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日本の街道歩き〔91〕多良街道 ( No.38 )
日時: 2022年11月24日 20:54
名前: 小林〕潔
【街道の概要】 多良街道は、現在の大垣市上石津町多良(たら)から養老町の橋爪、新宮、室原を経て、大垣の美濃街道に合流するまでのルートである。多良は関ケ原から7㎞ほど南に位置する集落である。
戦国時代に織田信長の家臣であった木下藤吉郎(豊臣秀吉)が美濃斉藤家の家臣・竹中半兵衛を味方にしようと、栗原山を何度も訪ねた時に通った街道である。また慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の時、西軍の主力部隊(石田三成隊、島津義弘隊、小西行長隊、宇喜多秀家隊、など)3万5千人の将兵が、大垣から関ヶ原へ移動する時に通った街道である。
江戸時代に入ると、多良を領地に持つ交代寄合の旗本の高木家が、参勤交代で江戸に向う時に利用した街道である。また、高木家のお姫様が大垣の戸田家へ嫁ぐ時に通行したので、姫街道とも呼ばれた。
なお、街道ルートは美濃脇街道(関ヶ原~桑名)、養老街道(大垣~養老)、九里半街道(養老~関ヶ原)と一部、重なる部分もある。現在では街道ルートが土地区画整理や名神高速道路建設による道路の付替えがあり、昔どおりに歩く事は困難である。
【上石津】 出発は令和4年10月8日。JR東海道本線の関ヶ原駅で下車して名阪近鉄バスに乗換えるが、乗客は私一人だけである。過疎地域を走るので「一ノ瀬行き」はマイクロバスである。平成28年に踏破した美濃脇街道(関ヶ原~桑名、51km)に沿って南下する。15分ほど乗って、牧田上野バス停で下車して歩き始める。
 すぐに牧田小学校があり、運動場は運動会を開催するため、先生たちが準備作業をしていた。しばらく進むと牧田郵便局の前に牧田駐在所があった。ちょうど小用をしたいと思っていたので中に入ったが、留守で「只今、外出中です。御用の方は下記の番号に電話して下さい」と表示してあった。残念ながら、暫く我慢して歩く事にした。
 二又の馬頭観音には、九里半街道の道標が表示してある。ここを左折して寄り道をする。名神高速道路の高架を潜ると、桂谷古墳群が点在している。小さな古墳群を見学したあと、街道に戻って法泉寺、大神宮常夜灯を過ぎ、素戔嗚神社に着く。ここで写真を撮り、すぐに牧田川に架かる広瀬橋の北詰に着く。この牧田川の対岸が「多良」の集落である。九理半街道は橋を渡って南下するが、多良街道は東へ向う。ここにある小さな公園に道標があり、写真を撮ったあと、休憩して暫く我慢していた小用を足す。そして暑くなったので上着を脱ぐ。
 街道は牧田川の左岸沿いに県道227号を進む。後ろを振り返ると養老山脈が聳えている。しかし県道は道幅が狭く歩道が付いていないので危ない。大型自動車同士がすれ違う時は、路肩ギリギリに走行するので轢かれそうになる。大型トラックが通る時、歩行者の安全を気遣って停車してくれるので、私は手を振ってお礼すると、運転手もニッコリ笑って手を振ってくれる。ありがたい。
【橋 爪】 牧田川と名神高速道路に沿った道を1時間ほど歩くと、やがて養老SAが見えてくる。ここから橋爪(養老町)の集落に入る。高速道路の高架を潜ると、左手に標高143mの象鼻山が見える。この山には60基以上の古墳が点在している。その登山口に大きな石碑が立っている。これは室町時代の古戦場の碑文である。大永5年(1525年)に近江小谷城の浅井亮政と美濃国守護の土岐頼芸が、この付近の栗原山、別所、橋爪、牧田あたりで激戦を交えたと記されてある。これを「牧田合戦」と言う。
 その石碑の近くに昔のままの多良街道が残っている。わずか70mだけであるが、貴重な古道である。関ヶ原合戦の時、西軍の3万余の軍勢が通過したとの説明文がある。この近くの新宮の集落に「右・大垣二里、左・垂井一里八町、南宮一里」と表示した道標が立っている。
 しばらく田園地帯を進むと篠塚神社に着く。暑くて汗が止まらないので、ザックを下して水分補給をする。そこからさらに、広々とした田圃の中を進むと多良街道と南宮道の追分がある。現在は立花金属株式会社の工場があるが、三差路に「一本松」が立っていたと言う。昭和60年の工場拡張の時に切られてしまった。ここで関ヶ原合戦の時、西軍の敗残兵が逃げ遅れ、大勢が討ち取られたと言う。
 この頃、昼時となり近くの明治神社(新宮集落の氏神)で持参していたおにぎりを食べた。まだ足は疲れておらず、休憩30分ほどで歩き始める。近くに養老町立日吉小学校があるが、その北の方に長澤酒店があり、この角が多良街道と垂井街道の交差する地点である。多良街道は狭い道を東へ進む。しかし、昔のままの複雑に入り組んだ道なので、迷ってしまい、スマホのグーグルマップで自分の位置を確かめた。
【室 原】 迷いながらも県道227号を横断すると、室原(養老町)の集落に入る。ここも古い家屋が続き、迷路のような狭い道を不安気に歩く。小さな境川沿いに進むと室原郵便局の近くを通る。この近くに新宮神社があるはずであるが、またも道に迷ってしまった。悩みながら進むが、土蔵や連子格子の家が並び、昔の面影を残している。
 暫くすると、小さな常夜灯があり、その隣に室原祭りの山車の倉庫があった。その先に古くて大きな「井畑瀬古の大神宮」の燈明がある。大正11年と記してあるので、それ程古くはない。また、その近くに道標「左・谷汲道、右・大垣道」があるはずであったが、これも見つけられなかった。
 街道は室原の集落を抜けて広々とした田園地帯に入る。北の方には相川の支流である泥川が流れている。東へ向って進むと県道214号と交差する「大坪」という所に出たがこれは街道ルートではなく、スマホで確認すると、本来の街道筋より200m程南へずれてる事が分かり、北へ向う。
 茶園原を過ぎると、ジャガイモ畑が広がっている。事前の調べでは、この平原の中に「五郎丸城」があるはずであるが、中世の城なので土塁に囲まれた屋敷があっただけで今では、その痕跡はまったくない。昔は低い水田地帯で、少しの雨でも街道が浸水する悪道であった。
 泥川の河畔に「北浦あほ除」と言う、大きな水門がある。この辺りは車も人もまったく見かけない。東の方に東海環状自動車道が見えてきた。泥川が相川に合流する辺りに「相川綾部の渡し」があった所であるが、今は何も残っていない。高速道路の高架を潜ると、名阪近鉄バスの「養老橋バス停」に着く。
【綾 野】 相川に架かる養老橋を渡ると、養老町から大垣市の綾野へ入る。この養老橋は今年4月に踏破した養老街道(大垣~養老)でも渡った橋である。ここから県道96号に入るが、車両の通行量が一気に多くなる。
そろそろ疲労を感じるようになり、足が痛くなってきたので「綾野5南」交差点で長めの休憩を取る。天気はやや曇ってきて、少し歩きやすくなった。この県道96号は別名「天命ハクモレン街道」と言うが、意味が分からなかった。
綾里小学校を通り過ぎて大垣方面に向かって歩いていると、養老街道を踏破した時の追分に差掛かる。その時は広々とした田園の中、伊吹山を見ながら南下したが、今回は北上する。途中から狭い旧道に入ると浄徳寺に着く。本堂の前に立派な松の木があり、美しい庭園を鑑賞する。街道はゲンキー綾野店を過ぎると、東海道新幹線のガードを潜る。
【大 垣】 川の土手に上がると、大きな看板があり「杭瀬川」と表示してある。これは新幹線の車内から見るための表示板と思われる。土手を歩いていると、老夫婦のジョギングや、犬の散歩をしている人達と出逢い「こんにちは!」と挨拶する。
 静里町村中公園を過ぎてまもなく「塩田の常夜灯」に着く。ここは美濃街道、養老街道を歩いた時も通っている。この常夜灯は杭瀬川を往来する船の航路標識として造られ塩田湊の西岸に「伊勢神宮への献灯」として建てられた。杭瀬川の水路が、この地方の物資輸送に重要な役割を果たし、特に赤坂湊と桑名湊との中継地として、常に20艘くらいの船が停泊していた。
 「塩田の常夜灯」は平成30年9月の台風21号により大きな被害を受け、今は見るも無残な形でブルーシートで覆われている。表示板には「現在、修復方法について専門家の指導を受けながら検討しています」と記してあるが、4年経っても放置されたままである。また、ここには古い石道標が三つ立っている。その内の一つが「従是養老公園道」(これより養老公園みち)で、明治時代に建てられたものである。
 塩田橋を渡り徳圓寺を過ぎると、県道31号に合流する。これが美濃街道である。大垣久瀬川郵便局の先の養老鉄道の踏切を渡り左折すると、西大垣駅に到着する。ここが、多良街道のゴールである。暑さが続き、喉が酷く乾いていたので、冷たいジュースを飲み、大垣行きの電車を待った。


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