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「魔教」…弥勒菩薩への信仰と一体化していったものが白蓮教…
荊の紀氏 投稿日:2023年06月06日 10:33 No.298
ミスラ(ミフル)教はミスラ神を崇拝した宗教(ミトラ教とは異なる)。
パルティアで盛んに信仰されたと思われる。
マニ教神話では本来太陽神であるミスラが戦闘神・創造神として、
オフルマズド(ザラスシュトラが最高神として想定したアフラ・マズダー)を凌ぐ活躍をしており、ミスラ教の影響がうかがえる。
パルティア人の血を引き、パルティア時代末期に生まれたマニにとってミスラの存在は大きかったと思われる[11]。
…マニ教は西アジアからユーラシア大陸の東西に拡大し、ウイグルでも多くの信者を獲得した。
唐においては694年に伝来して「摩尼教」・「末尼教」と音写され、教義からは「明教」・「二宗教」との訳語もあった。
「白衣白冠の徒」と言われた東方のマニ教(明教)は、景教(キリスト教ネストリウス派)・祆教(ゾロアスター教)と共に、三夷教・三夷寺と呼ばれ、
代表的な西方起源の諸宗教の一つと見なされた[27]。武則天(則天武后)は官寺として首都長安に大雲寺を建立した[5][27]。
これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったとも言われている[5]。
768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭に長江流域の大都市や洛陽・太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた[27]。
しかし、843年、唐の武宗によって禁教されるに至った[27]。
845年に始まった「会昌の廃仏」では、仏教と三夷教が禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられ、
マニ教僧も多くの殉教者を出したことが、唐にあった日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている[27]。
回鶻(ウイグル)においては、8世紀後半の3代牟羽可汗時代にマニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。
やがて反マニ教勢力の巻き返しにより弾圧されたが、8世紀末から9世紀初頭の7代懐信可汗によって再び国教化された。
しかしその後、イラン・アフガニスタンに続いて、ウイグルでもイスラム化が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラム化はさらに進行した。
三武一宗の法難(会昌の廃仏)後の五代十国時代から宋において、マニ教は仏教・道教の一派として流布し続けた。
歴史小説『水滸伝[注 4]』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒だったとも言われる。
マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強め、取り締まりに手を焼く権力者から「魔教」とまで称された。
官憲によるマニ教取り締まりはしばしば江南地方や四川でなされ、その中でマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれた。
宗教に寛容な元朝のもとでは、明教(マニ教)が復興し、福建省泉州と浙江省温州を中心に教勢を拡げた。
明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者朱元璋が建てた明の国号は「明教」に由来したとも言われる。
しかし明が安定期に入ると、マニ教は危険視されて弾圧された。
15世紀には教勢衰退が著しかったが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる。
1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる。
現存する唯一のマニ教寺院と目される晋江市(福建省)の草庵摩尼教寺
仏教に仮託された女神マニ(摩尼光仏)が祀られている
なお、藤原道長『御堂関白記』など、日本の古代・中世における日記の具注暦に日曜日を「密」と記すのは、マニ教信者が日曜日を聖なる日として断食日にあてた暦法が日本にまで至ったことの証左であると言われる[27]。
「密」と記すのは、マニ教信者が日曜日を聖なる日として断食日にあてた暦法が日本にまで至ったことの証左であると言われる[27]。
明教と弥勒信仰が習合した白蓮教…
キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教の影響を受けて成立…
白蓮教のルーツは、ペルシャからわたってきたマニ教だそうです。
 これは三世紀に興ったもので、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教の影響を受けて成立したと言われています。
…弥勒菩薩への信仰と一体化していったものが白蓮教となったようです。 
…大倭寇の時代にいた、浙江や船島諸島で官軍に敵対していた塩賊や地元勢力というのは、すでに
海賊勢力化した洪門と、この潜伏白蓮教徒とが再びを結合していた可能性がかなり高いのではないでしょうか。
 そのような歴史を通して、王倫の白蓮教徒の乱がおきたものだと考えられます。
洪門…
中国 明朝 末期 清朝 初期に興った 秘密結社…
洪門 (こうもん、 拼音 :Hóng mén)は中国 明朝 末期 清朝 初期に興った 秘密結社 、“反清復明”(清を倒し明を復活させる)を主旨とする。.https://ja.wikipedia.org/wiki/洪門
歴史
清の時代も晩期になると、「洪門」の山堂は江南地方を中心に中国全体に広まり、一部が東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸まで進出し、その会員は百万単位であったという。
清に対する武装闘争を堅持してきた洪門は太平天国、辛亥革命における重要な同盟軍となり、辛亥革命を起こした孫文なども洪門に加入していた。
また、中国共産党創始者の一人李大釗も、“天地会はマルクス自身が創建し指導する第一
インターナショナルと組織的な繋がりを持つ中国唯一の革命団体である”と《中山主義的國民革命與世界革命》の中で述べている。




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