九州説の皆さんのための古代史掲示板


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書き込みは初めてです 山の肥後人 投稿日:2019年08月25日 17:32:52 No.2209 【返信】

もう何年も以前から、のぞかせていただいておりましたが、書き込みは初めてです。
初めまして、山の肥後人と名乗っております。
久しぶりに「古代史」関連の掲示板を見渡しましたら、随分と変わってしまったようです。

ひとりで考えておりましたが、今月本を出版しましたしましたので
、書き込みさせていただきました。もちろん「九州説」です。

著書は「魏志倭人伝の路」(ぎしわじんでんのみち)

副題は”あなたも訪れてみませんか、魏使や倭人たちが通った路を”

著者は「山の肥後人」としてます。

佐賀・福岡・熊本の見え方が変わります。
Amazonサイトで「魏志倭人伝の路」と検索してください。

パソコンだと「なか見!検索」で、冒頭から20ページ読むことができます。
Googleからでも検索できます。

リンクを張っておきます。
https://www.amazon.co.jp/dp/481501308X/ref=cm_sw_r_li_apa_i_McznDb9E3HYYR

突然、失礼いたしました。


蔚山人 投稿日:2019年08月25日 21:05:17 No.2210 【Home】
山の肥後人様

何となく私の名前に似ているので、ちょっと親近感があります。技術屋さんが書いた邪馬台国の本は、それなりに得るものがあるように思えます。そこで期待してネットでの文章を拝見して、凡その山の肥後人さんの描いているイメージを捉えられたと思っています。

しかし残念ながらやはり満足するものに至っていないように感じました。その理由は、北部九州だけに範囲が留められている点にあります。書籍を見ていませんので、間違った評価であれば謝ります。もうちょっと小出しがあれば、嬉しいですが、これは無理でしょうね。
山の肥後人 投稿日:2019年08月26日 18:20:53 No.2211
蔚山人さん、こんばんは。オヤジッチさんと同じく「様」は、ご遠慮申し上げます。^^;

早速、リンクを見ていただきありがとうございます。

> 北部九州だけに範囲が留められている点にあります。

正に当時の「倭国」は、北部九州でしかも中央部に限られておりました。
有名な「吉野ヶ里遺跡」さえ、当初は参加していればと期待もしましたが、「魏志倭人伝」を読み解きますと、「倭国」の連合国家には参加しておりませんでした。
当時の西日本には、倭種が住んでいたと考えられますが、魏の使いたちには認識されていなかったようです。

著書では多くの倭国の現在地を説明しております。
著書を読んでいただければ、当時の「倭国」を垣間見ていただけると思います。
セールストークになってしまいました。m(._.)m
蔚山人 投稿日:2019年08月27日 15:59:25 No.2212 【Home】
山の肥後人さん

弥生時代、殺傷人骨が多いのが筑紫野市や小郡市などの福岡県の中心部のあたりです。吉野ヶ里遺跡は、その場所から離れています。しかし何らかの関連性があるのでは考えています。

吉野ヶ里遺跡は、昔メタ国と呼ばれていて、人を閉じ込める区画を持つように人攫(さら)い国家ではなかったかと考えています。そのためその東側の諸国の人々とは、いつも諍いを起こしていたのでしょう。当然倭国連合とは、別な場所に位置しており、魏の使者が寄らなかったのもその理由です。

私は遠い異国にいますので、帰る機会があれば書店をのぞいてみます。
山の肥後人 投稿日:2019年08月29日 09:52:42 No.2213
蔚山人さんは、ネパール在住なんですね。

イタリア在住の知り合いに出版のことを話したら、Amazonから即2冊注文してくれました。
ただ日本国内だけの販売なので、届け先は我が家にでした。
来年、日本に来たときに受け取るとのことでした。
半年以上あります。ということで「国際eパケットライト」で送ってあげました。
来週には、届きそうです。読後の感想を楽しみにしているところです。^^

ちなみにAmazon独占販売なので、本屋から発注はできますが、置いてはありません。^^;

読むのが早ければ早いほど、倭国の真実を見ることが早まるかもしれません。
またまたセールストークになりました。m(._.)m

異国の地で、健やかにお過ごしください!
山の肥後人 投稿日:2019年08月29日 11:06:59 No.2214
>倭国の真実

「倭国の概要」が適当かもしれません。
投稿日:2019年09月08日 21:40:32 No.2215
 山の肥後人さん、はじめまして。郭公と申します。
 私は、有明海に近い産なので、さしずめ、海の肥後人になりますかね。
 郭公というHNは、山仲間の影響です。
 下記は、私のHPですが、古代史もちょこっと書いてますので、よろしければご一覧ください。
 ちなみに私は、邪馬台国≠女王国、卑弥呼の墓は平原一号墓説です。

http://kakkou1210.stars.ne.jp/index.html

 この掲示板は、どこにもリンクしてませんし、宣伝もしてませんので、ごくごく限られた方たちの書き込みです。
 古代史論もよし、情報交換もよし、気楽に書き込んでください。
 今後ともよろしくお願いします。
山の肥後人 投稿日:2019年09月12日 20:03:16 No.2216
郭さん、はじめまして。

後ほど、お邪魔します。
オヤジッチ 投稿日:2019年09月14日 09:31:21 No.2217
山の肥後人さん、はじめまして、こん○○は。
ご本、早速アマゾンで検索したら、「3個の評価」で5点が100%付いていますネ。すごいです。

ところで、吉野ヶ里にて「特別企画展シーリーズよみがえる邪馬台国(邪馬台国と豊の国豊前)」が9月21日から11月11日まれ開催されます。西日本新聞の宣伝ポスターをアップします。
ついでに、一昨日晩夏の北内郭と同じく秋間近かの古代水田(赤米)をアップ。


山の肥後人 投稿日:2019年09月14日 10:20:55 No.2218
オヤジッチさん、はじめまして。

>すごいです。
ありがとうございます。
オヤジッチさんも、是非読んで、レビューを書いてください。^^

情報と写真をありがとうございました。



支石墓 オヤジッチ 投稿日:2019年08月24日 11:30:22 No.2207 【返信】

1998年10月20日志摩町歴史資料館特別展『支石墓が語るもの』
「支石墓の源流」より

支石墓の祖形をたどっていけば、フランスのブルターニュ地方に数多く点在するドルメンに発端をみることができる。
・・・
中略
・・・
現在、ドルメンは紀元前4.000年から2,000年にかけて構築されたと考えられ、ヨーロッパで最初の農耕民が建設者とされている。
・・・
中略
・・・
ドルメンは、農耕文化の伝播とともにユーラシア大陸を東へと進む。
 インド全域に分布するドルメンは、紀元前1,000年ごろから建設され、インドで鉄器が使用され始めた時期と一致する。
・・・
中略
・・・
中国東北部に分布が知られるドルメンは、ようやく「支石墓」という名前を与えられる。
 遼東半島という限定された地域に300基以上確認されている支石墓は、地上に埋葬施設が露出した卓子形(石柵)と、地下に埋葬施設を持つ大石蓋墓の二つの形式に分けられる。
 先行するのは卓子形で、最も古いタイブで紀元前二千年紀から見られ、大石蓋墓はこれに追従するように現われるが、卓子形が集団墓の形をとっているのに対し、大石蓋墓は個人葬用のものとして造られている。
 卓子形は遼寧省から朝鮮半島北部まで広く分布し、そのため北方式ともいわれている。
 一方、大石蓋墓のように地下に埋葬施設を持つが、地上に置いた支石に大きな上石を置く碁盤形は主に韓国に集中して分布することから南方式と呼ばれる。
日本の支石墓に直接影響を与えたのは、この碁盤形である。しかし、朝鮮半島のものに比べ小型であることと、地下の施設が朝鮮半島のものがその多くが石室であることに対し、日本のものは木棺、甕棺、石棺、土壙などと多様な内部主体を持つなど、日本独自の支石墓として発展したことがわかる。
 ヨーロッパを出発したドルメンはここ日本が終着駅となったが、それは西北九州から広がることはなく、稲作受容期の短期間で終焉した。

最後の「中国東北部に」以下以外は証明されたものとは言えませんが、それ以下は考古学的定説です。


蔚山人 投稿日:2019年08月24日 20:28:39 No.2208 【Home】
韓国に住んでいた時に、高敞、和順の2つの支石墓を訪ねたことがあります。特に景色がいい所にある訳でもなく、ある間隔をおいて並んでいて、どこからこの石を運んできたのだろうと不思議に思っていました。石のサイズも大きなものですね。

丘陵の上に石を取れる場所があり、大きな石はそこから滑るような方法で、運ばれたのではないかと説明を受けました。大変な労力をかけて作ってもどれほどの効果があったのでしょうか。日本のものはそれより小型のものが多そうで、作り始めた最初から形も身の丈にあったものであったようで、影響というより独自の取り入れ方であったように思えます。埋葬されている方が縄文人が多いように聞いています。朝鮮からの渡来ではないような気がします。

日本では、甕棺や石槨墓が似合いですね。小学校の頃、曰佐原でこの石槨墓を見学に行きましたが、中が朱に塗られていて、ちょっと異様な感じにショックを受けたことが、私が古代史を勉強しようとするきっかけになりました。



奴國の丘から オヤジッチ 投稿日:2019年07月27日 10:54:26 No.2198 【返信】

ご無沙汰していますm(__)m
奴國の話題ではありません、伊都国です。
今年初めて伊都國歴史博物館に行きましたら、常設展示(2F)及び自前の資料を使った企画展(伊都国発掘‐令和元年‐)での写真撮影がOKになっていました。でゃんサイン表示されています。


蔚山人 投稿日:2019年08月03日 15:07:31 No.2199
ご無沙汰しています。

オヤジッチさんには、昔の掲示板で私の不用意な言葉で気分を害されたのではないかと思っています。丁度よい機会と思いますので謝らせて下さい。申し訳ありませんでした。

今はネパールにいます。滞在はかなり長くなるでしょう。日本のことはいつも思い出していますが、戻ったら伊都国歴史博物館にはぜひとも寄りたいと考えています。

ネパールは人種のるつぼの国で、コーカサス系、中東系、インド系、黒人系、モンゴル系、チベット系、ネワール系(ネパール系)など、多種多様な人種の方が、身近なところ、狭い中で混じりあって生活しています。日本のように、単一民族の雰囲気というのとは違っているため、興味が尽きません。

掲示板が寂しくて残念にいつも思っています。オヤジッチさんの蓄積された知識を、以前のように時候の挨拶のようなものでも結構ですから、時々は皆さんにご披露して頂けると、有難いと思います。楽しみにしています。
オヤジッチ 投稿日:2019年08月05日 13:28:52 No.2200
> オヤジッチさんには、昔の掲示板で私の不用意な言葉で気分を害されたのではないかと思っています。
↑何のことでしょうか。何にも気にしていませんが。
> 申し訳ありませんでした。
↑どういたしまして、と言うか、何も謝ってもらうようなことは無いです。 (・・?)
 なんにしろ、私が忘れていると言うか、気になってもいないので、蔚山人さんもお忘れください。

挨拶代わりに
1.先月(まだまとまった雨が降る前)の平塚川添遺跡の復元環濠
2.吉野ヶ里北内郭(定点観測的に行く度にとって増す)
3.おまけ、朝倉三連水車


蔚山人 投稿日:2019年08月10日 15:03:21 No.2201
オヤジッチ様

いつも風景写真を頂いていますので、こちらのネパールの風景を送ります。

観光地の町はカラフルですし、そこに歩く女性もカラフルです。近くにヒマラヤの山も見えます。(アンナブルナ山)カトマンズ以外は空気が綺麗ですので、歩くのが楽しみです。

歴史はどこにいても常に頭に入れています。古代では日本から朝鮮半島にものが移動していたことが分かってきつつあり、朝鮮半島からのものは殆どないでしょうね。その視点で見直すと、古代の状況がよく分かるようになって来ました。


オヤジッチ 投稿日:2019年08月16日 14:58:37 No.2202
蔚山人さん、こん○○は。
> オヤジッチ様
↑“様”はやめてください。(*^.^*)

> 古代では日本から朝鮮半島にものが移動していたことが分かってきつつあり、朝鮮半島からのものは殆どないでしょうね。
↑私は浅学にて、唐辛子と前方後円墳くらいしか知らないです。(・_・?)
 教えてください。

写真は、どちらも平塚川添です。


蔚山人 投稿日:2019年08月18日 11:34:42 No.2203
オヤジッチさんのご指摘には、鋭いものが冷や汗がでています。まあ暑い時期だから良いかというところです。

私が最初に疑問に思ったのは、新羅や高句麗の王の冠には、必ず勾玉がついていることです。これがついているということは、朝鮮の王は倭国の支配下にあったのではないかということです。中国の歴史書には、倭国が朝鮮の支配者であったことを示しています。そうなると勾玉だけではなく、文化的なものも倭国から渡っていったのではないかと思っているところです。新羅の王朝の基本的な王は、倭国から来た人々です。

王仁博士が日本に千字文を伝えたとされていますが、朝鮮には王姓を名乗る人は一人もいません。朝鮮には元々文化がなかったのではないでしょうか。朝鮮は紀元前5千年ことはほぼ無人の地でした。何故なのか、韓国に長く住んでいると、よく分かりますが、作物を育てる環境や居住環境が非常に悪いですね。表土がありませんし(南はややマシ)、中小河川は石ころだらけ、寒さは厳しく、生活するのが精一杯といったところです。渡来人と称されている方々の、何割が正真正銘の朝鮮人でしょうか。秦さんは朝鮮人でしょうか。

ここでは、文化というものが育ちません。そこから日本に渡ってくるのは、飢えに苦しんだ人々位でしょう。この状況は基本的に今まで変わらず、終戦前後まで続いています。稲の文化が朝鮮から渡ってきたのであれば、稲に関する朝鮮語が日本に伝わっているはずです。ありません。日本の稲作遺跡は、朝鮮よりはるか昔です。渡ったと考えるのが自然です。石包丁もその流れでしょう。百済では、1世紀になり人々が始めて稲作を許可されました。稲作は朝鮮では、扱いが違っていたのではないでしょうか。

青銅器の材料が、日本から渡ったのではないかと、成分の分析から言われてきています。終戦後唱えられた(今もそうですが)朝鮮から日本へという流れは一部を除いてありえません。しかし鉄の材料は朝鮮で取れますので、周りの人々が群れて収奪していたようです。そうゆう流れはあったでしょう。

住宅の形である花弁式住居跡が南朝鮮にあり、日本のものは朝鮮から渡ってきたのではないかと言われていますが、果たしてそうでしょうか。朝鮮ではその形式はその後途絶えますが、日本では長く使われています。本来の起源の場所が倭国にあったためでしょう。

北朝鮮の国宝展が韓国で開かれた時、あるいは慶州の国立博物館を見学した際に、民衆レベルのものは展示物がないか、非常に貧しいものでした。王朝としての若干の文化はあっても、民衆の文化はありません。そのような所から文化の伝播はないと思います。逆に「珍しいものがたくさんある」日本にこそいろいろなも文化として伝わるに相応しいものがあったのではないでしょうか。

支石墓というものがあります。これは南朝鮮(地下式)と北朝鮮(地上式)で形式が違うことは有名ですが、南朝鮮のものは日本の長崎県辺りを中心とする形式と同じです。この支石墓は、対馬と壱岐では見つかっていません。それは何故か、江南に発したこの支石墓が黒潮にのり、長崎と済州島等の方面に分かれて伝わったためと言われています。朝鮮から日本へという流れがなかったためです。そうゆう形での、文化の伝わり方もあったでしょう。
オヤジッチ 投稿日:2019年08月22日 10:37:56 No.2204
> 新羅や高句麗の王の冠には、必ず勾玉がついていることです。
↑初めて聞きました、半島の王冠自体何も知りません。m(__)m
 写真などお持ちですか、西谷先生の「古代日本と朝鮮半島との交流史」と武田幸男の「古代を考える・日本と朝鮮」程度しか読んでませんが、半島の王冠に勾玉が付いているというのは初耳(初読)です。

> 朝鮮には王姓を名乗る人は一人もいません。
↑百済に渡来した中国人であるとされ、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解があるそうです。

> 朝鮮には元々文化がなかったのではないでしょうか。
↑これは言いすぎでしょう。(・_・?)

> 朝鮮は紀元前5千年ことはほぼ無人の地でした。
↑日本も紀元前5千年は縄文時代前期末ですけどね。

> 日本から渡ったのではないかと、成分の分析から言われてきています。
↑これまで私が学んできたことの真逆ですね。 (¨!

> 朝鮮ではその形式はその後途絶えますが、日本では長く使われています。本来の起源の場所が倭国にあったためでしょう。
↑花弁状住居跡は宮崎県中南部から鹿児島県大隅半島にかけて多く分布し、熊本、大分両県でも数カ所で見つかっているが、北部九州(福岡、佐賀、長崎県)では2008年に三養基郡みやき町原古賀の西寒水(にししょうず)四本柳(よんほんやなぎ)遺跡で、弥生時代中期とみられる「花弁状住居」跡の発掘が初めてで。同町教委は「内部構造を含めた特徴が一致している。弥生中期の九州北部と南部の文化的交流を示す」発表しています。
 また、文化形式は発祥地では次々に変化し、古い形式は周辺部に長く残存すると言われています。

 いずれにしても、考古学的検証、資料検討が必要ですね。
 頑張ってください。楽しみにしています。
 写真は8月21日の平塚川添。干上がっていた環濠にいくらか水が溜まってました。


蔚山人 投稿日:2019年08月22日 23:53:57 No.2205 【Home】
オヤジッチさん

私が不思議に思うことは、朝鮮半島では青銅器の鋳型が見つかっていないことです。日本では、福岡市だ琵琶湖だと騒がれますが、これは何を意味するのか。

鉛を通した青銅の成分は、弥生初期は朝鮮からもたらされたかもしれませんが、それ以降は全て中国です。今学者の間では、ある種の小武器などは、朝鮮に輸出されたのではないかという話が出てきているそうです。

新羅の王冠の写真をつけますが、URLで出したのでうまく添付されているか不明です。なかったら御免なさい。



奴國の丘から オヤジッチ 投稿日:2019年07月27日 10:51:03 No.2196 【返信】

ご無沙汰していますm(__)m
奴國の話題ではありません、伊都国です。
今年初めて伊都國歴史博物館に行きましたら、常設展示(2F)及び自前の資料を使った企画展(伊都国発掘‐令和元年‐)での写真撮影がOKになっていました。でゃんサイン表示されています。





屈折 投稿日:2019年07月15日 17:58:19 No.2194 【返信】

 縄文以前(さらには石器時代の頃)からも、日本列島は、いくつかのルートで人が来ていたと思われます。
 例えば18,000年前は東シナ海はまだ陸で、大陸とつながっていたようです。

 海によって隔絶されてからも、韓半島からの南下、長江下流域あたりから海流に乗って、列島に人は来ていただろうと思われます。

 記紀に書かれた時代、日本列島は韓半島から、いわば乳首から栄養を吸ってきたように思われる。
 時代は飛びますが、秀吉の朝鮮出兵、明治の征韓論、さらには日韓併合。

 何が言いたいかと申しますと、韓半島の人には、古代史的に、列島人に対して優位な気分があり、それが上述のように列島から半島への進出があり、如何ともし難い反日、列島への屈折した気分があるのかな?と思ってみたり。





応神陵、仁徳陵、履中陵 投稿日:2019年06月07日 22:21:44 No.2193 【返信】

百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に認定されるとのこと。
大仙古墳(伝仁徳陵)は拙宅からも近いし、仕事で週に何度も近くを通ってます。

それはともかく、標記三者の古墳の新旧としては、埴輪の比較から、伝履中陵(百舌鳥)→伝応神陵(古市)→伝仁徳陵(百舌鳥)の順だそうです。

履中陵と仁徳陵は隣りにあるから差し替えてもいいかもしれないけど、そうしても、誉田山古墳(古市の伝応神陵)とのつながりが説明できない。

考古学的には、
伝履中陵(百舌鳥)→伝応神陵(古市)→伝仁徳陵(百舌鳥)
文献的には、
伝応神陵(古市)→伝仁徳陵(百舌鳥)→伝履中陵(百舌鳥)

古墳の規模では、面積的には伝仁徳陵が最大。体積としては伝応神陵が最大。前方部、後円部の高さが大きいんでしょうね。

履中陵の比定に問題あるのかな?





令和 投稿日:2019年04月01日 18:38:57 No.2185 【返信】

れいわ。発音としては、れ~わ、ですかね。
平成も、へいせい、ときちんと言うより、へいせ~、へ~せ~でした。
昭和も、しょうわ、より、しょ~わですよね。

ちょっと気になるのは、令の筆記体。活字では、見たとおりですが、筆記するとき、「マ」と書きませんか?
鈴、齢、など活字では見たとおりだけど、実際、僕たちが書くときは「マ」になってません?
きょうの発表の毛筆では、活字体になってた。ちょっと違和感があった。「マ」ではいかんのかな?
これって、きっと議論になると思いますよ。


蔚山人 投稿日:2019年04月06日 19:29:00 No.2186
郭さん

またお声を拝見できるは、嬉しい限りです。

年号は日本の非常に重要な伝統であり、これをなくせという意見があるのは情けないものです。大事に守っていくことが重要です。

ただ今回の「令和」というのは、美しいとかいうよりも、「強いて和にする」というような意味が強いように思います。令は政治的な語で残念というしかないですね。他の年号案をみても、今までの千年以上使われた年号に比べるとレベルが低くすぎるように思えます。

今回の年号を起案した学者の方は、万葉集は韓国の歌の影響があったといわれていますが、当時の韓国の歌が殆ど残っていない状態でこのようなことを言われるのは、歴史を知らない人というしかないです。このような方々の集まりでは、このような結果にならざるをえないと悲しく思います。山中教授が参加していますが、専門が違うので独自の意見を伝えられなかったのでしょう。

次の機会が数十年後にでてくるでしょうが、その時はレベルを上げて頂ける学者方を選んでいただきたいものです。
蔚山人 投稿日:2019年04月06日 19:44:48 No.2187
私の思い付きの意見ですが、同じレイワにするのであれば「麗和」の方が、意味が明確のように思えます。字画の問題はありますが。
投稿日:2019年04月08日 19:55:27 No.2188
 蔚山人さん、こちらこそご無沙汰しています。
 万葉集、梅花の歌三十二首の序文から引かれていますが、序文は漢文なんですよね。該当部だけ引くと、
 「于時、初春令月、気淑風和」。時に、初春の令月にして、気よく風やわらぐ。

 令には、上位者からの言いつけ、命令の意味もあり、イギリスの某マスコミは、order & harmonyと解釈したようです。
 ただ、よい、清らかで美しいの意もあり、引用先の意味ではこちらでしょうね。

 さて、私自身は、昭和30年代以降の天皇しか実感としては存じません。
 小学校低学年の頃、国鉄に乗って昭和天皇が通られるとのことで、日の丸の旗を作って鹿児島本線沿道でその列車をお迎えし、旗を振った記憶があります。昭和天皇も、戦後象徴天皇として、どのように国民と向き合うべきかを考えられた方と思います。
 平成天皇は、災害に見舞われた地域に出向かれた。平成の時代は、ほんと災害が多かった。島原普賢岳の噴火、阪神淡路大震災、東日本大震災、ほかにもありますよね。
 平成天皇もまた、象徴天皇としてどのように国民に寄り添うべきかに腐心された方だと思います。
 それについては、私も好感を持っています。

 時代を遡って、大正、明治、江戸、戦国、室町、鎌倉、平安、奈良、記紀の時代。
 天皇号は天武のときからと言われているようですが、武士の台頭で政治的実権は武士に移った。
 けれど、天皇家は血統の断絶、連続性の操作は有ったかもしれませんが、連綿と続いているものとして温存された。
 
 卑弥呼のイメージは、政治的実権者ではなく権威としての王であったと思います。
 日本と言う国は、古くから、権威と権力の二重構造があったのかもしれませんね。

 天皇家も、今ではひとつのfamilyでしかないから、男系で連綿と続くなんてことはありえない。方策を考えないと、早晩、天皇家も終わっちゃいます。

 若い頃は天皇はいなくてもいいんじゃないかと思ってましたが、最近はおられてもいいのかな、なんて思ってます。
蔚山人 投稿日:2019年04月10日 20:29:13 No.2190
郭さん

お願いがあります。この掲示板は、削除も訂正も何も出来ません。削除キーを使えばというかも知れませんが、削除を予定して投稿することは通常行わないと思います。投稿した後、不適切なものや、正確でないもの、都合が悪いものなど色々と発見することがありますが、それに対処することが全く出来ません。私の場合は、No.2189などがそうです。

この機能がなければ、今後は投稿することが恐怖になり、出来なくなります。よろしくお願いします。
投稿日:2019年04月12日 07:52:02 No.2191
蔚山人さん、おはようございます。
削除そのものは、管理人(私)ができますので、今回のようにNo.をおっしゃっていただければ削除できます。

今後、ご自分で削除される場合、削除キーのボックスに、任意でパスワードのようなものを入力されて入れば、削除できると思います。今回は、2189、削除しておきますね。
蔚山人 投稿日:2019年04月16日 22:23:11 No.2192
郭さん

有難うございます。一安心しました。

しかしパスワードをあらかじめ決めていないといけないのは、ちょっと辛いですね。



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