堀越重蔵の子として江戸で誕生し、延宝元年(1673年)に初舞台を踏み、たちまち江戸一の人気役者になる。しかし子宝に恵まれず、成田山新勝寺に祈願すると待望の子が授かった。その後、成田不動尊にまつわる演目を打つようになると、芝居は大当たりし、「成田屋」の屋号で呼ばれるようになる。初代の団十郎の活躍により、成田不動尊は民衆に知れ渡り、江戸庶民の間で成田山参詣が広まっていった。
 無事に成田街道を踏破して帰途に就くが、途中に東京の町田の親戚に立寄り、90歳の大脇の叔母と対面した。3年前まで土岐市に住んでいたが高齢になったため長男が世話をするため、東京に移転した。叔母(私の母の妹)の元気な顔を見て安堵し、新横浜駅から新幹線に乗り、多治見へ夜遅く帰った。


▲ページの最上部に移動 | トップページへ
Powered by Rara掲示板