雑銭掲示板Ⅱ


| 新規投稿 | トップに戻る | 検索 | アルバム | 管理用 |

白の久留米正字濶縁?
浩泉丸 投稿日:2023年04月15日 23:30 No.556 【Home】
称:久留米正字(石持桐極印銭)は赤い銅質が多いのですが、今回の入手品は見れば見るほど石持桐に思えてきました。結構いい値段を支払ったのですが、石持桐で白なら納得です。色は黄白色で着色や鍍銀ではなく地金そのものの色で、真っ白ではないものの白銅銭と言って問題ないレベルです。肉厚で重いところなどは石持桐っぽくないのですが、それでもその可能性が捨てきれません。本来なら本稿で考察すべきなんですが皆様のご意見もお聞きしたくここに投稿した次第。背異替などでは白銅質(だと思われる金質)はみたことがあるのですが、正字濶縁で白いものは聞いたことがありません。(そもそも黄色い正字濶縁も聞いたことがありません。)
石持桐については存在数と言い、銭籍と言い謎が多い品。九州に多いことから久留米、大量にあることから水戸藩はもちろん、会津に代表される佐幕派の藩や倒幕にかかわったであろう雄藩(佐賀藩あたり)なども考えられます。
石持桐極印銭は赤い銅質が示すように鉛が12~13%含まれているだけでなく、亜鉛が6~7%も含まれているという分析結果が天保銭の鑑定と分類に掲載されています。この亜鉛という金属は當四文銭に使用されていたものの当時の日本国内では精錬技術が確立していなかったため、入手困難な輸入金属だったはずです。銅の溶解温度より沸点が低いため鋳造時に揮発して金属爆発を起こすことから温度管理が難しく、真鍮銭の鋳造を行っていた銀座関係以外では扱うことはもちろん、原料としての調達も難しかったはずなのですが・・・。このあたりが出自解明のカギになりそうな気もします。
※鋳造に銀座関係者がかかわったとか、原料として當四文銭を使用したことが考えられますが・・・技術的には(溶解の途中で金属爆発を起こしかねないため)かなり難しい気がしますが、私は金属の専門家ではないのでこの点もご存知の方は教えてください。この爆発問題があるため亜鉛含有の江戸期の貨幣は民間レベルでは鋳造が難しく、亜鉛含有の江戸期貨幣の多くは明治後期以降の作であるという考えを私は持っていました。唯一、そして最大級の謎が石持桐極印なのです。さらに、この類には錫母が存在する(らしい)という謎もあります。錫母についてはその技術を知っている関係者は限られているらしいからなのです。


68式ヲヤジ 投稿日:2023年04月16日 05:14 No.557
日本で亜鉛の精練ができるようになったのは明治時代になってからでそれまでは輸入に頼っていたことはどこかで読んだ事がありますが、通貨以外にも江戸時代には仏具やキセル等の真鍮製品はありましたから銅に亜鉛を加えて合金にする技術は確立していたのではないでしょうか。
金属爆発というのは、溶けている銅により融点の低い亜鉛を投入した時に湯が飛散する(天ぷらを揚げている時のような)いわゆる突沸の事だと思いますが、すでに合金化されている四文銭を溶解するのであれば融点は低くなっている(合金の融点が低くなるのは氷点下でも氷に塩をかけると溶ける理屈と同じと習った記憶があるが非常に難解で分からずじまい)事もあるので材料にできたようにも(ど素人の浅知恵として)思えます。

追伸
亜鉛の融点は419.5°C、銅65亜鉛35の合金の融点は902°C、亜鉛の沸点が907°C、銅の融点は1085°Cとのことなので、真鍮の溶解は902°C以上907°C以下で温度管理すれば亜鉛成分が蒸発しないようにも思いますが、そう単純でもないのでしょうね。
では最初の真鍮はどう作るんだ、という事になりますが、溶けた銅の上に銅板を置きその上に亜鉛を置いて溶解したんだそうです。さて真偽のほどは...


浩泉丸 投稿日:2023年04月16日 06:55 No.558 【Home】
68式様 ありがとうございます。これまた私の浅はかな知識なのですが、一度合金化した亜鉛であっても、再度溶解するとき沸点を超えてしまいやすくなります。例えば銅鉱石には亜鉛が少なからず含まれているため、精錬の際にいきなり高温溶解せずに、野辺焼きにして亜鉛を有毒な亜硫酸ガスとして空気中に放出させる非常に危険な作業があったと聞いています。融点降下現象が合金化した真鍮にも有効なのかは私にはよくわからないのですけど、少なくとも溶融管理で亜鉛の沸点を超えないようにする技術の確立が必要だったと思います。
融点降下現象とは、溶解した錫(銅の溶解温度より低い温度で溶ける)に純銅を投入すると、本来の銅の溶解温度よりはるかに低い温度で溶けて合金化する現象で、これにより銅の加工が簡単になった世紀の大発見です。合金化したあとの金属でもこの融点降下が有効なのか、合金化した金属の最溶解温度が果たして何度なのかは私にはわかりません。
なお、仙人様から聞いたお話では当時九州地区では密貿易が盛んで、亜鉛の調達もできたのではないかとのご意見をお聞きしたことがあります。
また、古銭業界において真鍮と呼ばれている金属の多くは、いわゆる唐金(からかね:錫分がやや多い明るい金色の銅合金)であって、銅亜鉛合金の真鍮やニッケル銅合金の現代の真鍮ではないと思われますがいかがでしょうか?以上、付け焼刃知識ですので間違いも多いかと思います。

※謎について
1.久留米とされる天保通寶には錫母がある。錫母の技術は金座が独占していた技術で、外様の藩鋳銭において錫母の技術を知っていた藩は限られていたはず。
2.深字には祝鋳と推定される鍍銀を施した大型のものが存在する。果たして密鋳の分際でそんなことをしたのか?
3.水戸藩邸や会津藩邸で天保通寶の鋳造をしたとされる釜屋の資料の中に背異替類とされる銭の付いた枝銭がかつて残されていた。これは背異替が水戸藩もしくは会津藩の江戸屋敷鋳造であった証拠ではないか?
両藩においては幕府も天保通寶鋳造を許諾(水戸藩・会津藩は黙認か)されたと思われる。

このように考証学的には石持桐極印銭は江戸の水戸もしくは会津藩邸において作られたとされる方が自然なのですが、その一方で
4.久留米付近で大量に見つかる石持桐極印銭はいったい何なのか?
という直接的証拠の説明が必要になります。謎だあ!


関西のT 投稿日:2023年04月16日 13:36 No.559
個人的な感想ですが、私は不知広郭手で全く問題ない品でいいと思います。
まず郭内が面と背の両方から掛けるというのが石持極印銭としてはありえないのではないかと思います。
あれがみられるのは、中身切り式を採用する銭座が郭内の段差を、郭を消失させずに誤魔化すやり方で広郭手、中郭手の不知銭にしばしば見られる方法です。
久留米は完全に片見切り式の銭座であり、郭内仕上げが端正な製作の久留米とは考えずらいのではないでしょうか。
刻印の片方は確かに玉のようにも見えますし、斜め打ちの東北系桐刻印にも見えます。が、もう片方は完全に久留米とは異なる桐刻印。私にはそう見えました。
銅色については久留米あるいは水戸銭の銅供給源が何処なのか分からない以上、銅替わりの可能性は無いわけでは無いと思います。が、ここまで白い品は見た事はないです。
久留米深字大様は銅の配合自体を変えているのかサーモンピンク色(とその上から炙り)をしています。仮に石持刻印銭なら白銅にする事に何か意図がありそうですけども、文字も切れてるし肌も荒れてるし雑ですね...
蛇足ですが、私の久留米深字大様は山梨の方からの出品物で雑銭に混じって出現しました。
水戸と久留米を反復横跳びしていますが、水戸でもいいかなとも思っています笑

総合的に見ればやはり不知銭だとおもいます。


真鍮の話ですが、
面白い事に17世紀頃から中国やオランダより真鍮インゴットに亜鉛鉱石などを輸入した記録が仕訳帳に残されていたときいた事があります。
また亜鉛の精錬技術は明治中期ですが、鋳造は江戸時代の初期から鋳造道具が遺跡調査で見つかっており、爆発やガスが発生する事を前提とした蓋や覆い、そしてガスの排気口などを備えた道具だったそうです。
また火災で消失した加賀屋敷跡から真鍮の分銅が見つかったという記録がある事からも真鍮技術はもとい、亜鉛が多少混入する事自体はおかしな事ではないと思います。
上の話は古銭とは関係のない発掘調査や屋敷調査記録の結果ですので贋作という線は薄いです。


とら 投稿日:2023年04月16日 16:06 No.560
浩泉丸様

「浩泉丸完全復活」といえる昨今の状況、大慶至極に存じます。
とはいえ、相変わらずご多忙なご様子、迷惑をお掛けするのは控えるべきなのでしょうが、反面、ご多忙をお楽しみのご様子もうかがえます。

浩泉丸様の私見と比較し、私のは妄想の域ですが、私は、久留米での天保銭鋳造はありえないと思っています。
現存する量からも、かなり大きな銭座であったはずで現地に痕跡や言い伝えなどがないのはおかしな話です。また原材料はどうしたのでしょう。インフレの幕末、これだけのことをなしえる資金がなかった気がします。
この時代の贋金の中心は二分金で、前田家や黒田家の物は金が入っていたが、浅野家や、島津家の物は、銀さえろくに入っていなかったといわれています。
言い換えれば、天保銭1枚の銅で二分金10枚。メッキして、100文が5両。そのままの額面では流通しなかったでしょうが、薩摩は、脅迫も得意なのである程度の額では流通したはずです。商売なら、どちらを造るでしょう。
大政奉還ののち、官軍が江戸城に入場する前、久留米と称されている銭は、水戸家から有馬家が大量に購入し、久留米あたりに大量に残っていたという事は無いでしょうか。
元来、攘夷派だった両家は,大政奉還時バリバリの佐幕派でした。
水戸家の小梅から有馬家の水天宮は隅田川を下ってすぐです。
水戸の佐幕派は、売却し、江戸を脱出する戦費とし、有馬家は、自慢の戦艦で,奥羽や本国に回送したという事はないのでしょうか。
佐幕から尊王にかじを切り替えるため、奥羽に進駐し、朝廷に忠誠を示す必要のある有馬家は、末端の兵隊に持たせたり、現地でこまごまとしたものを購入するのに天保銭は必要で、二つ返事で購入した気がします。

水戸家では、門閥派の諸生党が天狗党の乱ののち、攘夷派を女児、幼児に至るまで皆殺しにするという日本史上類を見ない行為を行います。
大政奉還ののち、かろうじて生き残って、薩摩の下でテロ活動など行っていた攘夷派が、水戸に戻り報復を行い大混乱。明治になっても殺戮は続き水戸は焼け野原になります。
このようなところで、藩札など通用するはずもなく、天保銭が必要だったのではないでしょうか。実際鋳造するのは、請け負った商人で、諸生党でも、天狗党でもよかったはずです。
恐らく大した利益は出なかったでしょうが、日立銅山もあり原料の銅は確保できたような気がします。小梅では足尾の銅を使ったかもしれません。

何の証拠も確証もない妄想です。
沢山出るからその辺で造ったとも考えられるが、誰かが持って行けば沢山あります。天保銭は通貨で、どこにあっても不思議でないので、どこで出現したかは気にすべきではない気がします。
画像は、昔おまけでもらった明治二分金と流通贋造品。量目は、3.08gから1.75g迄さまざまです。




Name
URL
File





Key (英数字で8文字以内)
Color