郭公の四畳半ふうの四方山掲示板


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こんばんは
山の肥後人 投稿日:2019年10月09日 19:58 No.18
「yahooの掲示板」そんなのありましたね~。
品の悪さにウンザリした記憶があります。

ところで、「魏志倭人伝」に出てくる「渡海」「水行」「陸行」これらについて、考えを教えてください。
これらで「畿内説」の矛盾を、マイ本にて説明してます。


投稿日:2019年10月10日 21:17 No.19
>「yahooの掲示板」そんなのありましたね~。
>品の悪さにウンザリした記憶があります。

ま、たしかに。
真面目な書き手が多ければまともな議論になるんですけど、わけわからん人もいるにはいますね。そんなのは無視リストに入れてましたけど。

>ところで、「魏志倭人伝」に出てくる「渡海」「水行」「陸行」これらについて、考えを教えてください。

ん?
水行。
>從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里

 水行って、河川航行説もありますが、上記から考えると沿岸航行も水行なんだと思います。

渡海。
>始度一海千餘里 至對海國

 「始めて海を渡る」、對海國が対馬と考えてよければ、狗邪韓國はざくっと言って釜山のあたり(伽倻なんだろうと思いますが)から沿岸航行ではなくまさに海を渡ってます。 
>又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國

 一大國を壱岐と考えてよければ、これも沿岸航行ではなく、海を渡ってる。
 
>又渡一海千餘里 至末盧國

 末盧國は、呼子から唐津にかけてでしょう。で、壱岐から海を渡ってます。

 
 お聞きになりたいのはそんなことではなく、おそらく以下の文をどう解釈するかってことですよね?

>南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸

>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸

それについては、「古代へ行く」の以下の文で書いたようにも思います。
参照していただければありがたいです。
・津に臨んで捜露する
・梯儁、伊都国で卑弥呼に会うの巻
・邪馬台国行程記事を解体する

>これらで「畿内説」の矛盾を、マイ本にて説明してます。

 ぜひ、ここでもご説明いただければありがたいです。よろしくお願いいたします。




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