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投稿者:とら
浩泉丸様 「浩泉丸完全復活」といえる昨今の状況、大慶至極に存じます。 とはいえ、相変わらずご多忙なご様子、迷惑をお掛けするのは控えるべきなのでしょうが、反面、ご多忙をお楽しみのご様子もうかがえます。 浩泉丸様の私見と比較し、私のは妄想の域ですが、私は、久留米での天保銭鋳造はありえないと思っています。 現存する量からも、かなり大きな銭座であったはずで現地に痕跡や言い伝えなどがないのはおかしな話です。また原材料はどうしたのでしょう。インフレの幕末、これだけのことをなしえる資金がなかった気がします。 この時代の贋金の中心は二分金で、前田家や黒田家の物は金が入っていたが、浅野家や、島津家の物は、銀さえろくに入っていなかったといわれています。 言い換えれば、天保銭1枚の銅で二分金10枚。メッキして、100文が5両。そのままの額面では流通しなかったでしょうが、薩摩は、脅迫も得意なのである程度の額では流通したはずです。商売なら、どちらを造るでしょう。 大政奉還ののち、官軍が江戸城に入場する前、久留米と称されている銭は、水戸家から有馬家が大量に購入し、久留米あたりに大量に残っていたという事は無いでしょうか。 元来、攘夷派だった両家は,大政奉還時バリバリの佐幕派でした。 水戸家の小梅から有馬家の水天宮は隅田川を下ってすぐです。 水戸の佐幕派は、売却し、江戸を脱出する戦費とし、有馬家は、自慢の戦艦で,奥羽や本国に回送したという事はないのでしょうか。 佐幕から尊王にかじを切り替えるため、奥羽に進駐し、朝廷に忠誠を示す必要のある有馬家は、末端の兵隊に持たせたり、現地でこまごまとしたものを購入するのに天保銭は必要で、二つ返事で購入した気がします。 水戸家では、門閥派の諸生党が天狗党の乱ののち、攘夷派を女児、幼児に至るまで皆殺しにするという日本史上類を見ない行為を行います。 大政奉還ののち、かろうじて生き残って、薩摩の下でテロ活動など行っていた攘夷派が、水戸に戻り報復を行い大混乱。明治になっても殺戮は続き水戸は焼け野原になります。 このようなところで、藩札など通用するはずもなく、天保銭が必要だったのではないでしょうか。実際鋳造するのは、請け負った商人で、諸生党でも、天狗党でもよかったはずです。 恐らく大した利益は出なかったでしょうが、日立銅山もあり原料の銅は確保できたような気がします。小梅では足尾の銅を使ったかもしれません。 何の証拠も確証もない妄想です。 沢山出るからその辺で造ったとも考えられるが、誰かが持って行けば沢山あります。天保銭は通貨で、どこにあっても不思議でないので、どこで出現したかは気にすべきではない気がします。 画像は、昔おまけでもらった明治二分金と流通贋造品。量目は、3.08gから1.75g迄さまざまです。
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