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投稿者:管理人
昨晩の投稿で、宮崎の古墳群を結ぶ方位ラインの存在と、そこに宇土・宇佐方面の古墳群とがライン面で接続すること、またこれらのライン上に位置する西都市山田の古墳状地形が箸墓と同規格であること等を指摘しましたが、またそのライン上に位置する持田古墳群から、景初4年銘の盤龍鏡が出土していることから、以前紹介した宇土境目遺跡方面と全国各地の紀年銘鏡を出土した古墳とを結ぶ方位ラインとの関係を予想したことがありました。 そこで、その全国各地の紀年銘鏡を出土した古墳と、上記の持田古墳、および西都市山田の古墳状地形を結んでみたものが、図1および図2,3の拡大図となります。 ここで、まず西都市山田(古墳状地形)⇔持田古墳群(48号墳・紀年銘鏡出土?)⇔布留神社への東40度偏角のラインがあることに気づきますが、またこのラインに直交する形で、畑中・境目遺跡(宇土)⇔国富町山田、女山神籠石⇔持田古墳群ライン、さらに森尾古墳(正始元年銘鏡出土)⇔広峯15号墳(景初4年銘鏡出土:持田古墳のものと同型)⇔布留遺跡・石上神宮周辺への西50度偏角のラインが見て取れます。 したがってこれらのことからも、西都市山田および持田古墳群の古墳(状地形)が、邪馬台国卑弥呼の時代の年号銘鏡との共通要素で接合していたことを明らかにしうるでしょう。 これらの紀年銘鏡の初期の分配地点が九州だったのか、畿内だったのかについて考える必要がありますが、仮に九州だった場合には、宇土方面や女山神籠石、もしくは今回取り上げた宮崎の持田古墳群、あるいは西都市山田の古墳状地形あたりが重要拠点だったことが考えうるでしょう。 その西都市山田の古墳状地形については、正確には字名・山田と荒武の間(西都市荒武3972)にまたがっていますが、一度近いうちに見学・調査しにいきたいところです。現地情報などございましたら、よろしくお知らせください。
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