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投稿者:管理人
ここ数日お知らせしてきた忌部の祖のみえる手置帆負命と彦狭知命の東方展開とそのセット関係、また天日鷲命の孫・由布津主命と香取神宮等で祀られるフツヌシとの関係、そしてタケミカヅチ・フツヌシのセット神との関連性について、今回は考えてみたいと思います。 先日もお知らせしたように、安房忌部系の文書には、天日鷲命の子である大麻比古命は亦の名を津咋見命、津杭耳命とあり、次に天白羽鳥命。亦の名を長白羽命。次に天羽雷雄命。亦の名を武羽槌命と記されていることがあり、その津咋見命と天白羽鳥命について分析をし、それぞれツキヨミ神と白鳥に関わるヤマトタケルの東征伝承がそこに関連していることを指摘したとおりですが、また最後にみえる天羽雷雄命(武羽槌命、天羽槌雄神)について考えていくと、これはその名が示すように、武御雷(タケミカヅチ)神と類似していることに気づきます。 そこで、この天羽槌雄神を祀る諸社(https://genbu.net/saijin/hazuti.htm 参照)を結んだ方位ラインを作成して見たものが図1となります。図2,3はその拡大図ですが、ここでタケミカヅチを祀る鹿島神宮境内の静神社でもこの神が祀られていることがあり、このことからも、すでに武御雷(タケミカヅチ)と天羽雷雄(武羽槌)に共通性があることが伺えます。 そして、その鹿島神宮からのラインをみていくと、まず鹿島神宮⇔倭文神社(韮崎)への西10度偏角のラインと、倭文神社(韮崎)⇔倭文神社(富士宮)への西80度偏角のラインとが直交していることがわかります。 また、その倭文神社(韮崎)⇔富士山(久須志神社)⇔鍬戸神社への西60度偏角のラインと、鍬戸神社⇔鹿島神宮への東30度偏角のラインが直交して図のように直角三角形を構成していることに気づきます。 次に鹿島神宮⇔諏訪大社(前宮)への東西ラインがあることは、百瀬直也さんからも以前掲示板でお知らせしただいたところですが、また図のように、鹿島神宮⇔下松原神社への東60度偏角のラインもみてとれます。 続いて鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔天羽槌雄神社(濱名惣社神明宮)⇔伊勢方面への東25度偏角のラインが確認できますが、細かく見ていくと、鹿島神宮⇔倭文神社(富士宮)⇔倭姫宮へのラインと、鹿島神宮⇔天羽槌雄神社⇔伊勢外宮へのラインに分かれているようです。 そして先の鍬戸神社⇔天羽槌雄神社(濱名惣社神明宮)⇔大麻比古神社への東15度偏角のラインがあります。 続いて、茨城方面についてみていくと、まず大洗磯前神社(静神社)⇔倭文神社(伊勢崎)⇔服部神社への東西ラインがあり、また静神社(那珂)⇔倭文神社(伊勢崎)⇔倭文神社(東伯耆)への東10度偏角のラインが確認できます。 その後者と直交するのが、図のように服部神社⇔倭姫宮への西80度偏角のラインとなり、このラインと倭文神社(富士宮)⇔坐摩神社(繊維神社)への東10度偏角のライン、大麻比古神社⇔倭姫宮(南部・月読社北部)⇔安房神社への東10度偏角のラインとが直交しています。 関連して、忌部神社(山川)⇔大麻比古神社⇔坐摩神社(繊維神社)⇔諏訪大社(前宮)への東30度偏角のラインもあります。 あと、出雲大社⇔倭文神社(東伯耆)⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあり、また諏訪大社(前宮)⇔倭文神社(富士宮)への西65度偏角のラインと、坐摩神社(繊維神社)⇔静神社(那珂)への東25度偏角のラインとが直交していることもあります。 以上のようにみていくと、倭文氏の祖・天羽槌雄神を祀る諸社は、鹿島神宮や阿波忌部氏の大麻比古神社、安房神社や伊勢の倭姫社等が関連づけられていたことがわかります。 そして、天羽槌雄神と鹿島神宮のタケミカヅチとが相関性を持っていたことが予想されますが、またそのことは、タケミカヅチが討伐したタケミナカタと関わる諏訪大社(前宮)がこのラインに接続していることからもあきらかです。 特に諏訪大社(前宮)⇔倭文神社(富士宮)へのラインがありますが、この倭文神社については、星山のそばにあり、その星山の地は、神代、香々背男が支配し、中央に叛いたため、当社祭神・健羽雷神によって討たれ、後、健羽雷神によって、織物・製紙などの産業が発展した地とされ、『日本書紀』によれば、大化改新の一年前に、大生部多という人物が、虫を祀るよう村民を扇動したため、秦河勝によって討伐されたとあり、大生部多が倭文部であったとの見方もあります(https://genbu.net/data/suruga/sitori_title.htm参照) そのことは、天羽槌雄神が建葉槌命の名で『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神の香香背男(かがせお)を服従させた神とされることからみて、そのフツヌシ・タケミカヅチと深い関係がある神としてこの天羽槌雄神が存在していたことを示します。 ここでまた、大生部多等の常世虫(三尸虫か)を祀る道教集団≒星神・香香背男を、秦河勝や天羽槌雄神(倭文氏の祖)が征伐した話と捉えるべきですが、正確には秦氏の神との宗教・武力闘争であった可能性も考慮すべきでしょう。 つまり、この秦河勝が富士川の大生部多を討伐した出来事に関して下記の歌が記されています。 太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも(ウヅマサハ カミトモカミト キコエクル トコヨノカミヲ ウチキタマスモ) 〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉 ここでウズマサとは河勝のことではなく、ウズマサという神を指しており、その神が、常世の神を懲らしめたと言っているのです。 ウズマサのマサは、河勝の勝(マサる)の意味で、当時勝をマサと読ませていたように、ウヅと勝つとの組み合わせ名であり、もとの神名がウヅだったとすれば、秦氏の祖・弓月・融通(ユヅ)君とも関わり、ウヅ・ユヅといった神を秦氏が祀っていたことも予想しうるでしょう。 そして、先日お話した秦氏を率いていた忌部氏の神であるユフツ神、フツ(ヌシ)のフツと、このユヅ神とが接点をもってくることがわかります。 もっとも秦河勝は5世紀後半から6世紀初頭の聖徳太子時代人物であり、この644年に秦河勝が出てくるのは不自然ですから、秦河勝は秦氏とその宗教を象徴していた可能性があるでしょう。 ここで、忌部系の天羽槌雄神(倭文氏の祖)の伝承としては、星神である香香背男を討伐した形になったのかもしれませんが、その常世虫の原型とされる三尸虫信仰によれば、その三尸虫が天井へと報告へ向かう庚申の日に北斗七星が降りてくるという話があり、そのことが元で星神の信仰とみなしていたのではないでしょうか。 なお、この天羽槌雄神を祖とする倭文氏は倭文(シヅ)をつくる集団で、忌部が得意とする麻などから色鮮やかな倭文を織っていたのですが、上記のように武闘神としての性格も有していることがあります。 先の鹿島神宮や石上神宮には、タケミカヅチがもちいた布都御魂(ふつのみたま)との大刀がありますが、別名を韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言い、ここでフツ・サジの名が見えてきます。 そのサジが、先日の忌部の東方にむかったセット神で楯縫をした彦狭知のサチを想起させます。その相方が父の天日鷲(別)となるわけです。 そして倭文氏と同様に、天羽槌雄神を祖とする氏族に弓削氏がおり、この祖が天日鷲(翔矢命)となり、矢やユキを負う弓削の職掌を相続していたことからみて、武闘的な側面を有していた一族がこの集団内にいたことも予想しうるでしょう。 あと、今回のライン上で特に留意しておくべきなのは、先日の天日鷲を祀る諸社にもみえてくる服部神社の服部(ハトリベ)の存在があり、当社そばの桑の木の多さから蚕による絹織が予想されていますが、このハタオリの起源については、忌部氏によって記された『古語拾遺』では、養蚕を得意とした秦氏のハタとその織物との兼ね合いから生じた語であることも記されています。 その服部神社は、図のように伊勢崎の倭文社や、大洗の静(シヅ)社と東西ラインで接合しており、そこからも秦氏と倭文氏との関係が伺えます。 また服部神社は先のとおり服部神社⇔伊勢ラインの西80度ラインがあり、そのラインと直交していたのが、倭文社(那珂)⇔倭文社(東伯耆)、倭文社(富士宮)⇔座摩神社(繊維神社)ライン、安房神社⇔伊勢⇔大麻比古神社への東10度偏角のラインでした。 これらは密接に計画された位置に造営されており、同族集団のラインと考えてよいと思いますが、その多くは倭文を名乗りタケハヅチを祀っています。ただ、その一部はまた倉吉の倭文社のようにもともとタケミカヅチを祀っていたケースもあり、また那珂の倭文社のように、手力男を祀ったりしているケースもあったのでしょう。 その那珂の倭文社に、手接足尾(テツギアシオ)神社がありますが、これは忌部の手置帆負(タオキホオイ)と関係しないでしょうか。 その他、出雲大社も関わってくることがあり、タケミカヅチとフツヌシが大国主に国譲りさせた神話とかかわりそうです。その件は諏訪のタケミナカタ(大國主の子)と同様な構造で、これらの諸社が今回のライン上に見えてくることも、その支配領域の占領・拡大と関係していたのかもしれません。先の星神の富士川のケースも同様な支配を意味していたはずです。 あと、天羽槌雄神については、日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、ここで、日本書紀第九段本文と似た記述があり、これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したとの見方があります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/天羽槌雄神 参照) ここにみえる斎主とは、忌部(後代の斎部)で、その神としてのタケハヅチと見なしうるならば、理解しやすくなるでしょう。忌部自体は職掌集団伴部なので、かならずしも血縁集団であったとは言い難いものの、その信仰面では共通したものがあったのでしょう。 その彼らが信仰していた神として、ユフツ・フツ(ヌシ)・ユヅ(弓月)との神と、タケミカヅチ・タケハヅチといった神がおり、同時に殖産の神としての性格も持ち合わせいたのかもしれませんが、その前者はまた手置帆負神のように、三種の神器をかかげた帆(斎槻)を背負い、同時に帆に両手を広げて置く神のイメージであり、また弓削負のようにユキを背負う武神のイメージとして描かれることもあったのでしょう。 これらの信仰や伝承は、天岩戸方面から日向経由で、讃岐・安房を経由して、紀伊・畿内へと忌部の祖とともにもたらされ、宮中儀式へと取り込まれていったことが予想されますが、その一部は東海・関東・中部・北陸・出雲へと伝わって行き、それらの伝承も地方豪族の伝承として、再度宮中へともたらされ最終的に記紀に記されていったのかもしれません。 現在も宮中や伊勢で祀っている儀式の主要な部分は、これらの集団によってもたらされたものですが、その起源を明らかにすることで、はじめて日本文化の源流を探ることができるのかもしれません。
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