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日本の街道歩き〔89〕八神街道 ( No.10 )
日時: 2022年04月27日 06:37
名前: 小林 潔
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【街道の概要】 八神街道(やがみ)は元和元年(1615年)尾張藩の家老で美濃国の中島郡八神に領地を持つ毛利広義が名古屋城へ登城するための道として開設された街道である。八神は現在の岐阜県羽島市の東部にあって、街道ルートは、木曽川を渡し船で越し、祖父江、山崎、森上、片原一色、矢合、北島、増田、迫間、西市場を経て、清洲城付近で美濃街道に合流する。現在の稲沢市から清須市にかけて広がる濃尾平野の田園地帯を通っており、愛知県の県道67号にほぼ沿っている。
 道中には古い道標などが残っているが、知名度が低いので現地でも知っている人は少ない。今回は桜の満開時期に合せて時期を選び、春爛漫の街道旅であった。
【清 洲】 出発は令和4年4月2日。前日の中日新聞「桜だより」で清洲公園が満開となったので出発日を決めた。コロナまん延防止措置が解除されたばかりで、電車の通勤客はマスクをしっかり付けている。名鉄新清洲駅で下車し、すぐにスタートした。
 五条川に架かる長者橋から北へ向い、清洲小学校を過ぎると五条橋に出る。ここは美濃街道のルートである。私は平成24年に垂井から名古屋までの58kmの美濃街道を三日かけて歩いているので懐かしかった。まもなく清洲城に到着するが、お城の東側は誰もいないので、写真は撮りやすい。五条川に架かる大手門前の朱色の橋を渡ると、カメラを持った人や、子供連れの家族らが満開の桜の写真を撮っている。清洲公園の桜並木は200本ほど植えてあるが、密集しているので見応えがある。
 清洲城は応永12年(1405年)、尾張国の守護職である斯波義重が本城の下津城(おりづ)の別邸として建てたのが始まりである。しかし戦乱により文明8年(1476年)に下津城が焼失したので守護所が清洲に移転し、尾張の政治、経済の中心地となった。時代は下り、弘治元年(1555年)、織田信長が那古野城から清洲城に移転した。そして永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いには、この城から出陣している。
 本能寺の変の後の「清洲会議」以降の城主は、織田信雄、豊臣秀次、福島正則、と続き、関ヶ原合戦以後は、松平忠吉(家康の四男)、徳川義直(家康の九男)と変り、人口6万人の尾張最大の都市になった。しかし慶長15年(1610年)、徳川家康の命令で「清洲越し」が実施され、尾張藩は名古屋城へと移転し、清洲城は廃城となった。平成元年に天守閣が復興された。
 さて清洲公園の桜並木をタップリ味わってから美濃街道へ戻る。再び五条橋へ出て、西へ進むと清涼寺がある。元は甚目寺村にあった曹洞宗の寺であったが、寛永年間(17世紀中頃)に現在地に移転した。美濃街道の清洲宿の中心地にあり、門前に高札場があって「札ノ辻」と呼ばれた。そこには道標「甚目寺、佐屋」と常夜灯があり、当時の様子は「尾張名所図会」にも描かれている。
 清涼寺から北へ100mほど行くと、今回の八神街道のスタート地点である追分に到着する。ここから狭い曲がりくねった旧道をジグザグに歩くと、名二環高速道の高架と国道302号の上下幹線道に突き当る。しかし横断歩道が見当たらず、あたりを見回すと近くにアンダーパスの入口を見つける。その高架下の歩道を進んでいるとチリンチリンと自転車のベルが鳴り、高齢のお婆さんが「ごめんなさ~い!通して下さ~い!」と大声を上げて接近して来たので、道を譲った。
 しばらくすると、量販店のヨシヅヤの前を通り、名鉄の線路に突き当るが踏切がないので困ってしまった。良く見ると、そこにある柵は付近の柵と様式が異なるので以前は踏切があったのではないのか。きっと名鉄が通行量の少ない踏切を廃止したに違いないと思った。強引に線路を渡ろうかとも考えたが、電車が頻繁に通過するので止めた。しかたなく線路伝いに名古屋方面へ300mほど行くと、踏切があるので迂回した。往復で600mのロスウォークにガッカリする。線路の向かい側に出ると清洲なのはな保育園があり、これを過ぎると清須市から稲沢市に入る。
【中之庄】 稲沢市に入り増田南バス停を過ぎると家がまばらになり、田園風景に変わる。しかしこの日の天候の影響か、持病の花粉症が激しくなり、鼻水が止まらない。暫くは休む暇なく鼻を嚙みながら歩くが、持参していたポケットティッシュ3個を使い果たし、ハンカチで鼻水を拭きながら進む。困っていると、前方にセブンイレブン稲沢中之庄店を見つけた。立寄ってお手洗いを済ませると、棚にポケットティッシュが置いてあったので迷わず購入する。6個入り165円であったが、何とタイミングが良いかと運の強さを喜んだ。しかし、休憩した後、歩き始めると鼻水がピタリと止まってしまい、結局一度も使用することなく、家まで持帰る事になった。
 さて街道は中之庄の集落に入ると連子格子の家、黒壁の土蔵などを見かけ宿場町らしい雰囲気が醸し出される。町中では民家の前に「中之庄の道標」を見つける。文字が摩耗しているが、ひらがなで「やがみ、なごや」と読み取れる。
 そこから街道は北へ向きを変え、狭い道を進むと民家の庭にサッカーのゴールポストが1個、設置してある。大きさは本物と同じである。たぶん、中学生か高校生の子供がゴールキーパーの練習をするため父親にでも作ってもらったに違いないと想像した。
 まもなく豊田合成稲沢工場の西側を通り、宝田公民館に着く。公民館の隣の公園には枝ぶりが見事な桜が満開に咲き誇っていて癒された。暫く休憩したあと、歩き始めると「土之社」と言う神社入口の1対の常夜灯を見て進む。まもなく北島陽春公園の隣にある陽春院に着く。お堂や鐘楼が立派な曹洞宗の寺である。
 そろそろ昼時となり、食事処を探していると、「北島皿屋敷」交差点に「うま屋ラーメン稲沢店」を見つける。店員の威勢の良い掛け声が飛び交い720円の特製ラーメンを食べたが絶品の美味しさであった。このラーメン店から北へ500mほど行くとアジサイ寺で有名な性海寺がある。何度も訪れた事があるが、境内には90種、1万株以上のアジサイが咲くのは壮観である。その後、街道は県道67号と重なり、西へ向って真っ直ぐな道を歩くと大江川を渡り梅須賀の交差点に着く。
【矢 合】 梅須賀で県道67号から外れて狭い旧道に入る。小さな梅須賀川を渡ると矢合の集落に入る。左手には尾張国分寺跡がある。天平13年(741年)聖武天皇の命で全国に国分寺が建立され、尾張国では、この矢合の地に建てられたが元慶8年(881年)に焼失してしまった。
そこから北へ5分ほどの所に鈴置神社(すずおき)があり、ここの桜も満開であった。境内には大きなクスノキがあり稲沢市の保存樹木に指定されている。また境内には石道標もあり、坊さんの絵が彫り込まれた石柱に「八神道」と書いてある。
 この矢合付近を歩いていると、植木園をあちこちに見かける。植木の歴史は嘉暦3年(1328年)矢合村の円興寺の柏庵禅師が中国から柑橘苗木の生産技術を持帰り、近隣の農家に伝授したのが始まりである。昭和40年代に全国的な緑化ブームが広がり、稲沢固有の庭園用植木の生産が主流となった。全国には他に、川口市(埼玉県)、池田市(大阪府)、久留米市(福岡県)が植木生産で有名であるが、稲沢市を含めて日本4大植木生産地と呼ばれる。
 なお、この街道から北へ少し行くと有名な矢合観音があるが、時間がないので先を急ぐ。街道は三宅川に架かる正楽橋を渡り、再び県道67号と合流して、一路、西へ一直線に進む。
【一 色】 しばらく県道67号を進むが、足が疲れたので「デイサービス長楽」と言う老人介護施設の前で休憩し、持参した甘い羊羹とチョコレートを食べて体力の回復に努める。この辺りは家がまばらな一色の集落であるが、景色が単調でつまらない。
暫く、どんどん西へ進むと片原一色の集落に入り、古びた小さな富士社の隣にある善応寺を参拝する。この寺は織田信長の家臣で、鉄砲隊長であった橋本一巴の祖先が創建した浄土宗の名刹である。日本庭園が美しく本尊の大日如来は愛知県文化財に指定されている。
 その先のセブンイレブン一色市場店を過ぎると右手に片原一色小学校がある。明治時代に創設された歴史ある小学校であるが、校庭に八神街道の石道標がある。学校の敷地内には無断で入る事ができず、正門は鍵が掛かり門扉で閉ざされている。小学校は春休みで無人となっており、どこからか入れないかとウロウロしていると、垣根が切れている所があり、体を細めて校庭に侵入した。少し罪悪感があり監視カメラに撮られているかもしれないと思った。それでも目当ての石道標を探し当て「右やがみ、左なごや」の文字が読み取れた。その隣には今では珍しい二宮金次郎の石像が立っている。この片原一色小学校の石道標が見られて気分良くして、八剣神社の満開の桜を眺めながら街道歩きを続けた。
【森 上】 八剣神社から県道67号を離れ、狭くて曲がりくねった道を進むと日光川に架かる森上橋を渡る。日光川の川岸に連なる桜並木が川面に垂れ下がり絶景を見る事ができた。まもなく名鉄尾西線の踏切を渡ると右手に森上駅がある。その頃、トイレへ行きたくて我慢していたが、駅員に頼んでホーム内にあるトイレを使わせてもらった。その後、森上駅前のロータリーを歩くとイチョウ並木の石碑が立っていた。この辺りはイチョウ並木が多く、昨年の秋に私が所属している夕顔句会の吟行で、この付近をウォーキングして俳句を作った所である。
 イチョウは「生きている化石」と言われ、2億5千万年前の古生代・2畳紀から続く植物である。イチョウは中国から日本に渡来したのは仏教の伝来と同じ頃と言われ、祖父江町内には樹齢100年を越える大木が多い。毎年、晩秋になると黄金色に染まったイチョウ並木が絶景となり、多くの観光客が訪れる。また祖父江銀杏も有名で、品種には「久寿」、「金兵衛」、「藤九郎」、「営神」などがあり、良質な銀杏は全国に出荷されている。
【祖父江】 街道は祖父江の町中に入り、J A愛知厚生連稲沢厚生病院の近くで休憩する。その後、領内川に架かる堂前橋を渡ると、大きな平和堂ショッピングセンターを左手に見て進んで行く。町並みは古い家が連なるが商店街は寂れた感じである。
 祖父江高熊の交差点を過ぎると善光寺東海別院に着く。折しも善光寺の御開帳が翌日の4月3日から始まるので、その準備が完了していた。長野市の善光寺は「牛に引かれて善光寺参り」と言われ、1400年の歴史を持ち、7年に一度の御開帳がある。全国に6つの善光寺があるが、いずれもコロナ禍のため昨年はすべて中止になり、1年遅れで今年、令和4年に御開帳が行なわれる事になった。
 全国にある六善光寺とは、善光寺(長野市)、元善光寺(飯田市)、甲斐善光寺(甲府市)、祖父江善光寺(稲沢市)、関善光寺(岐阜県関市)、岐阜善光寺(岐阜市)である。
 街道はさらに西へ向う。祖父江幼稚園、歓喜院を過ぎると、やがて愛知県営木曽川祖父江緑地に到着する。ここで右折して北へ進み、木曽川の岸を目指す。祖父江緑地は木曽川沿いの広大な公園で、テニスコート、屋外プール、バーベキュー広場、トリム広場、冒険広場、中央広場があり、何百台も入れる駐車場も備えてある。私がここに着いたのは、午後3時半過ぎであったが、春休みを利用して家族連れが多く、満開の桜の木の下で、大勢の子供たちが遊んでいた。
 街道は緑地に沿って北へ進むと祖父江砂丘に着く。昭和36年に木曽三十六景の一つに選ばれ、小規模であるが日本唯一の河畔砂丘である。毎年、秋には稲沢サンドフェスタが開催される。砂丘は砂粒が細かくて歩きにくい。「砂を持ち帰らないで下さい」と言う看板が立っている。
 そこから、さらに木曽川に近づくと馬飼ビーチと呼ばれる川岸があり、若者がウインドサーフィンを楽しんでいた。風が強いのでサーフィンが転倒するが、すぐに立て直して川面をスイスイと滑っていた。ここから木曽川の対岸に陸地が見えるが、美濃国、現在の岐阜県羽島市である。ここから「八神の渡し」で木曽川を渡るが、街道歩きはここでゴールとなる。現在は下流の方に馬飼大橋が架かっているが、昔は木曽川を船で渡った場所である。
【八 神】 現在では船渡しがないので対岸に渡れないが、八神の集落(羽島市桑原町八神)が見える。この集落に八神城跡がある。鎌倉時代に毛利氏が築城したのが始まりである。この毛利氏は戦国時代の覇者であった中国地方の毛利ではなく、河内源氏の末裔である美濃の毛利氏である。
 戦国時代の美濃・毛利氏は、土岐氏、斎藤氏、織田氏に仕えていた。江戸時代に入ると尾張徳川家に仕え、八神城周辺を領地としていた。現在では土塁、石碑くらいしか残っていなくて、住宅地になっている。その城跡には毛利氏の子孫が今でも住んでいる。
 長い街道歩きを終えて帰途に就くが、電車は名鉄尾西線の山崎駅まで4kmもある。しかし交通機関がないので、歩くしかなく疲れ切った足を引きずるように1時間ほどかけて山崎駅に着いた。久しぶりの長距離であったが、頑張って歩き通す事ができ、安堵と、まだ現役が続けらそうだと思った。


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