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日本の街道歩き〔92〕伊賀越奈良道 ( No.39 )
日時: 2022年11月26日 21:51
名前: 小林〕潔
【街道の概要】 奈良街道と名の付く街道は幾つもある。大阪から奈良へ向う街道、京都から奈良へ向う街道、伊勢神宮と奈良を結ぶ街道などである。今回の「伊賀越奈良道」(いがごえならみち) は奈良方面から伊賀を経由して松阪で伊勢街道に合流する街道である。
 以前、令和3年3月に歩いた伊賀街道は、伊賀上野の「鍵屋の辻」から長野峠を越えて津城まで続いたが、その途中、美里の五百野(いおの)付近で、津方面と松阪方面へ行く道に分れる。「伊賀越奈良道」は、ここから羽野(はの)、久居を経由して雲出川を渡り、松阪の嬉野から小津へ向って進む。そして月本追分で伊勢街道に合流する。鎌倉時代初期に造られた街道で、奈良から伊勢神宮を参拝する旅人が歩いた街道である。
【美 里】 出発は令和4年10月21日。快晴の秋日和に恵まれた。近鉄電車で名古屋から津駅まで行き、三重交通のバス「平木行き」に乗車する。約50分ほどで美里町の稲葉口バス停に到着する。この付近は五百野(いおの)と呼ばれる集落である。ここを通る伊賀街道(伊賀上野~津)は県道163号にほぼ沿っている。
 稲葉口バス停の近くに古い道標「右・さんぐう道、左・津道」があり、右の参宮道へ入る。参宮道とは、お伊勢参りの街道である。スタートして、まもなく長靴を履いて畑仕事をしていた私と同年配の人から、私のザック姿をみて「どこまで歩くの?」と声を掛けられた。「松坂まで古い街道を歩いて行きます」と返事すると「久居を通って行くのかな。いい事してるな~。頑張って歩いて~」とエールを送ってくれた。
 街道は三差路に差掛かり、石柱「従是南一志郡」(これより南は一志郡)が立っていた。ここで日差しが強くなったので、上着を脱いでリュックに仕舞う。まもなく集落から外れて田園地帯に出る。緩やかに右へ曲がると天保3年(1832年)の銘がある大きな常夜灯が聳えていた。その隣に古い「茶屋道標」もある。「右・さんぐう道、左・なら大さか道」の文字が読み取れる。こちらは天明6年(1786年)の銘があり、周りの田畑と相まていかにも古道らしい風景である。ここの説明文によると、日本地図を作成した伊能忠敬の測量隊が通行し、この地に宿泊した記録があると言う。
 街道写真を撮り鼻歌気分で田園地帯を進む。まばらに民家が散在する中を進むと伊勢大鷲ゴルフ場が広がっている。北出の集落に小ぶりの「北出の地蔵堂と常夜灯」が立っている。暫く進むと長野川に架かる稲初橋の袂に「下稲初の庚申堂」と道標「右・七栗道、左・久居道」がある。
 街道は橋を渡らずに、長野川沿いに南へ進むと登り坂になる。地図上では坂が分からなかったが、県道659号と重なっている街道は峠に差掛かる。まったく予期せぬ峠に呼吸が荒くなり、汗が止まらない。峠の頂上に着くと、三重ペットセンターがあり、この近くで休憩して水分補給をする。
【羽 野】 休憩のあと、街道は下り坂となり歩くスピードを上げると、小さなリュックを背負いサンダル姿の老婆とすれ違う。すると「お兄さん!どこまで歩くの?」と尋ねられ「松阪まで歩きます」と返事する。驚いた表情で「へ~え、松阪まで歩くの?信じられないわ。気を付けて歩いてね。頑張ってね!」と声援を送ってくれた。
  旧道は狭く曲がりくねって、車の通行はほとんどない。暫く進むと、羽野東集会所の前に常夜灯があり「安政四丁巳年五月吉日」(1857年)の銘がある。休憩のあと、カラスの大群が空を舞い不気味な感じがした。
 戸木公民館(へき)近くで電動車椅子に乗った老婆に逢い「こんにちは!」と挨拶を交わす。その近くに戸木小学校があるが、昔ここに戸木城があった所である。しかし、その形跡はまったくない。その先に「辻岡味噌醤油醸造元」の大きな暖簾を見る。かなり古そうな建物に、老舗の漂いがある。
 まもなく昼時となるが、腰掛ける良い場所がなく悩んでいると、伊勢自動車道の久居I C.の近くに高架があり、ここなら日陰もあり丁度よいと思い、歩道縁石に座って弁当を食べた。食べている途中に、反対側からリュックを背負って地図を見ながら歩いて来た人がいた。しかし軽装でスニーカー姿なので長距離歩きの風体ではなかった。
【久 居】 昼食のあと久居の街に入る。久居は江戸時代、藤堂久居5万石の陣屋町であった。津に本拠を構える本家の藤堂32万石の分家であるが、一国一城令により、城を持つ事ができず、陣屋が築かれていた。しかし町並みは城下町の風格がある。久居と言う地名はこの地の殿様が「永久に居を構える」と言ったことが由来とされる。
 街道筋は右に左に曲がり、典型的な枡形で迷路のようだ。久居の中心部に入り久居幸町(ひさいさやまち)にある「子午の鐘」(ときのかね)を目指す。鐘楼は高いので離れた所からも見えるが、入口が分からず民家の人に尋ねた。車の入れない狭い道に小さな案内板があった。もっと大きな案内板を設置して欲しい。
 「子午の鐘」は江戸時代、久居の町に時刻を知らせるためと、火事を知らせるために作られた鐘で、元文元年(1731年)の銘がある。ここは当時、武家屋敷があった所で陣屋と町屋を結ぶ「幸町御門」があった。なお太平洋戦争の時、この鐘は供出されたが、町の人の尽力によって戻された経緯がある。現在は津市文化財に指定されている。私が訪れていた時間帯では、鐘の音を聞くことが出来なかった。
 見学を終えて次に、久居二ノ町にある久居八幡宮を参拝した。境内に縦横1mほどの大きな絵馬が燈籠の前に置いてあり、写真を撮るのに好都合であった。久居八幡宮は、以前、野辺野神社と呼ばれていたが、一昨年の2020年に、名称が改められたばかりである。創建は寛文10年(1670年)で主祭神は応神天皇である。
 さて参拝を終えて久居の中心部である本町界隈を歩いていると、医師会館の角に道標があり、「いがなら道、いせさんぐう道」と表示してある。さらに南下すると道が分かりにくくなり、間違えて川併神社に出てしまった。地図で調べると東へ向うべきところ、逆の西へ向ってしまった。本来の街道筋に戻るのに、かなり苦労と時間が掛かった。
【桃 園】 街道は南西方面に向かって一直線に進むが、途中の道標のある所で右折しなければならない所を直進してしまい、近鉄の桃園駅に出てしまった。仕方なく三差路まで戻ったが、道標が何かの理由で移設されていたため、道標どおりに進むと街道から離れてしまう事になる。移設したなら、その旨を看板などに表示してくれれば良いのに何もない。この不親切さに腹が立った。
 暫く南へ行くと八柱神社があり、ここで水分補給と休憩をする。境内の前に古い道標があり「左・さんぐう道、右・なら道」と表示してある。今度は東に進路を取ると宝樹寺があり、短いが鬱蒼とした林の中を歩く。この林の中で、我慢していた小用を済ませ田園地帯に入る。
 近鉄の踏切を越して、暫く進むと「山辺の御井」と言う石碑があり、すぐ近くの物部神社を参拝する。山辺の行宮(あんぐう)とも呼ばれ、小さなお社であるが、荘厳な感じを受けた。そこからさらに南へ向うと、住友電装(株)津製作所の正門前に出る。この辺り道路の付替えがあり、本来の街道を忠実に歩けない。
 少し休憩してから雲出川(くもづがわ)の堤防沿いに歩くと、古くて長い大正橋を渡る。雲出川に架かる200mほどの橋であるが、歩道幅が40cmで、橋の欄干の高さが50cmしかなく、体が川の中に落ちそうな錯覚に陥る。高所恐怖症の私にとっては、今回の街道歩きの最大難所である。恐くて歩道を歩けないので車道を歩くが、車が通ると一時的に歩道へ上がって通過を待たなければならず、その都度、恐怖心に煽られる。そのため橋を渡り切るのに10分も掛かった。この雲出川が津市と松阪市の境界になっている。
【松 阪】 さて何とか大正橋を渡ると、松阪市の嬉野(うれしの)に入る。辺りは田園地帯で家はまばらに点在している。八雲神社の参道鳥居を左に見て、称名寺を通り過ぎると国道23号バイパスの高架を潜る。街道は県道697号と重なっているが、通行量は少ない。正福寺を過ぎるとJR紀勢線の踏切を渡る。そして子供たちが大勢遊んでいた「みどり公園」を過ぎると、街道のゴール地点である「月本追分」に到着する。
 ここは伊勢街道と奈良街道の分岐点である。江戸時代に伊勢参拝が盛んになるにつれ立場茶屋や、煮売屋(にうりや)などが軒を連ねるようになり、大勢の旅人が休憩を取る追分となった。
 月本と言う地名は、古くから伊勢神宮系の月読社が勧進されており、月読社の本の集落と言う意味から名付けられた。この追分には、高さ3m10cmの大きな道標が立っている。「右・いがご江なら道」と表示してあり、私も読む事ができた。この道標の向かいに大型の常夜灯が聳えている。これは天保13年(1842年)に建立されている。天保年間に江戸の豪商の角屋清兵衛、綿屋萬助、村田屋新兵衛の三人が寄付したものである。現在は三重県の史跡に指定されている。
 このあと、帰途に就くが、JR六軒駅まで行くと、電車が出たばかりであった。次の電車まで1時間20分も待たなければならない。そこで近鉄中原駅まで20分かけて歩き、駅のプラットフォームで、15分の待ち時間を利用して、持参していた焼酎を飲んで疲れを癒した。多治見の自宅には午後8時になったが、久しぶりの長距離歩行で39,000歩の街道歩きであった。


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