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投稿者:管理人
昨日お知らせした忌部関連の拠点等を結ぶ方位ラインについてですが、その全国展開を調べるために、特に讃岐忌部の祖・手置帆負命を祀る諸社(こちら参照https://www.genbu.net/saijin/taoki.htm)を結んでみたものが図1となります。図2,3は拡大図です。 まず、讃岐忌部の拠点である忌部神社(豊中)についてみていくと、忌部神社(豊中)⇔多和神社⇔大口神社(伊勢)へのラインがあり、また忌部神社(豊中)⇔忌部神社(出雲)への西65度偏角のラインと、忌部神社(山川)⇔天計神社への西65度偏角のラインとが平行関係にあります。 これらのラインと直交するのが、手置帆負神社⇔斎神社北部⇔大津神社へと向かう25度偏角のラインです。 この大津神社に関しては、日枝神社(飛騨)⇔大津神社西部⇔三柱神社への西81度偏角のラインがあり、これと直交して三柱神社⇔手置帆負神社への東9度偏角のラインがあります。 同じく大津神社西部⇔熱田神宮⇔大口神社への東75度偏角のラインがあり、また大津神社西部⇔忌部神社(豊中)⇔天岩戸神社への東35度偏角のラインがあります。 その天岩戸神社⇔天計神社⇔斎神社への東40度偏角のラインがあり、このラインと天岩戸神社⇔手置帆負神社への西50度偏角のラインとが直交しており、また手置帆負神社⇔忌部神社(出雲)への東40度偏角のラインが、先の天岩戸神社⇔天計神社⇔斎神社への東40度偏角のラインとで平行となります。 あと、忌部神社(出雲)⇔斎神社⇔熱田神宮⇔安房神社への西5度偏角のラインがあり、その安房神社⇔大口神社⇔多和神社⇔忌部神社(豊中)への東10度偏角のラインも見て取れます。 その他、以前もお知らせした天岩戸神社⇔宇佐神宮のラインがあり、同じく宇佐神宮⇔忌部神社(山川)⇔日前国懸神宮⇔大口神社への東11度偏角のラインもあります。 こうみていくと、忌部氏の全国展開の起点として、九州の天岩戸神社や宇佐神宮、手置帆負社があり、そこから四国や出雲の忌部神社、へ展開し、さらにそこから熱田神宮や大口神社のある伊勢方面、そして飛騨の大津神社や、千葉房総の安房神社へと東方展開していった歴史が伺えます。 忌部氏は中臣、物部と並ぶ古代からの祭祀氏族ですが、天岩戸に関する伝承と儀式を当初から有して継承していた集団とも考えうることはこのラインからも明らかで、特に手置帆負神を重要視していたことも伺えるでしょう。 この手置帆負神に関する竿を八百(多数)祭祀のために造っていたことについては、神功皇后の記載にもみえるような、船の帆(木)の枝に鏡や剣、勾玉などをかけて祀る祭祀と関わっていたはずで、その斎槻(木)を竿という形で造営し、各地の忌部集団の拠点等に分配していったのではないでしょうか? ただ、問題はその船の帆を背負う神として描かれている点で、その帆の枝部に手を伸ばして置くといういわゆる十字架状態の神のようなイメージを想起させる件についても考察を進める必要があるかもしれません。 図1下部に挟み込んだ九州の横穴墓や岩戸山古墳などにみられる楯とユキで十字状に手を広げる弓削負(ユゲオイ)のイメージにも近いのですが、アマテラス女神自体もスサノオと戦う際の弓削負のシーンがあり、そこにこの手置帆負神が天岩戸神話とのかねあいで、どう関わっていたのか、またその原型がどのようなものであったのかについてさらに考察を進めてみたいところです。
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