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投稿者:管理人
先日お知らせした讃岐忌部の祖・手置帆負命、忌部全体の祖・天太玉命を祀る諸社に関するラインにつづいて、阿波忌部の祖・天日鷲命を祀る諸社(https://genbu.net/saijin/hiwasi.htm 参照)を結ぶ方位ラインを作成したのが図1とまります。図2,3は拡大図です。 こうみると阿波忌部と関わる徳島の大麻比古神社を起点として多くのラインが派生していることがわかりますが、具体的には、まず、天岩戸神社⇔大麻比古神社⇔和志取神社(愛知)⇔谷保八幡宮への東30度偏角のラインがあり、また手置帆負命社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮北部(月讀社付近)⇔下松原神社(白浜町)への東10度偏角のラインが見て取れます。 また大麻比古神社⇔わら天神社西部⇔諸岡比古神社への東60度偏角のラインがあり、その諸岡比古神社⇔忌部神社(出雲)南部⇔大麻山神社への東30度偏角のラインがあります。 そして大麻比古神社⇔天計神社西部⇔忌部神社(出雲)への西45度偏角のラインについては先日も指摘したとおりですが、岡山の天計神社については、大麻山神社⇔天計神社⇔伊勢内宮への西5度偏角のラインがあります。 その大麻山神社⇔弓削神社(白紙神社)⇔谷保天満宮への東10度偏角ラインは、諸岡比古神社⇔和志取神社への西80度偏角のラインと直交しています。 なお、伊勢内宮⇔諸岡比古神社は南北ラインとなり、また諸岡比古神社⇔和志取神社への西80度偏角のラインと、大麻山神社⇔谷保天満宮への東10度偏角のラインとが直交します。このラインは先の手置帆負社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮⇔下松原神社へのラインと平行関係にありますが、その下松原神社⇔服部神社への西80度偏角のラインと直交しています。 あと、伊勢内宮に関するラインとしては、伊勢内宮⇔和志取神社⇔服部神社への東60度偏角のラインがあり、また伊勢内宮⇔富士山⇔谷保天満宮への東30度偏角のラインがあります。 その他、手置帆負神社⇔服部神社への東30度偏角のラインと、服部神社⇔鷲子山上神社への西60度偏角のラインとが直交しており、その鷲子山上神社⇔弓削神社(白紙神社)⇔伊勢内宮への東40度偏角のラインもあり、下松原神社⇔和志取神社⇔わら天神宮への西5度偏角のラインがあります。 さらに、図3のように、四国方面では、(鷲子山上神社⇔)大麻山神社⇔忌部神社(山川)⇔高越神社(⇔天岩戸神社)への東30度偏角のラインがあり、また(服部神社)⇔大麻比古神社⇔大剣神社への40度偏角のライン、大剣神社⇔忌部神社(御所神社)西部⇔天計神社への西80度偏角のラインがあり、このラインと先の手置帆負命神社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮への東10度偏角のラインが直交しています。 このようにみていくと、天日鷲命の拠点は大麻比古神社を起点として、手置帆負命を祀った天計神社と手置帆負命神社、忌部神社(出雲)無視し、島根の大麻山神社をのぞくと、すべて阿波から東方に展開していたことがわかります。 特に、愛知の和志取神社、伊勢内宮が中部・東海地域の主要拠点であり、関東方面へと展開していったことが伺えますが、先日お話したように、この天日鷲が天日別であったとして、天日別がオオヒコの子のタケヌナカワ別、あるいは神武の子のタケヌマカワ別に象徴される東海地方へと進出した集団であれば、なおさら今回のライン図がそれらの地域に偏っていることと適合するでしょう。 天日別は伊勢から東海へと移動したことになっておりますが、また関東方面では天富命が阿波から向かったことになっており、これがまた先日お知らせしたフツヌシと関係する可能性があります。 そのことは、房総半島南部の拠点、下松原神社において、天太玉命の後裔である天富命が、天日鷲命の孫・由布津主命を率いて、阿波から当地(安房)開拓のため上陸し、その由布津主命が、祖神である天日鷲命を祀った神社とされること(詳細はこちらの安房忌部に関する資料説明サイトを参照 https://genbu.net/data/awa/simotate_title.htm)からもあきらかです。 つまり天富(フ)命は、由布津主(ユフツヌシ)命と同一に近い存在で、由布津主命は香取神宮や竹来阿彌神社の主神のフツヌシとなるはずです。 ここで天太玉(布刀玉)命のフトの発音も、そのユフツにかかっていた可能性もありますが、フト=フツ=ユフツとすると、ユ音が元々あったものの、それが聞き取りにくく省略されたことも考えうるでしょう。 特に忌部氏が率いていた秦氏の祖・弓月(ユツ)君や、秦氏が祀ったウズ・マサ神、また秦氏系譜にみえるユヅウ・フトウといったユヅ・フツ・フト音の存在との関係性も考慮しておくべきでしょう。 関連して、上記の安房忌部系の文書では、天日鷲命の子である大麻比古命は亦の名を津咋見命、津杭耳命との記載に始まり、次に天白羽鳥命。亦の名を長白羽命。次に天羽雷雄命。亦の名を武羽槌命。この三柱は言苫比賣命が生んだ子としていますが、ここでまず注目すべきは、大麻比古命の別名を津咋見命、津杭耳命としていることで、ツクイミ(ミ)となることでしょう。 特にアマテラス神話のツキヨミ(月讀命)の音にも似ますが、先の手置帆負命社⇔大麻比古神社⇔伊勢内宮北部(月讀社付近)⇔下松原神社(白浜町)ライン上にみえてくる月讀社と関わってくるかもしれません。 なおツキヨミと忌部や大麻比古との接点については、書紀第五書でツキヨミ(古事記ではスサノオ)が保食神である(オオゲツヒメ)を殺したことにより、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれたことと関係するでしょう。 ここで蚕や粟(アワ)が見えてきますが、阿波忌部については、伊勢から東海・関東へと東方展開した痕跡があり、それらの地域に良質な麻をもたらしたことが記されており、その穀物神との関係も考慮すべきかもしれません。 もうひとつ上記の文章で注目すべきなのが、そのツクイミの息子の天白羽鳥命(長白羽命)でしょう。 これはヤマトタケルの象徴である白鳥と関わるはずです。ヤマトタケルは東海・関東遠征に際して、伊勢神宮で草薙剣を受け取り、先日のラインにもみえてきた熱田神宮にその剣が最終的に収まることになってますが、この倭武の武は、先の大彦の息子の武渟川(タケヌナカワ)別の武と同じであり、そのことは倭武の父が景行天皇(大帯彦)であることからもあきらかです。 すなわち、その大帯彦(景行天皇)=大彦であり、その息子の倭武=武渟川(タケヌナカワ)別となるわけです。景行天皇は九州から畿内にかけての征伐を行い、その息子は東海から関東へと支配を広げたのでしょう。その話がもとになって、神武の東征、その子・(建沼河)タケヌマカワ別(綏靖)の継承となったはずです。 結局、この四道将軍や景行・倭武親子の征伐伝承については、忌部では、 手置帆負(テオキホオイ) と彦佐知(ヒコサチ)親子の話と対応しますが、また先日の分析では、父の手置帆負命とともに天岩戸神話でセット出てくるのが彦狭知命であり、この神は楯縫神とされることがありました。下記のとおりです。 新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺) 特選神名帳は「今按、楯縫の社号によるときは、彦狭知命を祭れるが如くなれども、出雲国風土記意宇郡楯縫郷の条に、布都怒志命之天石楯縫直給レ之、故云二楯縫一とあるに、社説を合せて、經津主命なることしるへし」と、「楯縫」の称が必ずしも「楯縫神(彦狭知命)」に由来するわけではないと記している。https://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中) ここで、彦狭知命は楯造りとなり、またフツヌシ(布都・普都主)とも関わっており、その富都は、阿波・安房忌部の祖の天富命 のそれと関係するわけです。 そして、常陸とともに、出雲に同様な伝承や地名が見えてくる原因の一つしては、この忌部の展開で、玉作を主とした今回のライン上にも拠点としてみえてくる出雲忌部の展開が関係してくるのではないでしょうか。 同じ伝承が全国各地へと展開していくなかで、その地域に根差した形へと変化していき、最後にまた宮中へと取り込まれていったのでしょう。 そういう意味では、フトダマ(布刀玉)神の玉の部分は出雲忌部の玉に関係していた可能性も感じます。 布と刀にかんするフト神と、玉に関する神とが合わさったようなイメージです。 あと、今回のライン上に山梨の弓削神社の境内の白紙神社がみえており、この社についての説明は下記のとおりです。 祭神:瓊瓊杵命 木花開耶姫命 彦火火出見尊(山幸彦=神武の祖父) 日本武尊 大伴武日連命 社伝によると、日本武尊が東夷平定の帰路、大伴武日命が当地に留まったが、その館跡が当社であるという。大伴武日命は、日本武尊より「靱部」を賜ったことから靱部社=弓削社となったという。『日本後記』延暦二十四年(805)十二月二十日の条に「甲斐国巨摩郡弓削社預二官社一。以レ有二霊験一也。」と記載されている。 (https://genbu.net/data/kai/yuge_title.htm 参照) ここで、先のヤマトタケルが見えてくることにも留意すべきですが、また先日、手置帆負命の帆を背負う神像のモデルとしてあげた九州横穴墓の壁画や岩戸山古墳などの石人像にみえる大きく手を開き弓で的を射る人物や靱を背負う人物像の件を想起させます。 その際に、この弓削負(ユゲオイ)と、手置帆負(テオキホオイ)との関連性を指摘しましたが、上記の横穴墓や石人については軍事氏族の大伴氏の九州の拠点にあり、その大伴氏の下に後代、渡来系の東・新漢氏等が組み込まれていくこととなります。 その祭神は日向系の集団と、東海征伐をした集団とが混合しているようにみえますが、今回のラインを見れば、天岩戸方面から四国阿波をへて、伊勢・東海・関東へと至るので、これらの祭神とつながることも理解しうるでしょう。 大伴・物部の軍事(武具制作)、忌部・中臣の祭祀(神殿・器具制作)といった職掌分担が初期の時点から存在し、これが天孫降臨・天岩戸神話につながっていると考えるべきでしょう。 そして今回のラインに双方の集団の痕跡がみえてくることは、双方が一緒になって東方展開していったと考えるべきかもしれません。 あと、以前分析した出雲大社、諏訪大社、鹿島神宮、伊勢神宮、天岩戸等を結ぶ方位ラインでは、鹿島神宮のタケミカヅチの影響がありましたが、今回は香取神宮のフツヌシが見えてくる点が、そのセット神を考える上で重要になってきそうです。 その件についてもまた考察をすすめていきましょう。
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