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投稿者:山本恵昭
春うらら、その壱。 2泊3日で、涸沢岳西尾根から、奥穂高岳を往復。 3月28日新穂高7時発、白出沢出合を過ぎて、西尾根に取り付く。雪は少なく、先日の雨が凍ってガリガリ。 2360m地点に12時半。整地して、テント設営。 29日5時半発。蒲田富士手前の雪壁もその上のナイフリッジも、雪が安定していて難なく通過。 涸沢岳までの長い登り。アイゼンが雪に隠れた岩に引っ掛かり歩きにくい。朝日に輝く笠ヶ岳を眺めたり雪庇の隙間から滝谷を覗き込んだりして、息を整え気持ちを落ち着かせる。 雪に埋まった穂高岳山荘周辺は広々として、ホッとする。 鉄梯子の上の雪壁がちょっと怖い。バイルも使ってダブルアックスで慎重に。 奥穂高岳山頂に10時50分着。快晴。360度、どっちを向いても絶景。 涸沢岳に登り返し、さっさと下りたいところだが、異常な暖かさでアイゼンが直ぐに雪団子。スリップしたら、命とり。数歩ごとに、ピッケルで叩き落とさなければならない。蒲田富士のナイフリッジも雪が緩み、崩れそうで怖い。 テントに15時半。結構疲れた。 30日朝ゆっくり準備して、6時半発。ガリガリ急斜面を下って、白出沢出合で日向ぼっこ。フキノトウを少々。もう春の気配。 11時過ぎ、新穂高の県警に下山届を提出。駐車場で濡れ物を干しながら、行動食で昼食。 定例の荒神の湯。清掃協力金が、200円から300円に値上がっていたけど、この解放感は捨てがたし。 初めて雪の穂高に登ったのは、社会人になって数年経った年末だった。体力も技術も充実していたその頃、何の問題もなく、奥穂高岳から西穂高岳へ駆け抜けた。今は亡き薮内さんのリクエストだった。 薮内さんが何故そこに行きたかったのか。それは、職場の同僚だった宝塚山の会の人が涸沢岳西尾根経由で奥穂高岳に来ていたから。 大学山岳部では、多くの者が卒業したら山を引退し、思い出話(それも悪くはないが)に花を咲かせ、他人の登山の評論家になっていた。 薮内さんにとって、社会人になっても山への情熱を持ち続け、日々トレーニングを重ねている宝塚山の会の人が、眩しく輝いて見えたのだろう。 涸沢岳西尾根を登る途中、下山して来るその人と出会った。「ちょっと西穂まで」と自慢気に話しかける薮内さんの笑顔が輝いていた。その眼のキラキラは、少し恋愛感情も有ったのではないだろうか。 その後、薮内さんは宝塚山の会に入り、正月の鹿島槍ヶ岳で遭難した。メンバー4人の遺体が黒部側の谷底で見つかったのは、8月だった。 それから40年近くの時間が経った。何度意味のない「たら、れば」を繰り返しただろう。そして、今も。 薮内さんが生きていたら、今回の山行も一緒に行っていただろうか。「いつまでそんなことやってんや、アホちゃうか」と笑われたかも。
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