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投稿者:管理人
ここ数日、吉野ヶ里遺跡や祇園山古墳と九州各地の弥生遺跡や古墳、神籠石を結ぶラインを作成してきましたが、ここでそれらをひとまとめにしたラインを作成してみたのが図1,2となります。 これらのラインはすでに過去におおよそ説明済みなので、その詳細は割愛しますが、今回は特に卑弥呼の墓とも指摘される朝倉市山田の長田大塚古墳の位置を新たに追加しています。 その長田大塚については以前もお知らせしたように津久見島⇔小迫辻原遺跡⇔杷木神籠石⇔長田大塚古墳⇔平塚川添遺跡⇔雷山神籠石への西15度偏角のラインの存在があります。 そしてこのラインと直交するのが、杷木神籠石⇔御所ヶ谷神籠石への東75度偏角のラインと、祇園山古墳⇔伊川・大日寺古墳状地形への東75度偏角のラインとなります。 また長田大塚古墳⇔鎌田原遺跡(古墳状地形)への南北ラインがあり、また長田大塚古墳⇔大穴貴神社(西北の三輪山状丘陵)⇔大野城←志賀島(潮見公園)への西40度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、祇園山古墳⇔平塚川添遺跡(大型建物)⇔御所ケ谷神籠石への東50度偏角のラインとなります。 あと、今回新たに加えたラインとしては平塚川添遺跡⇔赤村古墳状地形⇔石塚山古墳への東55度偏角のライン、元宮神社⇔ダンワラ古墳⇔小迫辻原遺跡⇔鎌田原遺跡⇔伊川・大日寺古墳状地形への西55度偏角のライン、鎌田原遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインがあります。 以上のようにみていくと、まず弥生中・後期の遺跡(三雲小路南遺跡、吉武高木遺跡、岡本遺跡、小迫辻原遺跡、川部・高森遺跡、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)、志賀島(潮見公園)を結ぶラインがあり、それと同時期に、女山、おつぼ山、帯隈山、高良山、雷山、鹿毛山、御所ケ谷、杷木神籠石、また唐沢山城、大野城、八女津媛神社等が造営されていったのでしょう。 それから少し遅れて平塚川添遺跡が造営されたのかもしれません。 その後、それらの遺跡を起点としつつ、平原遺跡、祇園山古墳、那珂八幡古墳、伊川・大日寺古墳状地形、赤村古墳状地形、鎌田原遺跡(古墳状地形)、宇佐高校庭遺跡、ダンワラ古墳(古墳状地形)、元宮神社、長田大塚古墳が造営されていったようにみえます。 その前後で天岩戸神社や山田(西都市)古墳状地形、長田大塚古墳(朝倉市山田)あたりも造営されていったはずです。 最後に、石塚山古墳あたりの前方後円墳や三角縁神獣鏡を出土する古墳が造営されていったことが予想されますが、これら数段階での造営の時代差や測量尺度・方法の違い等が、同地域でも若干ズレた位置に2つセットの遺跡が構築されることとなり、それらがライン面でもきれいに現れています。 そのセット事例は、平原遺跡と三雲小路南遺跡、祇園山古墳と高良山神籠石、川部・高森遺跡と宇佐高校庭遺跡のセットにも見て取れます。 逆にその数段階の測量手段とそれにともなう誤差を把握していくことで、構築年代を予測することも可能になってくるはずですが、その件についてはまた多くのデータを集めて「公式」を作り上げていく作業が必用です。 地道な洗い出し作業と、方位ラインの理解者を増やしていく努力が欠かせませんね。
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