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投稿者:金糸雀
🔹えっちゃん 様 えっちゃん様のご要望に応えられているかどうか確かではありませんが、一応書いてみました。 2回の催しでそのまま終わったのかしら、この「橋の会」は発足のとき話題にはなりましたが、そのあと思っていたより話題はなかったように思います。 📌橋蔵さんの芸能生活40周年を迎えるにあたって、松竹と藤間宗家が動いていたのでは・・・と思うところもあります。 1975年第9回歌舞伎座公演は、大川橋蔵芸能生活40周年記念と銘打っての公演を念頭におき、発足されていたのではないかと・・・推測ですが。 その「橋の会」後援会は、三菱銀行の田貫渉会長を「橋の会」の会長とし、新日本製鉄稲山嘉寛会長、松下電器産業松下幸之助相談役、 三井不動産江戸英雄社長、日本生命保険弘世現社長、住友金属工業日向方斉社長、西武百貨店堤清二社長と 財界の名士の方々の支援で1973年(昭和47年)に発足していたようです。 橋蔵さんを囲んでの集まりで、日本の芸能について語り合っている中から芸能に興味があり、藤間宗家と親しい人たちに声をかけ、 橋蔵さんなら応援していこうというところから生み出されたということのようです。ですから、第一回の「橋の会」で橋蔵さんの舞踊を初めて見た、 知ったという方もいらしたようです。 こうして、1974年昭和49年6月28日・29日に歌舞伎座で大川橋蔵舞踊公演「第一回橋の会」が催されました。 そして、第9回歌舞伎座特別公演は、「橋の会」の支援もあり芸能生活40周年にふさわしい公演になりました。 「将来は舞踊家になる」のが橋蔵さんの幼いときからの夢でした。 6歳のとき舞踊家を夢見て藤間宗家で修行、歌舞伎界、映画界、そしてテレビ界と遍歴を続けていても、橋蔵さんの舞踊へのおもいは強く、 藤間宗家のもとで修行を積み重ねていたのはファンの方ならご存知のことと思います。 ですから、特別公演の舞台でも舞踊には熱が入っていました。 その橋蔵さんにあきらめかけていた舞台へのおもいに火をつけたのが「東映歌舞伎」でした。 舞台公演をするようになり、舞踊を披露する機会が多くなり、舞踊の会を催したいと橋蔵さんは思っていたそうです。 そんな時芸能生活40周年記念を前に「橋の会」をという話がもちあがり、後援会の人たちにも勧められ、 「橋の会」の舞踊公演が実現したということです。 橋蔵さんは「これを機に、踊れる俳優として軌道の一端に連ならせていただき、伝統芸能の伝承に粉骨したい」と言っていました。 そして、1976年昭和51年6月28・29日に「第二回橋の会」が歌舞伎座で催されています。 しかし、この頃から舞台公演の回数が増えたこと、「銭形平次」の撮影、後援会の集い、諸々公私ともに忙しくなっていて、 「橋の会」はこの2回で終わってしまったのでしょう。 舞台での舞踊のお稽古には平次撮影の合間にやっていくわけですし、そのほかに藤間関係の舞踊舞台もありますし、 舞踊公演と銘打った「橋の会」で、藤間宗家を初め舞踊の上手い人たちとご一緒してもらうわけですから、昼夜3作品の舞踊を踊っていくとなると、 いくら忙しくてもないがしろにはできませんものね。 元気でいれば、平次が終ったあとに、舞踊家としての舞踊舞台が作られていったかもしれません。 残念なことですが、結果的には、橋蔵さんの夢「舞踊家」は果たせず消えていきました。
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