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初代帝国劇場といえば
金糸雀 投稿日:2023年03月01日 09:31 No.58
3月はとても暖かな日差しのもとから始まりました。春を感じます。
施設の一階に飾ってある立派な🎎雛段飾りが3日が来るのを首を長くして待っています。裏庭の梅の花が満開そのうち桜も咲く、
見に行けるとうれしいのですがそこが歯がゆいところです。

3月1日と言えば初代帝国劇場が1911年(明治44年)の今日開館した日でもあります。
現在の2代目帝国劇場が入る「帝劇ビル」は老朽化が進んでいるため、隣接する「国際ビル」とともに建て替えられることに
なり、2025年をめどに一時休館することになるようです。
開館したときは海外から音楽家を招いてオペラ・バレエを上演したほか、六代目尾上梅幸・七代目松本幸四郎・
七代目澤村宗十郎らが専属俳優となり歌舞伎やシェイクスピア劇などを上演していたそうです。
関東大震災の影響を受け改修した後には、松竹の経営になると洋画封切館として中心をなす劇場になり、
暫くすると東宝が運営に合併し、松竹の賃借期限が1940年(昭和15年)に切れると東宝の経営となり元の演劇主体の興行形態に
なりましたが、戦争のため内閣情報部が使うようになり、戦争中地下食堂は雑炊食堂として一般に提供されたということです。

そして、第二次世界大戦が終結した後の最初の公演というのは。1945年(昭和20年)10月の尾上菊五郎の公演でした。

しかし10年後には巨大映画スクリーン・シネラマの出現で洋画ロードショーの映画館になり1964年(昭和39年)
「アラビアのロレンス」の上映を最後に解体されたということです。
以上、初代帝国劇場の歩んできた背景を簡単にまとめてみました。

📌戦争終結の帝国劇場最初の尾上菊五郎の公演には、橋蔵さんも出ていました。
1945年(昭和20年)10月11月 「新歌舞伎十八番の内 鏡獅子」で橋蔵さんの役は〈胡蝶〉でした。
その後も
1946年(昭和21年)3月4月 「大寺学校」役名は〈中学生仁科〉でした。
1947年(昭和22年)1月 「京鹿子娘道成寺」役名は〈所化勧念坊〉でした。
1949年(昭和24年)9月 「伊勢音頭恋寝刃」役名は〈油屋お岸〉でした。

ご縁があった帝国劇場、現在の2代目劇場の舞台にも立ってほしかったなあ。蜷川幸雄さんの演出でのものも見たかった
と思います・・・実現していたら・・・どんな橋蔵さんが見られたでしょう・・・
ファンの期待を裏切らない、舞台の橋蔵さんは年を経ても素敵でしたから・・・それはもう最高だったでしょう。


まゆ 投稿日:2023年03月01日 16:26 No.63
帝国劇場も開発に乗じて変わるのですか。母は日本では帝国劇場に招いて舞台上演された
「オリバー」を友人達と見に行ったそうです。外国で有名だったものが日本に来たという
ので、大感激だったと言っています。
第二次世界大戦後芝居の興行ではやはり六代目が一番だったのですね。
橋蔵さんも歌舞伎座や新橋演舞場などでお芝居をやっていますが、帝国劇場にはまた
違った思い出があったでしょう。六代目と立った帝劇の舞台に、大川橋蔵主演の出し物で
再度舞台に立つことの考えはどうだったのでしょうね。
歌舞伎時代の橋蔵さんが久しぶりに浮かびました。

「風の武士」はちょっと理解できないところがどうしてもある作品になっています。
司馬遼太郎原作を加藤泰監督独特の演出法で見せていくので、どこかついて行けないところが悔しいです。どちらかというと好きではない映画だからかもしれません。