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アステロイド・シティ
投稿日:2023年09月17日 17:30 No.221
なる欧米映画観てたら「北条時行」がどうのとのセリフがあり、「逃げ若」由来たるは明らかであるが、アニメ化
人気作とはいえよくまあとの感あり。
この作品に登場する新田義貞は、どちらかと言えばおバカキャラであろうか。近年は、義貞は足利高氏門下の数ある部下の1人に過ぎず、むしろ高氏サイドが政治的都合で無理矢理に敵対者に引き上げた、かのような見方が有力化しつつある。まあ近年流行の古来通説「何々はなかった」論的な、いわば旧説固執者を冷笑せんとす魂胆風情が無くもない。
なお、史実的には北条時行のハイライトは、北畠顕家と新田徳寿丸(義貞子息義興)と組んだ破竹の上洛戦と、足利の内紛に乗じてこれまた新田義興、義宗と組んで関東を席捲した武蔵野合戦であろう。後者の主戦場が、松山校舎の西の嵐山鳩山境界の笛吹峠とされるが、うすい峠と読むので釜めし峠説もあってすっきりしない。
笛吹峠の北の嵐山側に将軍沢の地名が有るが、新田の所領があったとされる。ここで言う将軍は付近の伝承的には坂上田村麻呂や藤原利仁を指す場合が多いが、百済王俊哲の名も若干伝わっている。田村麻呂や俊哲は、桓武朝蝦夷征伐の将軍である。
後世の物知りによるこじつけと考えるのが常識だろうが、武蔵が蝦夷征討の策源地だったのは事実であるからあながち一蹴はできぬ。なお大阪枚方の百済寺は、桓武天皇の百済びいき言わば百済バブルで大いに寺観を整えたのだが、百済王俊哲はその当事者である。逃げ若もまた、北畠顕家戦死後に一時男山八幡に籠城した新田徳寿丸とともに、この百済寺付近を彷徨した事想像に難くない。