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投稿者:管理人
先日見た下記のネットニュースに興味深い記事が載ってます。「日本(国)」とは東北のことだったのか?その日本国の中央が青森県の千曳にあったとするとどうなるのか?が気になるところです。 坂上田村麻呂の遺物「日本中央の碑」は本物か、青森の巨石に刻まれた謎を検証https://news.yahoo.co.jp/articles/17ed01dac673b599cd72aaa4913318cf6117e284?page=1 そこで、その日本国の位置を確認する上で、図1のような方位ラインを作成してみました。 ここで、まず南の起点は武神タケミカヅチを祀る鹿島神宮で、古代から多くの方位ラインの測量起点となっていることは以前からお知らせしてきたとおりです。 そこから先の日本中央の碑へ向けて北上していくと、鹿島神宮⇔葛尾村夏湯(私の父方の祖父の実家・先祖の地)⇔伊達家の墓⇔日本中央の碑(青森県上北郡東北町千曳)⇔白老(伊達家)仙台藩陣屋(東にアイヌ民族の拠点ポロトコタン)⇔T204遺跡(縄文・続縄文遺跡)へと東85度偏角のラインがあることに気づきます。 もっとも父方の祖先は征夷大将軍の坂上田村麻呂となるので、今回その田村麻呂が刻んだとされる日本中央の碑と関係していてもおかしくはない気がするのですが、また伊達家の墓や陣屋とも関係していくところが興味深いところです。 そして北端のT204遺跡(札幌市豊平区西岡5条3丁目)は、我が家から東へ100mとなるわけでして因縁としか言いようがない位置付けと言えそうです。 先の白老の仙台藩陣屋そばにはアイヌ(縄文時代からあったであろう)のチャシ(砦)や、最大拠点のポロトコタン(ウポポイ)もありますが、日本中央の碑の位置は、図のように、蝦夷遠征に関連する多賀城碑と、北海道の同時代の続縄文時代の遺跡でもあるT204遺跡との中間地点にあることを考慮すると、日本国が札幌から仙台にかけての同心円の地域にあり、その中央の地点として、青森県のこの地が田村麻呂等によって占拠されたことによる可能性も考慮すべきかもしれませんね。 ただ、盛岡の志波城(斯波)までが、この田村麻呂当時の遠征の北限とみられることから、青森北端まで支配領域を広げていたかどうかは確認できない感じですが、一時的に支配を延ばしていた可能性はあるかもしれませんね。 以前お知らせしたように、多賀城碑には、(天平宝字六年(762)十二月一日)「去京一千五百里 去蝦夷国界一百二十里 去常陸国界四百十二里 去下野国界二百七十四里 去靺鞨国界三千里」と見えており、距離換算からこの時代に靺鞨国が沿海州方面にあることを把握し、その中間地点に「蝦夷國」があるとの認識を記してます。 ここで、先のT204遺跡⇔日本中央の碑の間が247㎞で、日本中央の碑⇔伊達家の墓の間が285㎞、伊達家の墓⇔鹿島神宮の間が253㎞となるので、概ね、常陸國境から多賀城までが412里=230㎞前後(唐尺の1里560m前後で計算)とすると、 多賀城⇔胆沢城の間が97㎞となるので、120里で計算するならば67㎞にしかならず、まだ760年当時のこの多賀城碑の時代には、実際、アテルイが後に拠点としてであろう胆沢城までは大和朝廷の支配領域が広がっていなかったことを意味しています。 ちなみに、下野国境から多賀城までが274里=153㎞とされてますが、実際現在の栃木県境の白坂付近までが153㎞となっており、ここでこの距離が、曲がりくねった道程を里数として数えていたのではなく、2点間の直線距離を測った距離であった可能性がでてきます。 そこで、多賀城⇔平城京の間が1500里とされたことについて考えてみると、唐尺で840㎞にならないといけませんが、直線距離にすると611㎞しかないので、多賀城⇔鹿島神宮(261㎞)+鹿島神宮⇔奈良平城京(458㎞)=720㎞でこれも少し足りない計算ですから、この1500里はアバウトな数値であった可能性が高くなるでしょう。同様に多賀城⇔靺鞨国の3,000里もアバウトな数値と考えうるはずです。 それでなぜ青森のこの地を日本国の中央と記したか?が課題ですが、日本を蝦夷の国とされた日高見国と同義であったとの見方によるならば、日本の中心が青森周辺と見なすことはありうることと感じます。 ただ当時日本国の称号はすでに天武朝頃には成立して使用されていたはずですか、日本列島の中心は奈良京都周辺と考えるのが自然ですが、なぜかそうでない観念をここに記してある点が問題となります。 ちなみに、鹿島神宮⇔平城京(大極殿)⇔宇佐神宮への東18度偏角のラインがあり、その距離は427㎞:461㎞です。 平城京に都がおかれていた奈良時代においては、この両神宮が特に重要視されていた理由は、この測量支配面での意味も大きかったことでしょう。 同様に、北方支配の拠点として、鹿島神宮が位置づけられていることも自然な流れで、その鹿島神宮を起点としてライン上に、日本中央の碑が見えてくるのも不思議ではない感じがします。 あと日本中央の碑の真南に胆沢城が位置することにも留意しておくべきかもしれません。 もう少し日本中央の碑の日本の意味について、追ってこれから考察をすすめていきましょう。
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