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投稿者:管理人
先日から発掘が進んでいる吉野ヶ里遺跡の石棺の幅が36センチで、細身の人物のものらしいといのことで、いよいよ面白くなってきましたね。 さて、先日お知らせした吉野ヶ里遺跡と周辺の弥生遺跡を結んだ方位ラインについて、今度は神籠石・山城と吉野ヶ里遺跡とを結ぶ方位ラインを作成してみました。図1のとおりです。 図2は以前お知らせした神籠石を結んだ方位ラインですが、今回はそこに吉野ヶ里遺跡や大穴貴神社(西北の三輪山状丘陵)を加えて再考察してみました。 まず、西南端にあたるのがおつぼ山神籠石についてみていくと、おつぼ山神籠石⇔雷山神籠石⇔三雲小路南遺跡⇔志賀島(潮見公園)への東68度偏角のラインがあります。 同じくおつぼ山神籠石⇔大野城⇔伊川・大日寺古墳状地形⇔鹿毛山神籠石への東45度偏角のラインがあり、またおつぼ山神籠石⇔帯隈山神籠石⇔基イ城南部⇔赤村古墳状地形(今任原)⇔御所ヶ谷神籠石への東35度偏角のラインがあり、このラインと雷山神籠石⇔女山神籠石への西55度偏角のラインとが直交します。 ここで地元の歴史家によって発見された赤村の古墳状地形については、その南部の今任原周辺をこのラインが通過していることがあり、その今任(イマトウ)原がヤマトの関連地名であることに留意しておくべきでしょう。 同じくおつぼ山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北内郭と南内郭の中間点)⇔大穴貴神社(西北の三輪山状地形)への東30度偏角のラインがあり、このラインと志賀島⇔高良山神籠石への西60度偏角のラインとが直交しています。 そして、おつぼ山神籠石⇔女山神籠石北部⇔八女津媛神社への西2度偏角のラインと、赤村古墳状地形⇔杷木神籠石東部⇔八女津媛神社への東88度偏角のラインとが直交しています。 次に志賀島(潮見公園)からのびるラインをみていくと、前述の2ラインの他に、まず志賀島(潮見公園)⇔鹿毛山神籠石⇔御所ヶ谷神籠石への東西ラインがあり、また志賀島(潮見公園)⇔吉野ヶ里遺跡への西80度偏角のラインがあります。 また志賀島(潮見公園)⇔大野城⇔大穴貴神社への西40度偏角のラインがあります。 続いて東北端の唐原山城に関するラインをみていくと、まず唐原山城⇔御所ヶ谷神籠石への西30度偏角のラインがあり、次に唐原山城⇔杷木神籠石⇔女山神籠石への東38度偏角のラインがあり、このラインと伊川・大日寺古墳状地形⇔鎌田原遺跡⇔ダンワラ古墳(古墳状地形)への西58度偏角のラインとが直交しています。 続いて東南端の八女津媛神社についてのラインをみていくと、前述の2ラインの他に、八女津媛神社⇔高良山神籠石⇔雷山神籠石への西35度偏角のラインがあり、このラインと高良山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔鎌田原遺跡⇔赤村古墳状地形への東55度偏角のラインとが直交しています。 その平塚川添遺跡については、平塚川添遺跡⇔大穴貴神社⇔伊川・大日寺古墳状地形への南北ラインがありますが、このラインと大穴貴神社⇔基イ城南部への東西ライン、三雲小路南遺跡⇔大野城⇔川部・高森遺跡への当座ライン、伊川・大日寺古墳状地形⇔赤村古墳状地形への東西ラインとが直交します。 その他、鹿毛山神籠石⇔伊川・大日寺古墳状地形⇔雷山神籠石への東20度偏角のライン、同じく鹿毛山神籠石⇔赤村古墳状地形⇔唐原山城への西20度偏角のラインとが線対称の関係にあります。 加えて以前お知らせした図2のように、御嶽神社(大島)、宇佐高校庭遺跡⇔古城山(大分)、小迫辻原遺跡、伊古遺跡、境目遺跡、幣立神宮等が今回のラインに接合してくるのですが、これらの拠点に関する説明は以前もしたので今回は割愛します。 以上みてきたように、神籠石や山城を結ぶラインも、吉野ヶ里遺跡などの弥生遺跡と関わってくることが判りますが、ただ、先日のラインでは、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓や平原遺跡等を起点としていたのに対し、今回は吉野ケ里遺跡でも北内郭と南内郭の中間地点、平原遺跡東方の三雲小路南遺跡の王墓付近を起点としている点などで相違がみられます。 また、前回みられなかった平塚川添遺跡も今回は見えてくることがあります。 ただ今回の前漢鏡を出土する三雲小路南遺跡と、前回の平原遺跡を起点としたラインと今回のラインとの間に年代差があった可能性を感じます。 その年代決定については、今回みえてきた志賀島(潮見公園)に関連する後漢時代の金印の年代(1世紀中葉~2世紀初頭)には、今回のラインの原型が存在していたはずです。 まず吉野ヶ里遺跡の北内郭と南内郭の中間あたりが重視されて、その後、北墳丘墓が造営されはじめたのではないでしょうか。 その北墳丘墓の年代については、報告書「佐賀県文化財調査報告」第219集によれば弥生時代中期前半とされる中心地点の大型甕棺からはじまって、その周囲に甕棺墓が多くつくられていったようです。銅剣が埋葬される事例が多く、男王の象徴だったことでしょう。王墓だったとすると、平均20年前後と考えて、14代とすると、最後の王まで300年ぐらいでしょうか。弥生時代中期前半から後半の甕棺墓とされてますから、紀元前300ー400年~紀元後50年くらいまでの王墓となるでしょうか。 そうすると、先日の方位ラインではこの北墳丘墓を通過するとしては、女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡⇔平原遺跡へのラインがありましたから、女山神籠石は前漢時代まで遡る可能性がみえてきます。 その荒神谷遺跡へ延びる45度偏角のライン等とも関係しそうですが、その後高地性集落とかかわるであろう前方後円墳状地形や、天岩戸や日向方面に重きを置き、さらに奈良の三輪山方面へと展開する集団が出てきて、その年代が女王・台与ごろだったのかもしれません。 その北墳丘墓の西方ある今回発掘された日吉社付近の石棺墓(円墳?)については、北墳丘墓の首長たちとは異なる年代、異なる墓制を継承した人物と言えそうですが、具体的には吉野ヶ里遺跡に11ある箱式石棺の系統に属する首長でしょう。 年代的には、古墳初期の割竹形木棺の時代よりは古い感じがしますが、北墳丘墓の時代よりは新しいのではないでしょうか。 そのキーとなるのは、やはり先日も指摘した与止日女姫神社⇔吉野ヶ里遺跡(日吉社)⇔月隈山への東西同緯度ラインの存在でしょう。 図3のようになりますが、正確には与止日女神社の北にある実相院の裏山あたりが東西同緯度となります。 ここで、これら3つの拠点には、図のように断面図でみると180m前後の円墳状地形があることに気づきます。 高さは与止日女姫神社(実相院裏山)35m、吉野ヶ里遺跡(日吉社)10m、月隈山35mとなり、共通要素があります。 その月隈山そばには月隈神社がありますが、その祭神は大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根命、比賣神、崇徳天皇で、大宮賣神と比賣神が女神である点があり、これがまた与止日女姫神社がまつる女神、おそらくは女王・台与との関わりを想起させます。 実相院については、寛治3年(1089)、河上神社(与止日女神社)の僧円尋が、その裏山を開き御堂を建てたことに始まると伝えられているので、与止日女神社とは元々つながりが深かったはずです。 なお、与止日女神社⇔吉野ヶ里遺跡(日吉社)ラインの距離は10974mで、1里440mの晋尺の1/4の110m前後を基準にしていた可能性がありそうです。 そういう意味でも、今回の吉野ヶ里遺跡の日吉社の石棺墓については、女王・台与と関係の深い人物の墳墓である可能性がありそうです。
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