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投稿者:管理人
ちょっと幣立神宮について調べることがあり、この神宮に関係する方位ラインを作成してみました。図1のとおりです。 ここでは、まず西都原古墳群⇔幣立神宮⇔杷木神籠石⇔鎌田原遺跡西部⇔立岩遺跡への西70度偏角のラインがあります。 また、幣立神宮⇔白岩遺跡東部⇔唐原山城⇔山陽小野田市の小野田への南北ラインが見えます。 さらに、幣立神宮⇔女山神籠石南部⇔与止日女神社への西40度偏角のラインと、幣立神宮⇔古城山への東50度偏角のラインとが直交していることもわかります。 その他、幣立神宮⇔おつぼ山神籠石への西30度偏角のラインもあり、以前も指摘したおつぼ山神籠石⇔平塚川添遺跡東部⇔唐原山城へのラインとも関わってきそうで卯s。 また古城山に関しては、古城山⇔女山神籠石北部⇔おつぼ山神籠石への東西同緯度ラインがあり、さらに古城山⇔白岩遺跡(高地性集落)⇔⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔平塚川添遺跡への西15度ラインの存在を考慮すると、古城山にも弥生時代の高地性集落や山城があったことが予想されます。 この幣立神宮については、熊本県上益城郡山都町大野に鎮座する神社で、日の宮(ひのみや)ともいう社伝によれば、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際この地で休憩し、眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったとの伝承があるようですが、山都(ヤマト)町の西部に位置していることからみても、ヤマト・邪馬台国と関わりそうな地ではあります。 主祭神は、神漏岐命、神漏美命で、また健磐龍命は神八井耳の子で、妻に阿蘇比咩命がおり、阿蘇君の祖となるようで、神武・オオヒコ等の南方航海民の系譜に属する九州中部を支配していた集団のように見受けられます。 関連して今回の西都原⇔幣立神宮⇔立岩遺跡ライン上に見える立岩遺跡からは、甕棺内から計十面の前漢時代の鏡をはじめ、剣、戈、鏃、釶など豊富な鉄製品、銅矛が出土するとともに、更に大量のガラス製や南海産のゴホウラ貝の装身具類などの発見もあり、これらは全体として弥生時代における遠距離交易を示唆するものとされているので、やはり南西諸島に起源がある南方航海民との接点が見て取れます。 このラインの年代的には、西都原古墳群の時期、弥生末期から古墳時代初期で、イザナギ・山幸神話などを携えて九州経由で畿内へと進出していったことと関係するのでしょう。 そして、そこに与止日女神社がみえてくることも、以前指摘したように、女王・台与との関係でとらえると、その年代の状況を示しているラインと言えるかもしれません。
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