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投稿者:管理人
また昨晩の続きで、邪馬台国奄美大島・徳之島説に関連して、沖縄のグスク等を結ぶラインについて考えているのですが、その折に紹介した徳之島説のサイト記事に、徳之島南部の伊仙にある面縄遺貝塚から、弥生時代中期の人骨が出土していることがありましたが、詳しく調べていくと、箱式石棺も出土しているようです。下記サイトを参照ください。 遺跡は,弥生時代の箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)や古墳時代後半期から古代(貝塚時代後期)に属する貝層が存在する崖下と洞穴に立地する第一貝塚,縄文時代後期の居住域である海岸砂丘上の第二貝塚,奄美地域の古墳時代後半期から古代にかけて分布する兼久(かねく)式土器の標識遺跡である第三貝塚,縄文時代中期から後期にかけての崖下と洞穴及びその前面の斜面部から成る第四貝塚によって構成される。 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/400168 また同じく沖縄本島中部にも箱式石棺を出土する木綿原遺跡があるようです。下記参照。 この墓域内の小範囲の発掘で箱式石棺墓6基と特別な埋葬施設を伴わない人骨3体が発見されている。箱式石棺墓は、いずれもその上部を丸い石灰の岩塊や、板状のサンゴ石灰岩などで覆われていて、この集石群ををとりはずすと箱式石棺墓が姿を現わすのである。  たとえば、第1号箱式石棺墓には、1体ずつの計3体が重なり埋葬されていた。そのうち、中層の1体のみが長く保存されており、伏臥伸展葬を示していた。足もとを2個のシャコガイ、顔面額にはサラバテイラの頂部があてられていた。上層人骨には甕形土器が副葬されており、ほかに巻貝製玉がある。また、石棺外に接して弥生式土器の甕と磨製石斧がある。 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140087 そこで、図1のようにこれらの遺跡を結んだラインを作成してみたのですが、具体的には、木綿原遺跡⇔恩納グスク⇔世論島西部⇔沖永良部島東部⇔面縄貝塚(徳之島)⇔宇宿貝塚・グスク(奄美大島)への東50度偏角のラインが見えてきます。 おそらくは、この50度偏角のラインも弥生時代中期ごろには航海ルートとして用いられていた可能性を感じますが、そこに箱式石棺のみならず、グスクも絡んでくる点から、グスクの石造技術と箱式石棺や支石墓の石造技術の系譜が共通していた可能性が出てきます。そこに九州の神籠石の石造技術も関係していくわけです。 その箱式石棺はまた九州北部の弥生遺跡で多くみられることもあり、邪馬台国九州説の根拠ともなっているのですが、その文化的起源が琉球方面にあった可能性も考慮すべきかもしれません。 もっとも九州方面の集団が琉球方面へと移動した可能性もなくはないですが、ともあれ交易自体が当時から行われていたことは間違いないでしょう。 その交易ルートとして、この東50度偏角の方位ラインが航海指標となっていたのかもしれません。 それで、徳之島や奄美大島を邪馬台国と見なす件ついて、特にこのラインに関していえば、沖縄本島東部の国頭の地名が、同じく沖永良部島の東部にもあり、そこをラインが通過していることからみて、この国頭の地名には、東に関わる意味があった可能性を感じます。 なお昨晩指摘したように狗奴(クヌ)国と国頭(クンズ)を関わりがあったとすると、沖縄本島から沖永良部島だった可能性もありますが、しかしまた沖永良部島中部には邪馬台国と関わると予想した大和城があり、同じく沖縄東部にもアマン城(グスク)があり、昨晩の論理でいけば、アマンディ=ヤマダイとすると、双方の島に狗奴国と邪馬台国の領域があることになるので、領域区分の件で矛盾が生じてきます。 なお徳之島中西部にも大和城があり、その北の奄美大島中部にも大和浜があり東60度偏角のラインで接続することは、先日も掲載した図2のとおりですが、徳之島の場合は北部にも天城があり、これも大和城と関係するはずですが、ただまた東部には徳に関わる地名が多く残ることからみて、別勢力の領域だった可能性もありそうです。 徳之島東部の地名をみていくと、驫木(トドロキ)、花徳、亀徳など、トク・ドクに関わる地名が散見していて、徳之島の文献の初見が度感(ドクカン)人ですから、この島の東南に位置する徳之島町の港あたりを拠点としていた集団が奈良時代に朝貢していた可能性がありそうです。 逆に西部から北部にかけては、大和城・天城に関わる勢力の領域だったのかもしれません。 ともあれ、地名面からいくと、国頭・狗奴と大和・邪馬台が、これらの島々ではっきりと分離できないことがあり、ここをどう考えるかも課題ですね。
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