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大祓 山人 投稿日: 2013年06月29日 16:14:35 No.130 【返信】

大祓(おおはらい) 伊那下神社では午後4時より

6月と12月の晦日に行われます。
6月は夏越(なご)しの大祓 12月は年越しの大祓といいます。

大祓は自らの罪穢れと社会の罪穢れを祓いさる神事です。
私欲を去って清明心(あかきこころ)に立ち返り、雄々しく勇ましくそれぞれの使命に邁進する決意を固めるための行事です。


先人の言霊 山人 投稿日: 2013年06月11日 17:28:04 No.129 【返信】


親の祖先(おや)が子孫繁栄のために

   《道義=人の踏むべき正しい道》をもとめた道。

祖先(おや)の心を心とすることは、祖先(おや)と共に生きるということだと思います。




JA伊豆太陽農協松崎支店竣功祭 山人 投稿日: 2013年05月07日 15:15:01 No.122 【返信】

平成二十五年五月二日
JA伊豆太陽農協松崎支店竣功祭

此(こ)の處(ところ)を厳(いづ)の斎庭(ゆには)と祓清(はらいきよ)めて注連縄(しめなわ)引(ひ)き回(めぐ)らし神籬(ひもろぎ)刺立(さした)て招奉(おぎまつ)り坐(ま)せ奉(まつ)る掛(か)けまくも恐(かしこ)き屋船大神(やふねのおおかみ)、金山彦大神(かなやまひこのかみ)、産土大神(うぶすなのおおかみ)と称(たた)へ奉(まつ)る舟寄大神(ふなよせのおおかみ)、我(あ)が日本(ひのもと)の本津柱(もとつはしら)甦(よみがえ)る天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)の大前(おおまへ)に恐(かしこ)み 恐(かしこ)みも白(まを)さく
去(い)ぬる平成二十四年霜月の十五日といふ日に、設計(もくろみ)を静岡県経済連一級建築事務所の手(て)に委(ゆだ)ね、工事(たくみごと)を(株)土屋建設に請負(うけおわ)せて起工式(ことはじめののり)を挙行(あげおこな)ひし之(これ)なるJA伊豆太陽農協松崎支店はしも、技人(わざびと).工人(たくみ).手人等(てびとら)は入紐(いれひも)の一(ひと)つ心(こころに)に力(ちから)を協(あわ)せ、最(いと)も速(すみや)かに違(たが)はず過(あやま)たず事務所棟、経済倉庫棟、朝市経済棟の装容(よそおい)の悉(ことごと)く美(うるは)しく建設(たてま)け築(きづ)き畢(を)へしめ給(たま)ひしは、寔(まことに)、目出度(めでた)き事(こと)にこそ。故(かれ)玆(ここ)を以(もち)て今日(きょう)の生日(いくひ)の足日(たるひ)に代表理事組合長村上英喜を始め役員、職員 、数多(あまた)の来賓(まろうど)、関係深(かかはりふか)き長人等(おさびとら)を招(まね)き寄(よ)せ、御前(みまへ)に礼代(いやじろ)の御饌(みけ) 御洒(みき)種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)捧奉(ささげまつ)りて、共々(ともども)、慶祝(よろこびまをし)竣功(ことをへ)の御祭(みまつり)仕奉(つかへまつ)り玉串(たまぐし)の取々(とりどり)に拝(おろが)み奉(まつ)る状(さま)を平(たひ)らけく安(やす)らけく穏(おだ)ひに聞召(きこしめ)し諾(うづな)ひ給(たま)ひて 此(こ)の新(あたら)しき松崎支店の内外(うちと)には八十枉(やそまが)つ日(ひ)の枉事(まがごと)在(あ)らしめず、信用機々(しんようきき)のコンピュlタ丨の支障(さはり)無(な)く、速(すみ)やかに正確(ただ)しく輔(あなな)ひ助(たす)け、事務(ことと)り仕奉(つかへ)る職員は申(もう)すも更(さら)なり、 訪(おとづ)れむ人々(ひとひと)が生活(たつき)を援(たす)け、便利(たより)良(よ)き所(ところ) 無(な)くては叶(かな)はぬ所(ところ)と 成(な)し幸(さきは)へ給(たま)ひ、町民(まちびと)の広(ひろ)き厚(あつ)き後援(たすけ)を得(え)て堅(かた)き強(つよ)き絆(きずな)に結(むす)ばれて、信用(うべなゐ)厚(あつ)きJA バンク.共済.営農.多数(あまた)の業務(つとめわざ)を張(は)りに張(は)り広(ひろ)めしめ給(たま)ひ、今も行前(ゆくさき)も此の所に立ち働く男女(おとこおみな)に至るまで新しき支店に適(ふさ)はしく日毎(ひごと)に身(み)を慎(つつし)み 負(お)ひ持(も)つ職務(つとめわざ)を貞(さだ)かに行(おこ)なはしめ給(たま)ひ、JAの御名(みな)は日本の大御心(おおみこころ)を戴(いただ)きて明(あか)るく逞(たくま)しく世(世)のため人(ひと)のために大(いみじ)き功績(いさおし)を挙(あ)げしめ給(たま)へと恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す

             伊那下神社宮司


雲見浅間 山人 投稿日: 2013年05月07日 15:02:28 No.121 【返信】

富士浅間と雲見浅間の伝説をよみて
 
 心あての空見さくれと富士の根は神やかくせる浪やきりあふ


雲見嶽と其の沿革
  長歌併せて短歌

和田中に高く聳えて雲しのく雲見ヶ嶽は神さひて
奇しき岩山打ちあふく頂丘の松のとことはに栄え久しき姫神の
岩長姫の世の守り人の守りと古にしも鎮まりまして山ゆする
海のいかりも岩くやす浪のあらひもなくさはりもなくて神代より
かくある見れは神なからならし
  岩長姫神の守ります雲見嶽雪をしのきて和田中に立つ
  うちよせてくたくる浪のしぶきより雲見嶽の雲はたつらむ


浪の上にみとりうつして雲見嶽神さひたてるうまし瑞山
神さひし浅間山の木傳ひになく音もすこくましらむれ飛ぶ
五百(いほ)重波(しげなみ)しき波よせてくすしくも雲見嶽は天そそりたり
岩洗ふ千貫門の荒波は千こにくだけて花とみたるし
大洋の波もととろに寄せくれは浅間か嶽の岩根ゆるかす
烏帽子岳空にもかよふほこ岩のその青ふちは蛟(みずち)すむらむ
駿河の海波の花さく風ふきて雲見か嶽に雲の浪たつ
聳え立つ頂丘の松の木の間もるいつの社(やしろ)あふきおろかむ
ふもとより風吹きあけて天そそる雲見ヶ嶽にきほふ白雲
あふき見る雲見嶽も伊豆の海や浪のしふきに折かすみつつ


千貫門に船漕ぎよせてよめる歌並び短歌

千引なす巌畳(いわたたみ)みてつきたてしいつの巌むら巌むらの離れ小島に
打ちよする波のあらひは未遂に岩きり通し貫けるいかし門かもいかしくも
高くひろけき奇しきこの千貫門に真楫(まかじ)ぬき船こきくれは風ふきて
浪はたたねと底ひなき大海原の小山なす潮のうねりに乗る船は
高くゆり上げ沈むかとひくくゆりすゑ真青なる早瀬も過きて
岸ふかき岩根によれは水の色は紫ふかくあな凄し
すこき洲かも蛟かも龍かも棲める見るからにおのろかれつつ右左
かたふく船に渚岩つはめ飛ひたつ洞に船ゆれて紫ふかく潮もよとめり

くしひ門くしひ思ひにくくり行く船はたかすめ岩燕飛ふ


雲見講 松本晴雄 投稿日: 2013年05月05日 11:00:56 No.119 【返信】

 富士山が世界文化遺産に登録されるのは、「信仰」が主テーマである。わが町の雲見浅間神社の祭神は磐長姫、富士山の姉神である。富士山信仰と受け止めて良いと思う。
         ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 中田祝夫編「江戸時代の伊豆紀行文集」に、山本金木(かなぎ・一八二六~一九〇六)の『雲見神社参詣記』がある。遠州・井伊谷神社宮司、四〇歳のときで、参詣したのは慶應二年(一八六六)三月二八日である。ちなみに金木は遠州報国隊に参加した人物である。 それには「伊豆の国なる雲見嶽に鎮座されます大神は、剱太刀御名にかかせるがごと、岩が根の常住に、玉の緒の長からむ事を守らせ給うを、玉襷かけて、我も人も朝夕に拝み奉れるからに」とあるように、はるか遠方の地より崇拝されていたのである。  この年「雲見講」がつくられ、年ごと二人ずつ参詣することが決まる。そして、くじ引きにより金木と中村貞則が選ばれ、遠州の地を離れたのは三月二三日である。  沼津港より船に乗ったのは二七日早朝で、海程一三里、松崎港に着く。それより急峻な山道を一里半、雲見の神職・高橋家に着いたのは日暮れもすぎていた。休む間もなく、翌早朝の大神参拝のため、海辺に出て禊ぎをする。  二八日、朝早く大神を拝むべく、高橋に先導を願い、童子二人に神饌、御酒を背負わせて烏帽子山とも呼ばれる浅間神社へ登る。  金木の表現に「御山は一枚の巌の海中に突き出たるにて、屏風を立てたらむ如し。三方は荒海にて登りゆく東の方のみ磯波に砂を積み上げて陸(くが)に続けり。海に向える方は壁立巌のみにて、草も木も生いたたされども、陸に続きて登り行く道は、松・桜・柏など生い茂げれる。この御嶽は往古より杣人(そまびと)の入る事を禁むとて、余り大きくなけれど、年を経た木立茂げれ。三合目あたり女人堂というものあり、この所より上に女の登るを禁じる。麓より大宮まで、八丁ありと言うがさほどない心地す。されどいと険しき山路なるが上に、あいにくの雨さえ降り出し、難儀しつつ頂に到りて、大前に拝み奉りぬ」(中略)。  大空の左の方にさし出でたる巌はこと険しく、容易くは登り難ければ、右の方なる巌の上に這い上がりて、両手に力を入れてしかと張り付き、頭をさし出し見下ろせば、わがいる下は青浪立ち渡るに、足裏も振るわれて、そぞろ寒けく成りぬ。 この折にも雷のごとく轟く音が時折聞こえたのは、山々の巌が海中に崩れ落ちると言うが、いと畏し。されどこの御嶽ばかりは朽ちて崩れる巌でないと聞き、心が落ち着く。この所を大御嶽と呼び、小御嶽・千貫岩なども海中に立つ。  この神社、往古は石の祠で、(今の神社右方に、小さな窪みのところなり)。今より八〇〇年前に木造で建て替え、往古の御木像と御鏡とを移す。屋根は茅葺きであったが、二四、五年以前に更に造り替えて瓦葺き、漆喰で塗り、彩色したという。女人堂にも彩色した御木像があるという。  さてその往古の石の祠はと聞くと、今は朽ちてはて跡形無しという。しかし考えるに、往古の社は女人堂にて、それより上へは男でも登るを禁じたであろう。  石の大宮というは、この巌嶺に鎮まりいる伝えの、訛りであろう。百年ばかりの間に、石の祠が残りなく朽ち果てるはずはない。かつこの頂上の巌の形、大宮に似たので下より仰ぎ見て、しかと言い伝えられしものであろう。(自分も、昨日の夕暮れこの里に着いた時、この巌を仰ぎて茅で葺いた大宮と思ったものだ。今朝また大宮によく似たれば、岩の形ではない、建物と疑ったほどだ)。  毎年六月朔日、八日、一六日と三度の御祭りがあるが、その祭りのたび普段は見ることのない撞木鮫、身の長さ一丈余りのものと、大きな亀が浮かび出て、終日、御山に添いて回っていたのを、皆人が巌上より臨み見るに、いづれの年の御祭りにも出ないことあらじとぞ。ただし亀は稀には見えざりる事もありという。  神主は高橋丹波守とて、中古、ここを領地として、小田原北条に属した末裔なりと。実に北条氏政・泰秀・氏則より送られし書き物がありて見る。  この雲見村は九〇戸ばかり、往古より長寿な者が数多ありという。今日は終日、雨降りとなり、ついに高橋家にとどまる。

雲見神社縁起(大略)
雲見大神に参詣する人は、富士を禁(い)みて、かの嶺のことは、仮初めにも言わずと、世の人は言うが、書記やわが蔵書に、磐長姫の怨み話などはない。  雲見神社も信濃も、富士と同じく浅間といい、また雲見大神も富士大神も、同じ駿河国鎮座するのも、御姉妹なれば仲睦まじいこそである。しかし雲見神は質素、富士神は顕明であるが、裏と表をなし、すべて大方のものは相反するもの、互いに競ううちに助け合いて立ちゆくものなので、必ず力を合わせあうことを私は疑わない。だから私は、年中、この二神を心底から奉る。長しえなる岩のごと、堅磐に常盤に木花の栄えることを願い、祈り奉るばかりである。
雲見風景を詠める長歌
 かけまくは 畏(かしこ)かれども 久方(白妙)の 雲見の神は 世の人の 齢守りて 移ろい変わらぬ 岩耶姫 神の命の 鎭まれる 奇しき岩嶺と 玉襷 かけて参(まい)来て 登り立つ 麓の道は 磯波の 真砂打ち寄せ 沫雪と 踏みもなづめり 九十九折り かさしき山路 楚(しもと)取り 草根にすがり 頂に いよじ登りて 磐の上ゆ 鯨寄る 千尋の底の 青渕の 巡れる見れば 心さえ 目さえくらみて そぞろにも 寒けくなりぬ 白浪の 寄する裏回(うらみ)に 青波の 立てる奥辺(おきべ)に 空量う 大船小舟 行き交いて 飽かぬ眺めの 果ても無き 愛(は)しき岩根に 大神の 鎭まりまして 君が代の 動くこと無く 国土の 揺ぶ事なく 永(とこと)はに 守り賜える 事の尊さ




魂ふり 山人 投稿日: 2013年04月23日 08:30:43 No.117 【返信】

ものいわなにものに教えてもらう



琉球畳表の碑 山人 投稿日: 2013年03月28日 10:08:43 No.116 【返信】

  琉球畳表の碑

          昭和九年十月二十日建立

琉球畳表組合は龍谷水神の辺に畳表石碑を建立し、碑面に正観上人伝授の箴(おさ)と梭(ひ)を刻んで上人の功徳を賛美し関係者諸士の芳志を永遠に伝えんと感謝祭を挙行した。

正観上人をたたへ祭りて読める和歌

  中世に祖(おや)の植えたし松崎の
  藺草しけりて町もにきはふ

  畳織る業を伝へし法の師の
  恵みあまねし松崎の郷

  百年にあまるむかしの法の師の
  植えし藺草のいよよしけれる 

  いにしへの法の聖の恵み草
  後の世までも功のこれり

  龍谷の水にしげれる琉球藺の
  畳表は世にそしらるる

  真淸水の華とも見ゆる琉球藺の
  いよよしけりて芳はしき上人




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