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投稿者:管理人
先日お知らせしたいくつかの城郭を結んだ方位ラインを整理してまとめてみたのが図1となります。図2,3は拡大図です。いくらか城郭を追加しています。 まず、鹿島神宮を起点としたものは下記のとおりです。 鹿島神宮⇔浜松城⇔宮崎城⇔鶴丸城への東29度偏角のライン、 鹿島神宮⇔江戸城⇔富士山⇔和歌山城への東20度偏角のライン 鹿島神宮⇔京都御所⇔岡山城⇔山口城への東15度偏角のライン 鹿島神宮⇔金ヶ崎城⇔松江城への東5度偏角のライン 鹿島神宮⇔高崎城⇔富山城への西15度偏角のライン 鹿島神宮⇔水戸城⇔鶴ヶ城への西70度偏角のライン 次に鶴ヶ城を起点としたものは前記のものを除くと下記のとおりです。 鶴ヶ城⇔富山城⇔松江城への東20度偏角のライン 鶴ヶ城⇔長野城⇔金ヶ崎城⇔岡山城⇔宇佐神宮周辺への東30度偏角のライン 鶴ヶ城⇔上田城⇔松本城⇔大阪城⇔徳島城⇔鶴丸城への東35度偏角のライン 鶴ヶ城⇔前橋城⇔高崎城⇔浜松城への東56度偏角のライン 続いて松江城に関するラインとしては前記のものを除いて下記のものがあります。 松江城⇔岡山城⇔徳島城への西50度偏角のライン 松江城⇔宇佐神宮⇔熊本城への東55度偏角のライン 松江城⇔山口城⇔佐賀城への東45度偏角のライン 松江城⇔京都御所⇔浜松城への西10度偏角のライン 続いて、東西同緯度ラインとしては下記のものがあります。 上田城⇔前橋城⇔水戸城の東西ライン 岡山城⇔大阪城⇔平城京⇔浜松城⇔高天神城への東西ライン 宇佐神宮⇔高知城への東西ライン 山口城⇔和歌山城への東西ライン その他、下記のラインも確認できます。 上田城⇔舞鶴城⇔富士山への西70度偏角のライン 小倉城⇔熊本城⇔鶴丸城への東80度偏角のライン 佐賀城⇔熊本城⇔宮崎城への西65度偏角のライン 高知城⇔徳島城⇔平城京⇔高崎城への東30度偏角のライン そして、図で示したように、富士山と鹿島神宮を結ぶ20度偏角のラインを基礎として、そのラインに直交するラインで方格を形成しています。 これらのラインの主な起点は上記の鶴ヶ城、鹿島神宮、松江城、富士山あたりとなりますが、平城京など奈良時代ごろから、これらのラインの基礎となる測量がなされはじめていた可能性がありそうです。 これらの城郭を結ぶラインの形成には、以前もお話したように、武家の足利氏およびその支流の斯波氏、今川、細川氏等が三河方面から全国展開するにあたって関わっていた可能性を考えますが、その足利氏は清和源氏の棟梁家であり、清和源氏を遡っていくと、先日お話した征夷大将軍の坂上田村麻呂の娘が産んだ春子の子・葛井親王が武芸にたけており、その息子の棟貞王の娘の清和天皇の更衣が、兵部卿にもなった貞純親王を産み、ここから清和源氏が出てくるわけです。 全体的に古代からの武家の血筋があり、その周囲に城郭などを造る技術者集団もいて、それが武家の棟梁家あたりに受け継がれていったのではないでしょうか。 これらの城郭を構築していた技術者集団がどのような血縁・氏族であったかはまた考えてみたいと思いますが、先の坂上田村麻呂が、176㎝の長身で筋肉質で碧眼・金髪とのことでコーカソイド系の風貌をしていたとの記録をみると、古代から武家として知られていた渡来系の東漢氏の棟梁家の坂上氏において、その血縁集団の中に、北方騎馬民族のコーカソイド系の血筋を引くものがいた可能性を考慮すべきかもしれません。 東漢氏は、渡来系で大陸から乗馬・製鉄技術をもたらすとともに、馬・兵器に長けた軍事氏族として同じく軍事氏族の大伴氏の元にいました。 それらの技術系譜を追うことで、これらの城郭を構築していった集団の起源を明らかにすることができるかもしれず、その一つが今回の測量技術を用いた方位ラインとなるわけです。 その特徴としては、10度偏角での測量、つまり90度を3分割して、さらにそれえを三分割するタイプの測量と言えるでしょう。尺度も調べる必要がありますが、彼らは代々、武神タケミカヅチを祀る鹿島神宮を最大の信仰拠点としていたはずで、その集団を特定することで、明らかにしうることもあるかもしれません。
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