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投稿者:管理人
いよいよ今日で吉野ヶ里の石棺の発掘も終わるようで、何が出てくるのか気になるところですね。 先の8日にその吉野ケ里遺跡の日吉社周辺域を通過するラインについて考察しましたが、その続きで今回はそのラインにも見えていた祇園山古墳と周辺の諸遺跡を結ぶ方位ラインを作成してみました。 今回は特に大穴貴神社や那珂八幡古墳等の新拠点を考慮しながら作成してみたのが図1となります。図2はその拡大図です。 まず、以前もお知らせした平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石⇔山田古墳状地形(西都市)への西60度偏角のラインがあり、また平原遺跡⇔岡本遺跡北部⇔川部・高森遺跡への東西ライン、そして川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田古墳状地形(西都市)への南北ラインがあります。 次に、平原遺跡⇔祇園山古墳⇔天岩戸神社への西40度偏角のラインがありますが、祇園山周辺の甕棺墓等は平原遺跡のそれとも共通性があり、また天岩戸神社との関係はアマテラス女神を想起させるものです。 その祇園山古墳に関するラインとしては、女山神籠石⇔祇園山古墳⇔伊川・大日寺古墳状地形への東75度偏角のラインがあり、また祇園山古墳⇔ダンワラ古墳への東西ラインがあります。 また祇園山古墳⇔那珂八幡古墳への西70度偏角のラインは、雷山神籠石⇔那珂八幡古墳⇔伊川・大日寺古墳状地形への東20度偏角のラインと直交しています。 その那珂八幡古墳については、神社境内から弥生時代の銅戈鋳型が出土しており、この地で精銅精錬がなされていたことを示しますが、また箸墓と同じ規格の纒向型前方後円墳でもあり、直葬の割竹形木棺で、椿井大塚山古墳や富雄丸山古墳から出土した三角縁神獣鏡と同笵鏡を出土、布留0式土器の時代とのことからみて、物部氏の祖・ニギハヤヒが東征して布留遺跡を構築した年代と同時期の造営だった可能性が高いでしょう。その富雄丸山古墳も物部氏の拠点ですから、物部氏との関わりがあるラインとなりそうです。 そして図のように、那珂八幡古墳⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)への東80度偏角のライン、そして祇園山古墳⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)への西10度偏角のラインとが直交して、先の那珂八幡古墳⇔祇園山古墳への西70度偏角のラインとで直角三角形を構成していることがわかります。 なお、図のように祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと、平原遺跡⇔祇園山古墳⇔天岩戸神社への西40度偏角のラインとが直交しており、それと平行して、女山神籠石⇔英彦山(北部)への東40度偏角のラインがみられます。 また、大穴貴神社に関しては、祇園山古墳⇔大穴貴神社への東60度偏角のラインがあり、このラインと大穴貴神社⇔ダンワラ古墳への西30度偏角のラインとが直交します。 なお平原遺跡⇔大穴貴神社への西15度偏角のラインと、前述した伊川・大日寺古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインとが直交しています。 あと大穴貴神社⇔英彦山北部⇔川部・高森遺跡への東10度偏角のラインがあり、その英彦山⇔山田(日田市)⇔小迫辻原遺跡への南北ラインが見て取れますが、その山田(日田市)⇔那珂八幡古墳への西30度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。 そして女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインと、先の平原遺跡⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石⇔山田古墳状地形(西都市)への西60度偏角のラインが直交しています。 その他、ダンワラ古墳⇔天岩戸神社への西60度偏角のラインも意図的な位置付けであり、また伊川・大日寺古墳状地形⇔大穴貴神社⇔平塚川添遺跡への南北ラインは、平原遺跡⇔岡本遺跡北部⇔川部・高森遺跡への東西ラインと直交していることも以前お知らせしたとおりです。 以上みていくと祇園山古墳がこの時期の北九州における最重要な拠点として位置づけられていたことはあきらかで、その被葬者もこれらの拠点を支配した首長であったろうことは想像に難くないでしょう。 仮に図の吉野ケ里遺跡の北墳丘墓付近の位置を日吉社の今回発掘された石棺の位置とみなしうるならば、図のように祇園山古墳の主とも接点をもっていたはずで、那珂八幡古墳とに何らかの関わりが見えてくるかもしれません。 今回の日吉社の箱式石棺の大きさ(35㎝×180㎝)については、祇園山古墳の箱式石棺の大きさ(90㎝×200㎝)に比べて、小ぶりとなりますが、墳丘の高さが後者が6mであり、前者もそれに近いことに共通性がありそうです。 大きさとしては前者が180m前後の円形丘陵上に載っていることに比して、後者は楕円形地形の上に東西約23.7メートル、南北約22.9メートルの方墳状地形であるとされます。 あと、先の那珂八幡古墳は全長約75m(後円部径48m)、高さ6.5mとなり、その高さには共通性がありそうです。 祇園山古墳や日吉社の箱式石棺墓の時代より、那珂八幡古墳の割竹形木棺や纒向型前方後円墳の時代のほうが新しいはずですが、那珂八幡古墳が特に祇園山古墳を意識していたであろうことを考慮すると、その直前期に祇園山古墳が造営されていたことも判ります。 またこの祇園山古墳の主は、平塚川添遺跡と伊都平原遺跡とで直角三角形を構成する位置に造営したことがあり、邪馬台国でも最重要拠点を支配していたはずです。 あと、祇園山古墳と大穴貴神社(北部の三輪山状丘陵)とダンワラ古墳(巨大前方後円墳状地形)とで直角三角形を構成している点についても考える必要がありそうですが、そのダンワラ古墳については、魏の曹操墓のものと同類の鉄鏡を出土していることがあります。 ただこのダンワラ古墳は、以前お知らせしたように、全国のキ鳳鏡の出土地を結ぶラインと接合することもあり、後漢時代の鏡を後代の4世紀末に渡来した東漢氏(後漢帝を祖とする集団)が中国からこの地にもたらしたことを予想したことがありますから、必ずしも卑弥呼の鏡としてみなすことは難しい感じがします。 ただそのダンワラ古墳の上には、巨大な前方後円墳状地形(箸墓規格か)があり、またそこに伊勢社が見られることからみて、アマテラス信仰との点で、図のように天岩戸神社からこのダンワラ古墳が西60度偏角のラインとで接合していること関係してきそうです。 また祇園山古墳の主もやはり天岩戸神社から平原遺跡へのライン上に位置付けられていること、平原鏡と伊勢の八咫鏡との大きさでの共通性や、平原1号墳のその遺物が玉類等女性の被葬者を想起させることなどもあり、そのアマテラス女神との関係を祇園山古墳の主も持っていた可能性があるでしょう。 その祇園山古墳の主と関係するであろう今回の吉野ケ里遺跡の石棺墓の発掘によって、その関係性が明らかにされてくると面白いのですが、いかなる結果が出てくるかが楽しみですね。
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