投稿者:wajin128
三国志東夷伝韓の条
【 部從事呉林以樂浪本統韓國 分割辰韓八國以與樂浪 吏譯轉有異同 臣智激韓忿 攻帶方郡崎離營 時太守弓遵 樂浪太守劉茂興兵伐之 遵戰死 二郡遂滅韓 】
「現代語訳」
部従事の呉林は、本来楽浪が韓國を統治していたので、辰韓の八国を楽浪の所属に戻そうとしたが、官吏が訳を誤って伝えた為に、韓王の臣智は激高し韓の人々は怒りを爆発させ、ついに帯方郡の崎離営を攻めた。
この時帯方太守弓遵・楽浪太守劉茂は連合軍を結成して韓と戦った。
弓遵はこの戦で戦死したが、ついに連合軍は韓を滅亡に追いやった。
景初は3年しかありません。
2年には、倭は帯方郡を訪れています。
したがって景初2年以後に、帯方と楽浪の連合軍と韓とは、帯方太守弓遵が戦死するほどの激しい戦争が、繰り広げられたことになります。
古田氏は激戦の最中に「郡の使者は」デモンストレーションとして、韓國内を陸行したと語っています。
これは明らかに「嘘」をついています。
おそらく古田氏は「三国志」を読んではいないのでしょう。