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投稿者:管理人
昨晩の讃岐忌部の祖・手置帆負命を祀る諸社を結ぶラインにつづいて、忌部氏の祖とされる天太玉(布刀玉)を祀る拠点を結ぶラインも作成してみたのが図1となります。図2,3は拡大図。 具体的には、まず奈良の天太玉命神社に関しては、天岩戸神社⇔剣神社南部⇔天太玉神社への東25度偏角のラインがあり、また天太玉命神社⇔大口神社(伊勢)への東西ラインがありますが、それに直交する形で、天太玉命神社⇔金礼宮への南北ラインがあり、その金礼宮⇔大口神社への西30度ラインとで直角三角形を構成しています。 さらに図のように、天計神社(岡山)⇔金礼宮⇔洲崎大神(横浜)への東10度偏角のラインが見えますが、その洲崎大神は忌部神社(出雲)と東西ラインで接合しています。 そして剣神社南部⇔大口神社⇔洲崎大神への東15度偏角のラインも確認があり、洲崎大神⇔安房口神社への西75度偏角のラインと直交しています。 あと、忌部神社(出雲)との関わりでいくと、出雲神社(出雲)⇔天計神社西部⇔大麻比古神社への西45度偏角のラインがあり、先日も指摘した忌部神社(出雲)⇔剣神社への西60度偏角のライン、忌部神社(出雲)⇔飯盛山周辺⇔天太玉命神社への西20度偏角のライン等にも留意しておくべきでしょう。 その他、剣神社⇔忌部神社(山川)⇔飯盛山周辺への東60度偏角のラインもあります。 全体的には昨晩の手置帆負命を祀る諸社のラインで抜けていた畿内や関東地域へのラインを埋めていること、天岩戸社や大口神社など共通の拠点を共有している点で、両者が同じ集団であったことが伺えるのですが、祭神が、ある時点で手置帆負命と天太玉命とに分かれていったのかもしれません。 天太玉命については、太占や玉造りと関わらせる見方(http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/futotamanomikoto/ 等参照)もありますが、天岩戸神話での役割は、鏡・勾玉・剣といった三種の神器をとりつけた賢木を捧げ持つ役割を演じており、それは昨晩説明した手置帆負命の名にみえるように、船の十字の帆柱を背負う神とのイメージに近いと言えるでしょう。実際神宮皇后の記紀記載には、船の帆柱に鏡と剣と玉を取り付けて祀るシーンがあり、船の帆柱と賢木とは、神器を取り付けるという意味で共通した題材だったことが伺えます。 その太玉の名については、布刀玉とも記されるように、刀と玉、そして布=和幣(麻や木綿の布)を意味していた可能性があります。そのことは古語拾遺に下記の記載(https://kakunodate-shinmeisha.jp/kojiki3.htmlより引用)があることからもあきらかです。 [古くは佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う。]を堀って上の枝には玉を掛け、中程の枝には鏡を掛け、 下の枝には青和幣・白和幣を掛けて、太玉命に捧げ持たせて讃えさせ・・ つまり、布刀玉とは、賢木や帆にかけた神器・幣帛のことであり、それを捧げもったり背負ったりする役目を忌部の祖先(神)が引き受けていた様子を象徴化したのではないかと考えうるでしょう。 その神器用の賢木を八百(多く)つくり全国へと配布したのが讃岐忌部であり、讃岐でも香川県が竹の産地として知られていることや、讃岐忌部の拠点である忌部神社(豊中)が竹田の字名にあることも、その竹を用いた賢木や帆柱の作成にかかわっていたことと関係しているのかもしれません。 さらに言えば竹取物語が讃岐がモチーフにされていることとも関係するはずで、宮中で祭祀を執り行っていた忌部と竹・麻栽培との兼ね合いが後代まで影響していたのではないでしょうか。 「太玉命に捧げ持たせて讃えさせ」とあるように、三種の神器=アマテラスの分身の賢木を抱え持つ、あるいは背負いながら、神を賛美することを忌部が執り行っていたはずですが、抱え持つと背負うとは若干ニュアンスが異なるかもしれません。 帆を背負うのは、柱自体の役割ですから、帆柱自体を神格化しているとも言えますし、布刀玉自体も神器自体を神格化していますが、その帆も忌部の栽培する麻布等で制作していた可能性もあるでしょうから、ここでも布が関わってきます。 ここで、父の手置帆負命とともに天岩戸神話でセット出てくるのが彦狭知命であり、この神は楯縫神とされることは、下記のとおりです。 新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺) 特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡楯縫郷の条に、布都怒志命之天石楯縫直給レ之、故云二楯縫一[10]とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」[6]と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。https://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中) ここで、彦狭知命は楯づくりと関わることはあきらかですが、またフツヌシ(布都・普都主)とも関わっており、その富都は、阿波・安房忌部の祖の天富命 のそれと関係するでしょうか。 つまり天太玉と天富とは同義であり、フ音、フツ音であったのかもしれません。 もっともその普都神話の聖地の結び付きから竹来阿彌神社と関係があるとされること(https://ja.wikipedia.org/wikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中)参照) も興味深い点で、このフツヌシとみられる神が東征の終わりに楯や武具を脱ぎしてた話と、呉の軍隊や張角の太平道との関係を呉年号銘鏡を出土した古墳を結ぶラインから去年論じたとおりで、その呉との関係にも留意しておくべきでしょう。 そして、昨晩もお見せした九州の横穴墓の入り口に描かれた楯やユキ、弓を射る男性像、手を広げた男性像とが、この忌部氏の神像となんらかの関係性をもってくる可能性がでてきます。 興味深いのは、天孫降臨に出てきた忌部氏等の祖神が日向からの神武東征の際にも再度でてきていることです。 先日お話したように、天岩戸神社と日向の古墳群や陵墓はライン面で接合しており、同じくここ数日述べてきた忌部関連のラインでも天岩戸神社が拠点としてみえてくることがありました。 その神武(彦火火出見尊)の父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊であり、また大彦とともにハニヤスヒコとアタノヒメの反乱を鎮めたのも彦国葺ですが、彦を名の頭につけたりする集団であり、その影響を受けていたのが、先の彦狭知命であったとすると、大彦=神武との私論に従えば、さらに関係がわかりやすくなります。 関連して、紀伊忌部の祖とされる天道根の子にも比古麻命がおり、ヒコアサと読ませれば、ヒコサチとも近い語音になるでしょう。 この紀伊忌部と先の彦狭知神の後裔が紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいるとされることがあり、いずれにせよ、神武東征とそれに随行した紀伊忌部の祖とで共通性をもちます。 そして、彦狭知命と父の手置帆負命ですが、仮に先の呉や日向との影響があるならば、山幸神話のヤマサチのサチとも関係してくるでしょうし、南方航海民の影響を考慮すべきかもしれません。 その他、阿波忌部の祖の天日鷲命についても考察すべきですが、天日鷲翔矢命とも記され、さらに天日別として伊勢国造の祖ともみられることがあります。 天岩戸神話では、弦を奏でており、また木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされますが、翔矢として矢を象徴しており、彦狭知命が楯を象徴することとセット関係にあったのかもしれません。 元の名が伊勢から尾張へと勢力を移動させた天日別だったとすると、これは神武とその子の神沼河耳命(綏靖天皇)、あるいは大彦とその子・武渟川別(たけぬなかわわけ、建沼河別命)との関係を想起させます。 武渟川別は東海を征伐した四道将軍ですから、天日別の東海方面の支配拡大と共通性を持つでしょう。 阿波・安房忌部の祖には、天日鷲とは別に、天富命がいましたが、ここでも日と富がヒ、フ音で近いことに気づきます。 天太玉の孫が天富命とされてますから、祖父が天太玉=手置帆負で、父は彦狭知命となるでしょうか。 阿波から紀伊、そして東海・関東へと勢力を拡げていった集団の系譜のようにもみえます。 その祖先は日向から天岩戸社のある高千穂方面となりそうですね。 これらの系譜を、ここ数日お知らせしてきた忌部の拠点を結ぶ方位ラインが示しているようにも感じますが、年代としては、方位ラインの起点となっていた平塚川添遺跡がまだもちいられていた弥生時代末から古墳時代初期にはじまり、忌部が表にでてくる6世紀前半ごろにかけて、徐々に構築されていったのではないでしょうか。 その間に様々な土俗・外来宗教の影響を受けながら、忌部神道が形成されていき、現在の天皇家の祭儀へとつながっていったはずですが、その原型をもう少しあきらかにしてみたいところですね。特に呉との関わりでいけば、先日お知らせした呉の太平道の影響なども考慮しておくべきなのかもしれませんが、その辺はまた後日にまわしましょう。
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