投稿画像
投稿者:フランシス・フォード・コッポラ
[YouTube:Db52BtpoAi8:R] 米国マフィア マフィアの起源は、中世シチリアのガベロットと呼ばれる農地管理人である。彼らは農地を守るため武装し、また農民を搾取しつつ大地主ら政治的支配者と密接な関係を結んでいった。19世紀から恐喝や暴力により勢力を拡大し、一部は19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国に移民し、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大した。 全米の中で6番目の人口を誇り人口の全体の5.4%を占めているのはイタリア系移民である。最もイタリアからの移民が多かった時期は伊が統一された1905年頃で、入国してきたイタリア移民は殆どが貧しい南部イタリアの出身であった。 彼らはニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニアなどの大都市集中して住み、多数派の民族集団に属する傾向が強かった。最も集中する都市はニューヨーク州であり人口は約280万人を超え、この数は民族集団としては最大数のものである。 イタリア人移民の特色の1つは米へは永住ではなく、労働し賃金がたまると帰国する「渡り鳥」と呼ばれる出稼ぎ労働者であった事である。 彼らは当時、貧しい上にカトリックであったため、先着の北、西のプロテスタント系移民からもウォプやマカロニと呼ばれ蔑まれ差別と反感の対象にされていた。 もう1つの特色は教育に対する伊人の考え方にある。彼らは「学校で得る知識よりも実際に社会にでて習得する知識の方がより有効である」といった価値観を持ち、子供に積極的に教育を受けさせようとはしなかったのである。この結果、伊移民の職業的特徴は白人エスニック集団の中でも最もブルーカラーに偏り、専門職,技術職の最も少ない民族集団となるのである。 当時、彼らが米へ移民してきた背景には、母国における貧困問題があった。統一当時イタリアは特に産業がなく貧困状態から抜け出せずいた南部に対し援助のための資本を持っておらず逆に国家予算の重荷を貧農に負担させ状況を悪化させていた。それに加え人口増加も拍車をかけていた。 しかし、受け入れる側の姿勢がないと移民というものは成立しない。 つまり受入国である米でも短期的に稼げる肉体労働の職が数多く紹介され移民が働きやすい環境にあったのだ。そしてその多くが建築産業であった。 この理由のひとつは「パドローネ」と呼ばれるボスの存在がある。英語に堪能でなく、又米の生活習慣に慣れていない伊人にとって通訳や雇用者との 仲介役を行ってくれるボスは無くてはならないない存在であり、生き残るには彼に頼るしか方法が無かったのである。彼の斡旋する仕事は「つるはしとシャベル」(pick and shovel)と呼ばれ、低賃金重労働であり、その上斡旋料をとられるため労働者には痛む腕と背中しか残らないといった状況だった。しかし1900年から1914年頃に州政府がパドローネを頼っての移民の入国に制限を加えたため、パドローネ制度は衰退していく事になる。移民の多くはこのような斡旋業者を通して渡米していたが仕事を実際に得る上で特に重要な役割を担っていたのは近縁、遠縁の親族、同じ村や地方出身の同郷人ネットワークであった。 特に親族や同郷人のつては移民に生活の基盤となる住居を提供するなど物質的、精神面での大きな支えとなった。このように移民する上で大きな役割を果たしたものは家族(ファミリア)であり、その家族中心の個人的コミュニティが根強い存在であり、彼らは世代を越えその独自の社会を築きあげ相互扶助の精神を芽生えさせていった。同郷組織と大家族制度に基づく連帯意識と団結といった特徴をもつ彼らのコミュニティはリトル・イタリアとして知られ、現在でも各都市において存在しイタリア系アメリカ人の心の拠り所であり重要な文化的要素にもなっている。イタリア人にとって大家族による結合とその利益を守る事こそが重大なルールでありファミリアを保つ秩序でもあったのである。 そのファミリーの特色が生きている集団の1つにアル・カポネ一家などのギャングやマフィアなどがあり、彼らは禁酒法時代に様々な酒の密造、密売などの違法行為を組織的犯罪として繰り返し暗黒街に勢力を伸ばし富を築いた。そのため伊人と犯罪のイメージは非常に結びつきが激しく、現在でもマフィア系アメリカ人であるという印象は払拭されてはいない。
投稿記事
画像を拡大