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投稿者:管理人
また先日の続きですが、先日お知らせした山都町の幣立神宮の真西に、城山があり、調べていくとここが、九州の多くの神籠石・山城・弥生遺跡とライン面で接合していることがわかりました。図1、2のとおりです。 まず城山(山都町)⇔女山神籠石⇔雷山神籠石への西52度偏角のラインがあり、また城山(山都町)⇔菊池城⇔平塚川添遺跡⇔御嶽神社(大島)への西70度偏角のラインがあります。 同じく城山(山都町)⇔四ツ城山付近⇔小迫辻原遺跡東部⇔英彦山東部⇔御所ケ谷神籠石への南北ライン、境目遺跡(宇土)⇔城山(山都町)⇔幣立神宮への東西ラインがあります。 加えて、城山(山都町)⇔宇佐高校庭遺跡への東65度偏角のライン、同じく城山(山都町)⇔古城山⇔鬼ノ城への東40度偏角のライン等もあったでしょう。 その他のラインは先日説明したので割愛しますが、図のように、伊古遺跡⇔菊池城⇔古城山への東15度偏角のラインもあり、菊池城の位置付けも明らかになってくるのですが、その菊池城⇔四城山⇔白岩遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東50度偏角のラインもあります。 その四城山付近はちょうど複数のラインが交差しているので、そのような山名になっているのかもしれませんが、複数のラインが交差・起点となっている地点は重要拠点だったと考えうるでしょう。 そして、宇佐高校庭遺跡⇔西都原古墳群への南北ライン、宇佐高校庭遺跡⇔三雲南小路遺跡への東西ライン、三雲南小路遺跡⇔伊古遺跡⇔脇本(出水)への南北ライン、脇本(出水)⇔西都原古墳群とで、四方区画を形成していることは、以前も掲示板でお知らせしたとおりですが、この距離が南北158㎞、東西105㎞で、52.5㎞の倍数尺となっており、超短里=52.5mを用いていたことも指摘したとおりです。 その他、おつぼ山神籠石⇔境目遺跡⇔西都原古墳群への西45度偏角のライン、宇佐高校庭遺跡⇔境目遺跡⇔脇本(出水)への東55度偏角のラインもあり、先の境目遺跡⇔城山(山都町)⇔幣立神宮への東西ラインとあわせて、弥生時代の境目遺跡についても注目すべきでしょう。 このように10度、15度偏角単位での三角測量を繰り返して、四方区画を構成していく測量方法が弥生時代にはもたらされていたことがわかります。このライン上を狼煙等で通信しながら防衛網を敷いていたのでしょう。 そして、そのどこかに邪馬台国の都があったはずなのですが、首都には、すべての方角からの通信情報が集約する必要があるでしょうから、当然交差するラインの数も多いはずでしょう。 そういう意味では、九州ならば平塚川添遺跡や杷木神籠石、小迫辻原遺跡あたりがそれに相応しい位置にありますが、また瀬戸内・畿内方面を含めるならば、四国の八堂山遺跡周辺等もラインの交差が多い地点となりますね。南西諸島方面まで含めるとなると、さらに複雑になります。 なお、その城山の地名からみて、もしかすると神籠石のような山城があったことも予想しますが、ただ、ほとんどこの周辺については神社や遺跡情報がないので、現地調査が必用そうですね。
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