投稿画像
投稿者:管理人
先日お知らせした南西諸島のグスクと九州の神籠石を結ぶ方位ラインについて、さらに細かく調べてますが、邪馬台国沖縄説の可能性が現実味を帯びてきた感じで驚いてます。 図1が全体図、図2は沖縄方面、図3は九州方面の拡大図です。 ここでまず、糸数グスク⇔勝連グスク⇔久志グスク⇔根謝名グスク⇔奥間グスク⇔アマングスク⇔世論島西方沖⇔大和城(沖永良部島)⇔大和城(徳之島)⇔大和浜西部(奄美大島)⇔屋久島東方沖(安房町付近)⇔種子島北西部⇔八堂山遺跡(高地性集落)⇔鬼ノ城への東60度偏角があります。 ここで大和の名が沖永良部島、徳之島、奄美大島に連続して見えることに注目すべきでしょう。つまり邪馬台国のヤマトとの関わりを考慮する必要があるかもしれません。 沖永良部島の大城・畦布の大和城についてはこちら参照。 https://yannaki.jp/okigusuku.html 徳之島天城の大和城山についてはこちら参照。 大和城は大和城山(標高251m)に築かれた中世の山城とされ、天城町誌によれば7人の兄妹のアジ(首長)がいたとされる。玉城(タマグシク)の見張所とも言い伝えられており https://jmapps.ne.jp/amagi/det.html?data_id=8 奄美大島の大和村についてはこちら参照。 「大和村の名前の発祥は古く、大和朝廷の時代(4〜7世紀)に遡るとも伝えられています。「浦内沿革誌」には、「大和時代、この地に大和人が住んでいた」とあり」 https://www.vill.yamato.lg.jp/kikaku/kanko/rekishi-hogen.html 特に、徳之島の大和城山については、その「玉城」グスクの見張りどころとのことで、ライン面でいくと、上記のように沖縄の糸数グスクのやや東方に隣接するのが、その玉城グスクとなるので、このライン上の拠点を通して、狼煙通信などで情報のやり取りしていた可能性があるでしょう。60度偏角なので、3分の2偏角として航路上でも理解しやすい方角にあったと言えるでしょう。 確かに遣唐使等で畿内大和からの移住者によって大和の名が残された可能性もありますが、ただライン面からいくと、それ以前の八堂山遺跡のような高地性集落の時代、つまり弥生末期あたりには、この大和(ヤマト)の名があった可能性を感じます。鬼ノ城についても、図3のように九州の唐沢山城や高良山神籠石をはじめとして、弥生後期から末期の遺跡と接合してきますから、その時代をやはり考慮しておく必要がありそうです。 その九州の神籠石を結ぶラインについては先日も説明したので詳細は割愛しますが、新たに付加して説明しておくべきこととしては、図のように高良山神籠石⇔唐沢山城⇔鬼ノ城への東30度偏角のラインがあり、同じく、おつぼ山神籠石⇔高良山(奥社付近)⇔杷木神籠石⇔八堂山遺跡⇔鳥見山への東15度偏角のラインが見えてくることがあります。 この両者は倍角の関係にありますが、鳥見山については、物部氏の祖・ニギハヤヒとその妻トミに関係するライン拠点でもあり、ある時期に九州北部から東遷した集団によるものと考えるべきでしょう。 図のように物部氏の拠点・石上神宮そばの神宮公園にみえる前方後円墳状地形⇔高安城⇔鬼ノ城への西5度偏角のラインなどとも関わり、石上神宮そばの布留遺跡の年代、つまり邪馬台国時代のやや後の時代とこれらのライン拠点とが関わっていることが予想されます。 そこでまた図2の沖縄方面に戻ると、先日もお知らせした照屋グスク⇔首里城(王陵付近)⇔浦添グスク⇔今帰仁城⇔笠狭崎(鹿児島・ニニギの宮)⇔元宮神社(五馬・天ケ瀬)⇔唐沢山城への東70度偏角のラインがあり、それと平行して、鹿毛馬神籠石⇔高良山(奥宮付近)⇔女山神籠石への東70度偏角のライン、同じく平行となる御嶽社(大島)⇔志賀島(潮見公園)⇔雷山神籠石⇔三雲南小路遺跡⇔おつぼ山神籠石⇔具志川城(久米島)への東70度偏角のラインがありましたね。 そして図2のように、大和城(徳之島)⇔久米島中央部⇔マヤグスク(西表島)への東40度偏角のラインがあることにも気づきます。 そのマヤグスク(西表島)⇔フルスト原遺跡(グスク)への東西同緯度ラインもあり、さらにマヤグスク(西表島)⇔大嶽グスク(宮古島)への東20度偏角のラインもあったでしょう。 あと、そのマヤグスク(西表島)⇔糸数グスク(沖縄本島)への東30度偏角のラインと、図のように大嶽グスク(宮古島)から東30度偏角のラインを延ばした先にある先の2つのラインとの3交点とが平行関係にあることもわかります。 その3つのラインが交差する地点には現在は島地はないのですが、理論上、そこを起点としてこれらのラインが造営されていたことになるので、過去に島地が存在していたかどうか確認しておく必要があるでしょう。 その他、図のように糸数グスク⇔喜界島西南部⇔鳥見山(奈良)へのラインが東50度偏角になりますから、その左に見える東60度、70度偏角のラインと10度偏角の差となり、つまり等間隔で北上していることがわかります。 このようなことからも、決まった偏角上の航路を航行することが、航海民にとっていかに重要視されていたかが伺えるのですが、その拠点には今回もそうですが必ずといっていいほど、前方後円墳に似た2つの丘陵上地形が見えることもあり、この古墳状地形は高地性集落や弥生遺跡にも見えることを考慮すると、その一つは狼煙台として機能していたことが考えうるでしょう。それが山岳地帯から平地へと移動していく過程で前方後円墳が出現していったのです。 その起源はやはり南西諸島のこれらのグスクやその発展形ともいえる神籠石を構築していった集団にあることもわかりますが、そこに邪馬台国が絡んでいた可能性が高いでしょう。 魏志倭人伝の会稽東治の真東に女王国があるとの理解も、その会稽東治の東治を中国の福州の古名とする見方に従えば、緯度的には先の沖縄南部の照屋グスクや糸数グスクあたりがその真東になるので、倭人伝における南に陸行1月、水行10日で女王国に至るとの記載も、そのまま琉球方面を示していた可能性もが出てきた点で、驚いていたわけです。九州北部から南部の日向・薩摩方面(投馬国)までを陸行1月(あるいは水行20日)、それ以降の琉球方面までの南への航海を水行10日と見なすこともできそうです。 ただ、それでは、女王国の南で対立していた狗奴国はどこにあるのか?との問題が生じてくるのですが、当時の記録書はそれほど方位や距離を間違うことが少ないようにも感じますので、そうすると、一つの案としては、先に大和の名が残っていた奄美大島とその南の徳之島、その南の沖永良部島をひとくくりとして邪馬台国のうち特に女王国として、その南の沖縄本島方面や八重山諸島方面を狗奴国とすれば、前者は北ルートで魏へと朝貢し、後者は西南ルートで呉へと朝貢をしていたというような想定もできるかもしれません。もとは同族でしょう。 なお、その沖縄本島周辺には、伊是名・伊江・伊平屋・伊計など伊のつく島名が多いのですが、この特徴は伊勢・伊都・伊予・伊豆等の地名を海岸沿いに残していったであろう南方航海民のそれと共通性があることに気づきます。 ある時期に沖縄本島周辺から、北上して日向経由で北上していった集団の影響を予想すべきですが、この集団は呉と関係しており、画紋帯神獣鏡や円墳等を残している点で、北九州から畿内に関わる三角縁神獣鏡や前方後円墳を残した集団とやや性質を異にしているようにも感じてます。 その二つの集団の起源を解き明かす上でも、この琉球・南西諸島方面の分析が必用になってくるように感じ始めているのですが、また何かご意見ございましたら、よろしくわかちあいください。
投稿記事
画像を拡大