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日本の街道歩き〔88〕濃州街道 ( No.3 )
日時: 2022年04月12日 16:58
名前: 小林 潔
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【街道の概要】 濃州街道は東海道桑名宿の矢田近くの三ツ矢橋を起点とし、東員町鳥取、いなべ市笠田、阿下喜、川合を通り、藤原町の山口で巡見道と合流して、濃州(美濃の関ヶ原)へ向う分岐点までの約33kmの街道である。通称「員弁街道」と呼ばれる。
 三岐鉄道北勢線とほぼ並行するルートで、街道は戦国時代、織田信長の北伊勢攻略の大軍勢が通過する時に整備された。江戸時代には桑名藩の村々から年貢米が運ばれ、また山奥の村から員弁川を筏や高瀬舟で炭や薪が運ばれた。街道は昔ながらの細くて曲がりくねった道が多く残り、切妻屋根や格子戸の美しい家並み、由緒ある寺社が点在し、歴史情緒が感じられる。
【桑 名】 出発は令和4年3月3日。夜明けは氷点下の寒さで、コロナまん延防止措置中にも関わらず、春まだ浅き伊勢路を歩く喜びに胸を膨らませた。
 近鉄電車の桑名駅で乗換えて隣の益生駅で下車してスタートした。通勤通学の乗客が駅へ向う中、旧東海道の三ツ矢橋の交差点まで歩く。ここが濃州街道の出発地である。ここから再び益生駅方面に向かい、狭い旧道に入る。古い家並みが続き、昔ながらの八百屋、酒屋、衣料品店などの商店街に連子格子の古い家も建っている。
 暫くすると善龍寺に着き、濃州街道の道中安全を祈願する。善龍寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、立派な山門が建っている。少し先に馬道郵便局(うまみち)や三岐鉄道の馬道駅がある。北勢鉄道(現在の三岐鉄道)が敷設されるまで、桑名から阿下喜(あげき)まで馬車が通じていたので起点の地名「馬道」が今でも残っている。
 そこから狭くて曲がりくねった道を進むと、玉三稲荷神社に着き参拝する。稲荷神社の総本山は京都の伏見稲荷大社である。江戸時代末期、大名の松平定永が奥州の白河藩より桑名藩へ国替えされた際に現在地に鎮座された。ここには二つの名物がある。1つは境内にある松の木「三鈷の松」(さんこく)である。普通は葉が二葉で一組であるが、ここは三葉で一組であり極めて珍しいと言う。もう1つは「白蛇の自然石」である。二匹の白蛇が尻尾で結び合って、顔を向い合せているので、良縁・縁結びのご利益があると言う。白蛇は七福神の1柱である弁財天の化身であり、古来から蓄財のご利益があると言われる。
 街道は国道258線の高架下をくぐると、右手に三岐鉄道の西別所駅が見える。このあたりで気温が高くなり、早足で歩くと汗ばむので上着を脱ぐ。
まもなく三岐鉄道の踏切を渡るが、レール幅が驚くほど狭い。走っている電車も小さくて、マッチ箱みたいに見える。車の通行が少ない旧道をさらに西へ進むと在良小学校(ありよし)の前を通る。
【蓮花寺】 線路沿いに進むと右手に蓮花寺駅を見る。真宗大谷派の蓮花寺は駅から北の方へ500mほどの所にあるので訪れなかった。蓮花寺駅は小さくて新しい無人駅である。駅は大正3年に建設され、現在地より東へ130mほどの所にあったが、平成20年に移転した経緯がある。
 街道はさらに線路沿いに西へ進むと東名阪高速道の高架下をくぐり、古びた在良駅の前を通る。その先に「小林行政書士事務所」があり、「ハッ」とする。私は会社勤めをしていた20歳代の時、仕事で官公庁への各種事務手続き業務をしていた。その時、いっそのこと資格を取得しようと思い、独学で勉強して国家試験「行政書士試験」に合格した。もし会社が潰れたら自分で行政書士事務所を開設して、生計を立てるのに役立つと思ったが、定年退職まで勤務したので実現はしなかった。
 そこから在良郵便局付近の狭い道を歩くが、道が複雑に入り組んでいたので街道から外れてしまった。間違えたと気づき、スマホのグーグルマップで現在地を確認すると左折が早すぎた事が分かった。少し戻って本来の街道へ復帰した。その先の笹見橋を渡ると左手に大きな員弁川が見えてきた。
【星 川】 前方に員弁川に架かる坂井橋が見えてくると県道63号に合流する。以前、このあたりに三岐鉄道の「坂井橋駅」があったが、鉄道会社の事業合理化により、平成17年、坂井橋駅が廃止され、西へ500mの所に新たに「星川駅」が開業した。「坂井」の地名の由来は、昔、桑名郡と員弁郡の「境」がここにあったことから、その名前が付けられたが、後になって漢字が「坂井」に転じたものである。この坂井の隣に「赤尾」の集落があるが、私の妹が結婚して暫く住んでいた所なので懐かしかった。
 街道は星川駅を過ぎると右手に星川神社があり、ここを参拝した。早川神社は延喜式神名帳に記載がある格式高い神社である。古代、大和国山辺郡早川(現在の天理市)から移住してきた早川氏が、この地を開発して、平安時代には、この地方の交易の場となった。室町時代には早川神社の東方に早川城があったが、永禄10年(1567年)織田信長の北伊勢侵攻があり、城も神社も炎上した歴史がある。
 ここから10分ほど進むと、右手に森忠名神明神社(もりただな)があり、ここで疲れた足を休めた。チョコレートを食べてお茶を飲んでいると、シルバーカー(手押し車)を引いた老婆がお宮参りに来て、座っている私に声を掛けてきたので暫く会話をした。私のリュック姿を見て「どこか歩いているの?」と聞かれたので「桑名から員弁の藤原まで濃州街道を歩いているところです」と答えると驚いた表情であった。いろいろ質問され最後に「元気がうらやましいね。気を付けて歩いてね」と言われたので「お婆さんもお元気でね」と見送った。
 休憩を終えて歩き始めると、遠くに雪化粧した山並みが見えてきた。方角的に鈴鹿山脈とは分かるが、どれが藤原岳か分からなかった。しばらく進み七和駅を過ぎると五反田の集落に入り、大日堂に着く。先ほどからオシッコを我慢してきたが、お堂の横に古びたトイレがありスッキリした。
【東 員】 弁天川に架かる弁天橋を渡ると桑名市から員弁郡東員町に入る。街道の左手に「穴太徳の碑」(あのうとく)がある。講談や浪曲に登場するヤクザの穴太徳(本名は中野徳次郎)の碑が街道沿いの民家の庭に立っている。慶応2年(1866年)現在の鈴鹿市の荒神山でヤクザの賭場争いが起こり、親分の穴太徳と神戸の親分である長吉が、それぞれ子分を引き連れて乱闘事件を起こす。結果として穴太徳が負けて長吉が縄張りを横取りしてしまった。しかし穴太徳は人情に厚く義侠心もあり、地域の人々には信望があったので今も語り継がれている。
 さてしばらく進むと左手に穴太駅があり、まもなく穴太の集落に入る。そろそろ昼時になったので食事処を探すと「桑名志満や」と言う和食処があり、ここで少し高めであったが1265円のカツ丼定食を食べ疲れを癒した。
 ここから、しばらくは県道14号を進むが沿道は商店が並び車の通行量も多い。沿道には何も見る所がないと退屈して歩いていると、水仙の群生地を見つけた。春の到来を告げる可愛い水仙の花に疲れが癒された。その先の鳥取の交差点から街道は県道14号から離れ、やがて田園地帯に入る。
【大 泉】 車も人もいない狭い道を進むと、小さな茶屋橋があり近くには竹藪があったので、ここで我慢していた小用を済ます。その後、大きな鳥居の前を通るが、大谷神社一之鳥居である。そこから300mほど北の田園の中に大谷神社の森が見える。この神社も延喜式神名帳に記載がある格式高い神社で、五穀豊穣、学業隆盛、開運招聘などのご利益があると言う。
 左手に三岐鉄道の大泉駅を見ながら進むと、いなべ市立員弁小学校を過ぎ、大泉神明神社に着く。昔から大泉村の氏神として崇められ、境内が南北に長いので、地元の人は「長宮さん」と呼ぶ。
 その隣に「大泉新田開発之碑」が立っている。藤原氏の末裔である正木義次は文禄3年(1594年)に生れ、豊臣家の家来として大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)に出陣し、手柄を挙げたが豊臣家が滅ぶと員弁郡大泉村に住み着いた。寛永12年(1635年)領主である桑名藩に原野を開墾し溜池を造る許可を願い出て工事を始め、寛永16年(1639年)に完成した。領主の松平定綱が現地を見て、その功を褒め、義次を大泉新田の里政(庄屋) とした。その後、永代年貢免除を得て正木家は明治維新まで里政を続けた。明治5年、村人達は義次の偉業を称え、街道沿いにその碑を立てた。
【員 弁】 街道は員弁中学校、員弁郵便局を通り、まもなく三岐鉄道の「楚原駅」(そはら)に到着する。駅前に楚原神社があり参拝する。天文7年(1538年)村人が八幡社から勧請して氏神として楚原神社を創建したが、永禄12年(1569年)戦国時代の戦火で焼失するが、後に復興された。
 ここで1日目の街道歩きを終え楚原駅のプラットホームから美しい雪化粧の藤原岳を眺めた。この駅からマッチ箱のような電車に乗るのは約15年ぶりであった。3両編成の車両には乗客は全部で6人であったので、リュックに入れていた焼酎とつまみを取出してチビリチビリと疲れを癒した。
 翌日の2日目は快晴に恵まれ西桑名駅からマッチ箱電車に乗ると、冠雪の眩しいほどの藤原岳が美しく輝いていた。楚原駅で下車すると、狭くて曲がりくねった街道風景が往時の名残りを留めていた。
 まもなく国道421号と合流するが、笠田新田の交差点で再び狭い旧道に入る。明智川に架かる小さな寝覚め橋を渡ると道は極端に狭くなり、森の中に入って行く。すると途中に「文治の墓」がポツンと立っている。寛政11年(1799年)笠田新田村と隣の宇野村で田圃の水争いが起こり、百姓同士の喧嘩で宇野村の文治(35歳)が亡くなる事件があり、後に街道沿いに墓が建てられた。
 森を抜けると車道に出て員弁警察署の横を通り上笠田の集落に入る。くねくね曲がる細い道を進むとマレットゴルフ場から出て来た老人に遭遇した。私のリュック姿を見て「どこまで歩くの?」と言われ「藤原の本郷まで」と答えると「車じゃなくて歩くの?本郷までは遠くて大変だよ」と言われた。その後の会話は「昨日、桑名を出発して濃州街道を歩き、今日は楚原から歩き始めました」、「へ~、そんな人がこの世の中にいるのかな?あんた歳は幾つかな?」、「はい72歳です」、「歩き方がシャキッとしているから50歳代かと思ったよ。わしは95歳だが何歳にみえる?」、「80歳前後ですね」、「そうだろう!みんな、そう言ってくれるよ。毎日、家から長い道を歩いてマレットゴルフをして足を鍛えているからな。あんたも丈夫そうだから、元気で歩いて行けよ!」と言う会話を終えて先へ進んだ。
 次に県道5号と合流するが、直ぐに分かれて狭い旧道に入る。しばらくすると山の中に入り、昼でも薄暗い森の中を歩く。なんか獣が出没しそうな山道で、一人で歩くのは不気味で緊張した。15分ほどで開けた道に出て安堵し、山田橋を渡ると長い登り坂が始まる。広い車道であるが通行量はほとんどない。400mほど続く登り坂に呼吸が荒くなり汗が薄っすら出てくる。
【麻生田】 坂を登り切ると「北勢町麻生田」(おうだ)と言う古びた道標を見る。以前は員弁郡北勢町麻生田であったが、現在は、いなべ市麻生田である。その近くに「麻績塚古墳」(おみづか)の説明文が立っている。古代、この付近で麻の栽培や紡績に関わる人々を統治していた豪族の墓である。
 その先に昭和電線ケーブルの大きな工場が延々と続く。眼前には雪化粧の鈴鹿山脈が見えてくる。前からこの山並みは見えていたが、かなり近づいて来た。藤原岳まであと10kmほどの距離である。ここで昭和電線の敷地内に入り写真を撮ったが、出る時、監視カメラの前を通るとブザーが鳴り出したので、慌てて立ち去った。ビデオに自分の姿が撮られたと思うが、悪事はしていないので大丈夫だろう。
 しばらくすると左手に麻生田駅が見え、麻生田の集落に入る。小さな峠を越えて緩やかな坂を下りだすと、員弁川と三岐鉄道北勢線の線路沿いを歩く。小さな六石橋を渡ると麻生田から阿下喜(あげき)へ入る。
【阿下喜】 六石橋から眼下に阿下喜の街が一望に見える。鈴鹿セブンマウンテンの主峰である藤原岳(標高1144m)は南側から見ると中腹に段々の掘削跡が残っている。ここには大正10年に創業開始した藤原鉱山(白石鉱業桑名工場)が石灰石から炭酸カルシウムに関わる製品を生産していたが、需要低下により昭和44年に操業停止し、現在は段々畑のような景色を残し廃墟になっている。
 しかし山麓には今でも操業を続ける太平洋セメントの工場がある。太平洋セメントと言えば、私が平成30年に北海道の松前街道を踏破した時、北斗市(函館市の西隣)に大きな工場があり、セメントの専用積出港の前を歩いた事を思い出した。太平洋セメントは元々は明治14年に小野田セメントとして創業し、後に秩父セメント、さらに日本セメントを合併して平成6年に太平洋セメントとなった。現在の藤原工場は昭和7年から操業が始まっている。私は藤原岳には昭和48年(当時は24歳)に聖宝寺ルートから登頂したことがあるので懐かしかった。
 街道は員弁川を左手に見ながら西へ進むと三岐鉄道の終点「阿下喜駅」に到着する。銀行、コンビニ、商店などが並び、田舎にあっては開けた街並みである。駅の近くに阿下喜温泉あじさいの里があり、牛馬坂を登る。結構きつい坂で登り切ると阿下喜の中心部に入る。折しも「阿下喜おひなさま」祭りが開催中で、商店や民家など100軒以上で華麗な雛祭りの段飾りや吊し雛が展示してあり、中には22段飾りもある。昭和の風情が色濃く残る街並みを観光客が見て回っている。
 そろそろ昼時となり食事処を探したが見つからず、地元の古老に尋ねたら教えてくれ和食処「大鯛」へ行った。800円の寿司ランチを注文すると、握り寿司6貫、伊勢うどん、サラダ2種、デザート、コーヒーが出てきた。味、ボリュームとも十分に満足したが、本当に800円なのか?もしかして1800円かもと思いながら千円札を支払うと200円のお釣りをくれた。ラッキー!
 気分を良くして次に大西神社を参拝した。大西神社は古くは諏訪大明神と呼ばれたが天保7年(1830年)に大西神社と改称された。社務所にはたくさんの雛人形が陳列してあり、参拝者が珍しそうに見学していた。さて阿下喜の宿場を見て回ったあと、街道は郊外へ出る。
【川 合】 田切川の鎌田橋を渡ると渚毛利谷神社の前を通り、次に員弁川に架かる長い野尻橋を渡る。しばらく進むと下野尻バス停の前に春日神社があった。この角で国道306号に合流する。この先は延々と続く田畑が続く田舎風景となる。ここから北に向って古い街道が延びているが、藤原町の町中へ行く県道61号の新しい街道ルートを選択した。
 そろそろ小用をしたくなり、トイレを探すが見当たらず困って歩いていると「員弁警察署東藤原警察官駐在所」と言う交番を見つけた。小さいが新築の交番に入ると誰もいないので、大きな声で「こんにちは~」と言うと奥から若くて、いかついお巡りさんが出て来た。ちょっと恐そうな顔で「何か御用ですか?」と言われ「お手洗いを貸して頂けませんか?」と言うと、表情を和らげ「どうぞ、こちらです」と許可してくれた。最新式の清潔なトイレで用を済ませたあと、念のため「藤原町の本郷社はこの道で宜しいですか?」と尋ねると「間違いないです。真っ直ぐですよ」と答えてくれた。こんな所をなぜ歩いているのかと、口には出さなかったが、知りたそうであったので「桑名から濃州街道を歩いてきました」と言うと「それはご苦労様、気を付けて!」と見送ってくれた。お巡りさんに敬礼して扉を閉めた。
 これまで街道歩きではトイレや道を尋ねるのに日本中の交番のお巡りさんにお世話になってきたので、久しぶりの触れ合いが嬉しかった。街道は北へと進む。
【藤 原】 良く整備された舗装道路を歩くが、ほとんど車が通らない。人里離れた過疎地域である。途中、藤原中学校、市場バス停、J A三重北・白瀬支店などを通過した。このあたりの道標には「彦根へ36km、関ヶ原へ29km」と言う表示がしてある。街道の左手には、手の届くようなところに藤原岳が聳えている。道標に「藤原岳登山道まで2km」と言う案内板がある。阿下喜に着く前までは南から藤原岳を見てきたがこのあたりでは東側から見ている。山の形が大きく変り、残雪の量も多くなって来た。険しさに威圧された。
 円琳寺あたりで旧道と新道が合流し、本郷の町中に入る。古い建物が並び昔の宿場の面影が残っている。白瀬交番の近くに真宗大谷派の本光寺があり、立寄って参拝したが山門や庭園が立派であった。
 本郷の交差点から北西に進むと本郷社に着く。創建時期は不明であるが、かなり古い神社である。文政7年(1824年)の村明細帳には本郷の神明宮と記載があり、明治5年に本郷社と改称された。ここで最後の街道写真を撮り、濃州街道のゴールとした。この本郷の山口で巡見道と合流した所が終点である。その先は美濃の関ヶ原に向って別の街道が続く。
 さて無事に街道を歩き終え、本郷バス停から帰途に就く。バスはコミュニティーバスで、いなべ市福祉バス「愛バス」が運行されており、誰でも利用でき無料である。しかし一日に5便しかなく、私の乗った14:30発が最終バスであった。発車5分前にバス停に到着したが、これを逃すと阿下喜駅まで約2時間歩かなければならないので、焦ったがギリギリ間に合って安堵した。
 そして三岐鉄道の阿下喜駅からマッチ箱電車に乗ったが、乗客は5人だけであった。気兼ねなくリュックから焼酎とスルメを取出して西桑名駅までの1時間をチビリチビリと疲れを癒した


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