郭公の四畳半ふうの四方山掲示板


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こんにちは!
山の肥後人 投稿日:2019年11月16日 13:02 No.23
きょうは気になっていることを書きます。
ひとつ 
「平原1号墓は14メートル×12メートルの四隅が丸い長方形」
これでは「径百余歩」とは規模も形状も一致しておらず、矛盾してます。
一度訪れましたが、あまりの小ささに驚きました。

ふたつ 
距離の「1万2千里」の説明がなされていません。
「女王国は伊都国から南千五百里のところにある」としながら、
その先の説明が不十分で、場所がわかりません。

みっつ
「梯儁一行は、倭の女王卑弥呼の居館へは行っている。」の書き込みですが、
伊都国にあったであろう鴻臚館のような迎賓館で執り行われたと、
理解するのが妥当と思えませんか?
とにかく魏の使いたちは伊都国に「往來常所駐」と書かれてます。

先月たまたま、鴻臚館を訪ねてきました。


紅葉狩りは、くじゅう辺りへ行ってきました。
なかなか綺麗な風景に巡り会えました。


投稿日:2020年01月07日 11:43 No.24
山の肥後人さん、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
返信が遅れてすみません。

1.私が平原1号墓を卑弥呼の墓だと考える理由。

まず耳[王當](イアリングですね)が出土したことから被葬者は女性である。
副葬品から王墓と言っていい。
年代にはまだ議論があるとは思いますが、柳田康雄は、赤色瑪瑙管玉は韓国でも出土していて3、4世紀と考えられている。
などのことから、平原1号墓は、女王墓であり、年代は卑弥呼没年と符合する。
加えて、銅鏡百枚に含まれていると考えられる尚方鏡としての方格規矩四神鏡が豊富に副葬されていた。

もちろん、卑弥呼と同時代の伊都国王もまた女王だったと考えることもできます。

2.万二千余里の解釈について。

魏略逸文では伊都国までの行程は書かれている。郡(帯方郡)より女王国に至る万二千余里。伊都国は、郡使が常駐するところです。
ご指摘のように、女王国(卑弥呼の都とする所の意)まではあと1500里ですよね。

ではそれをどう考えるの?ってことにはなりますが、翻って、万二千余里はどのような経緯で求められたかを考えることも必要かもしれません。
江畑武の論考もありますが、それも当否についてはわからない。
果たして、積算して求められた(7000里+3000里+500里+1500里)のか、めっちゃ遠い所の意かもしれません。

3.梯儁一行は、卑弥呼の居館へ行ったのかどうか。
 伊都国の、三雲番上遺跡には楽浪郡と関わりの深い遺物が多く出土していますよね。
 伊都国は「郡使往来常所駐」であり、郡使の常駐施設はあった。
 ただ、大和説の皆さんからいつも指摘されたのですが、魏帝の使いは郡使ではなく魏使であり、詔書印綬は直接本人(卑弥呼)に会って渡すものだそうです。
 ですが、魏志倭人伝を読む限り、本当に卑弥呼に会ったかどうかは、疑問の残るところです。
 なので、私の解釈としては、魏使一行は卑弥呼の居館へは行った。けれど、直接会った確証はない。ってところですね。




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