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経済で読み解く明治維新 上念 司 投稿日: 2019年07月02日 19:48:07 No.22 【返信】



「明治維新」とはいったい何だったのか?
“経済の掟"で「維新成功」の謎を解く!
江戸時代の日本は“世界最強"の「資本主義」の国だった! !
世界史の奇跡"と言われる、「明治維新」とは何か?
なぜ「江戸幕府」は“倒産"したのか?
江戸幕府のマクロ経済政策から、百姓のビジネスモデルまで、
維新前史を“経済的視点"で描く―。
「経済」がわかれば、「日本」がわかる!
日本近現代最大の謎に挑む、著者渾身の書下ろし! !
■ 歴史教科書には矛盾が満載!
■ “経済の掟"がわかる人、わからない人
■ 維新の成功は「江戸時代の蓄積」があったから
■ 信長、秀吉の遺産を相続した家康
■ 荻原重秀が理解していた「貨幣の本質」とは?
■ 耳障りの良い思想「貴穀賤金」
■ 坂本龍馬もパクった「海商」のビジネスモデル
■ 新通貨「円」の登場! 他

【目次より】
第一部 飛躍的に発展していた「江戸時代の経済」

第1章「貧農史観」を捨てよ!
I 絶対に笑ってはいけない、歴史教科書24時
II “真実の江戸時代"を検証する

第2章 なぜ江戸幕府はいつも「財政難」なのか?
I 江戸幕府の懐具合
II「成長重視派」vs.「財政規律派」
III ぬるま湯を許さない国際情勢

第二部 資本主義を実践していた「大名」と「百姓」

第3章「大名」と「百姓」のビジネス
I 江戸幕府のユルい政治力
II「平和」が経済成長の大前提
III 江戸時代の実業家

第4章 借金苦に喘ぐ大名。アイデアに溢れる商人
I「流通」の発達
II 借金まみれの幕府と大名

第三部 なぜ江戸幕府は“倒産"したのか?

第5章「民間の活力」を生かせなかった江戸幕府
I 限界を迎えた「石高制」
II 薩摩と長州の藩政改革

第6章「明治維新」に必要だった、薩摩藩の“リアリズム"と長州藩の“狂気"
I「薩長同盟」の経済的背景
II「貨幣制度」の混乱と「円」の誕生




超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか ワイズマン・リチャード 投稿日: 2019年06月23日 21:25:04 No.21 【返信】

あなたにも幽霊が見える!ミステリーはあなたの脳内にひそんでいる。最先端科学実験が明かすヒトの認知システムの盲点。




ワイズマン,リチャード
1966年生まれ。英国ハートフォードシャー大学教授(心理学)。プロマジシャンとして活動後、ロンドン大学を卒業。エディンバラ大学にて博士号取得(心理学)。いわゆる超常体験、超自然現象の謎を科学的手法を用いて解明する研究によって国際的に知られている。2002年、社会科学分野における一般読者向けのすぐれた業績を顕彰するジョセフ・リスター賞(英国科学協会)を受賞。疑似科学に鋭い批判を寄せるいっぽう、一般読者向けの科学書執筆やテレビ番組制作に携わるなど、幅広い啓蒙活動をおこなっている




チーズはどこへ消えた? スペンサー・ジョンソン 投稿日: 2019年05月16日 16:45:04 No.20 【返信】




この小さな本が世界のビジネスマンを変えてゆく!
迷路のなかに住む、2匹のネズミと2人の小人。彼らは迷路をさまよった末、チーズを発見する。チーズは、ただの食べ物ではなく、人生に おいて私たちが追い求めるもののシンボルである。

ところがある日、そのチーズが消えた! ネズミたちは、本能のままにすぐさま新しいチーズを探しに飛び出していく。ところが小人たちは 、チーズが戻って来るかも知れないと無駄な期待をかけ、現状分析にうつつを抜かすばかり。しかし、やがて一人が新しいチーズを探しに 旅立つ決心を…。
IBM、アップル・コンピュータ、メルセデス・ベンツ等、トップ企業が次々と社員教育に採用。単純なストーリーに託して、状況の変化にい かに対応すべきかを説き、各国でベストセラーとなった注目の書。905円でアナタの人生は確実に変わる!




銀河鉄道の夜 宮沢賢治 投稿日: 2019年04月23日 18:17:12 No.19 【返信】

父親のことで同級生たちにからかわれている孤独な少年ジョバンニは、ある夜、ひとりで星空を眺めていた。

すると「銀河ステーション」というアナウンスとともにまぶしい光に包まれ、気が付くとカムパネルラとともに銀河鉄道に乗り込んでいた。

2人は銀河鉄道に乗って、星を巡る旅を楽しみ、そこでさまざまな考えや生き方をする人々に出会う。

旅の終わり、2人は旅の途中で聞いた「本当の幸い」のために一緒に歩んでいこうと誓うが、カムパネルラは意味深な台詞を残して、いつの間にか姿を消してしまう。

カムパネルラが残したのは、「僕のお母さんは、僕を許してくれるだろうか。わからないけれど、誰だって本当によいことをしたら幸せなんだ。だから、きっとお母さんは僕を許してくれると思う。」という意味の言葉。

夢から覚め、ひとり草むらで目を覚ましたジョバンニが町へ向かうと、カムパネルラが川に落ちたザネリを助けようとして溺れてしまい、行方不明になったことを知る。

そしてその瞬間、カムパネルラの言葉が何を意味していたのかを悟る。自分は死んでしまったけれど、友を救うという良いことをした。だからきっと、僕が死んでしまってもお母さんは許してくれるだろう…。

カムパネルラの父親は、ジョバンニに、ジョバンニの父がもうすぐ帰ってくるという手紙が来たことを告げる。ジョバンニが、父からの知らせを持って母の元へ帰るところで物語は終わる。

物語の解釈
孤独で世界に居場所のない少年ジョバンニが、銀河鉄道の旅を通して、みんなの幸せのために尽くすことが生きる意味であると悟るまでを書いた、哲学的なストーリーです。

一緒に旅をするカムパネルラは、自らの命を犠牲にして友人を救いました。この姿が、ジョバンニに生きる意味を気付かせるきっかけになります。

さらに、ジョバンニにとって大きな孤独の原因であった父親が帰ってくるという知らせを受け、物語序盤では世の中に居場所のなかったジョバンニが、物語の最後では、生きる意味と自分の居場所を取り戻して、自分の家へと帰る姿が描かれています。

「銀河鉄道の夜」がインターネットで全文無料で読める!
「銀河鉄道の夜は、ページ数もそう多くなく、数時間もあれば読みきれるボリュームです。あらすじを読んで興味を持った人は、ぜひ銀河鉄道の夜の原作も読んでみてください。

宮沢賢治独特の、幻想的で美しい言葉使いが堪能できます。






松本清張 投稿日: 2019年02月19日 23:39:18 No.18 【返信】

あらすじ

劇団員の井野良吉は、石井監督の新作映画「春雪」に出演するよう指名を受けた。映画俳優としての成功を望む井野は昂奮したが、同時にある破滅的な不安があった。映画は成功し、井野は賞賛を受けるが、幸福感と共に、絶望感も増大してゆく。9年前の石岡貞三郎と山田ミヤ子の記憶が甦る……。






寝ぼけ 署長 山本 周五郎 投稿日: 2019年01月10日 22:15:34 No.17 【返信】

 
署でも官舎でもぐうぐう寝てばかりの“寝ぼけ署長”こと五道三省が人情味あふれる方法で難事件を解決する。





教誨師 堀川惠子 投稿日: 2018年11月11日 07:31:10 No.14 【返信】

 


半世紀にわたり、死刑囚と対話を重ね、死刑執行に立ち会い続けた教誨師・渡邉普相。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束のもと、初めて語られた死刑の現場とは? 死刑制度が持つ矛盾と苦しみを一身に背負って生きた僧侶の人生を通して、死刑の内実を描いた問題作! 第1回城山三郎賞受賞。


Re: 教誨師 堀川惠子 投稿日: 2018年11月11日 08:06:58 No.15
白木雄一(仮名)

真面目な縫製職人の評価を着実に得ていた白木雄一(逮捕時28才)売春婦の連続殺人、3人目に重傷を負わせた所で逮捕。殺し方が鋭いナイフでひどく切り付けられ凄惨な手口が話題に。

3才で両親に捨てられ、養父に放置されつつ旅館を転々。どこでも邪魔者扱いされて育った不幸な生い立ちと精神の深い傷。

大久保清の連続殺人事件が話題になった際、珍しく語りだす白木。


「マスコミは最近、大久保清でもちきりですがね、あの事件を正しく伝えている者は一人もおりません。私には分かるんです。大久保清は私と同じ種類の人間です。時々、強姦もしているけど、本当の目的は強姦なんかじゃありません。いわば強姦は前戯です。本当の目的は、殺しなんです。女を殺すのが、気持ちよくてたまらないんですよ」


幼時の育ち方で人間はそこまで行くとショックなくだり。渡邊を驚かせつつ、判明していない3人の余罪を口にする白木。被害者はいずれも女性、白木の不幸の重さは形容できないレベル。子供の頃の猫殺しも告白、人間にとって幼時の愛情がいかに一生を左右する重大事か考えさせられる。


白木は死刑判決にも徹底してドライで、感情の揺れがなかったらしい。その心が哀れ。小さい時に、心が死んだ(殺された)のだとしか…
Re: 教誨師 堀川惠子 投稿日: 2018年11月11日 08:37:43 No.16
高橋正彦連続殺人事件

【事件概要】

 1967年から翌68年にかけ、都内の飲み屋の女性3人を殺傷した高橋正彦。彼は10代の頃にも幼女を殺害していたという前科があり、さらに死刑判決を受けた後に獄中で2人の少女殺害を告白する。


事件1

 1968年1月1日夜、東京・渋谷の連れ込み旅館で、女性が死んでいるのが発見された。通報を受けて、警視庁捜査一課の刑事たちが現場に急行したが、その中には平塚八兵衛氏もいて、平塚刑事は現場を見るなり「うひゃあ、ひでえ」と漏らしたという。

 女性の死因は出血多量。実に97か所もの刺し傷があった。ミゾオチ部分からへその真下まで縦に切り裂き、乳房もえぐられているという無残な状態だった。

 この被害者はA子さん(34歳)と判明した。早々にわかったのは、この女性が過去に二度、売春容疑で逮捕されていたからである。

 A子さんは渋谷の「のんべえ横丁」にある小料理屋で働いていた。この勤務先から現場の旅館までは200mも離れていない。
 この日、小料理屋は元旦であるが夕方の5時に開店した。この日の客には、おとなしそうな25、6歳の、黒っぽいジャンパーを着た工員か職人風の男がいた。店主によると、顔はあまり特徴がなく、別段様子も変わったところがない男だった。男が6500円の代金を払って店を出ると、A子さんは「ちょっとそこまで送ってくるから」と男の後を追い、そのまま店には戻らなかった。

 現場の旅館の従業員によると、被害者が男と寄り添ってやって来たのが午後9時ごろのことだったという。男は「3時間ほど休ませてくれ」と言った。午後11時15分、男は一人で階下に降りてきて、「連れの女は30分くらいあとで帰る」と言って千円札を出した。男はおつりを受け取らずに宿を出て行き、その30分後に様子を見に行った従業員が遺体を発見するのである。通報は午後11時54分。ちなみにA子さんの死亡推定時刻は午後10時頃である。

 飲み屋でも旅館でも、この男は初めて見る顔だったという。
 この事件の捜査は難航した。捜査本部は4月に解散となっている。

*平塚八兵衛  
“オトシの八兵衛”と呼ばれた名刑事。昭和14年2月警視庁巡査となり、50年3月警視で退官するまでの間、警視総監賞97回、警察長官賞、検事総長賞、検事正賞など、難事件解決での表彰は100回以上の記録保持者。


事件2

 1968年の7月、新宿区三光町の飲み屋で事件は起こった。
 この店は2階で女将B子さん(当時48歳)と泊まることもできる店だった。B子さんが「上にあがるかえね」とたずねると、客の若い男はうなずき、2人は2階の一室に入っていった。
 2人が室内で関係を持っていると、男は突然B子さんの腹をナイフで刺した。B子さんの「痛いじゃないの!」という声にびっくりした男は裸足のまま逃げ出したが、声を聞きつけた隣の店のママとバーテンが男を追いかけた。さらに通りかかった学生も加勢し、男は3人に取り押さえられた。刺されたB子さんは全治三週間の怪我を負った。

 男は上野の洋服店に住み込みで働いていた仕立て職人・高橋正彦(当時28歳)。元旦に起こった渋谷の女性殺し、さらに前年の夏にあった浅草の女性殺しをも自供、さらに10代の頃には7歳の少女を殺した前科もあった。


事件3

(浅草事件)
 1967年8月2日、高橋は浅草寺の境内の方向へと歩いていた。そこにはおでん屋があった。ここの女将C子さん(41歳)とは顔なじみであった。すでに先客がいたが、構わず酒を飲んだ。先客が店を出てC子と2人っきりになると、高橋は話をきりだした。以前から女の世話をしてくれるようにC子さんに頼んでいた件である。しかし良い返事は聞けず、高橋が「じゃあ、あんたでもいいよ」と言うと、C子さんはそれに対して「いいけどさ、今夜はうまくないよ」と答えた。高橋はこの言葉に「馬鹿にされた」と感じ、持っていたナイフでC子さんに襲いかかり、殺害したのである。ちなみに常にナイフを持ち歩いているのは「護身用」だったという。






 高橋正彦は1940(昭和15年)、北海道の豊原市(樺太)で生まれている。生後3ヶ月で市内の旅館の養子となった。終戦後、養父母は別居し、高橋は優しかった養母とはなればなれになり、以後厳格な養父に育てられることとなった。

 1947年に函館に引き揚げ、続いて稚内で暮らすこととなった。養父はヤミ商売をはじめて、家を空けることが多くなり、高橋少年は学校から帰ると孤独に過ごしていた。この間、動物をいじめたり、殺したりしていたという。

 1949年頃から養父は旅館の番頭となり、父子は住み込みで働くため稚内から旭川、留萌を転々とした。これは高橋にとって屈辱の日々だったという。学校は嫌いになり、親に対しても不信感が高まっていた。
 
 高橋が自分を養子と知るのは17歳の時のことである。高橋は自分の性格の問題点をよくわかっており、この性格形成のうえで、養母が家を出て行ったことが大きいと考えていた。養母がもっと自分に教育をするべきだったと考えたのである。このことから養母のことは好きだったが、同時に憎くもあった。さらに女性全体に対する嫌悪感も強かった。浅草の事件でも、渋谷の事件でも、新宿の刺傷事件でも、被害者は高橋よりも年上である。これらの殺傷事件は、高橋が母親を追い求めた結果にも見え、「マザコン殺人」とも言われる。

 高橋は常磐中学校を出ると、旅館の雑用をしながら定時制高校へ進む。この年の6月には帳場の金を盗んで、母がいると聞いた仙台に行こうとするが警察に補導された。その後、青森県弘前市の瀬戸物店で住み込みで働いたが、やはり店の金を盗み、上京した。だがまた補導され、当時父が住み込みで働いていた弘前の旅館で同居した。

 高橋と顔なじみのD子ちゃん(7歳)という少女がいた。旅館の近所に住む子で、11月のある日、D子ちゃんが旅館に遊びに来た。高橋はこの少女を3階の部屋に連れ込んで乱暴しようとしたが、言いつけられると困ると思って絞め殺している。D子ちゃんの遺体は押入れに隠し、現金11万円を盗んで再び東京に向かった。しかしまもなく浅草で発見され、翌年青森地裁弘前支部で懲役15年を言い渡された。青森刑務所、盛岡少年刑務所、宮城刑務所で服役した。服役中の評判は良かったという。

 1966年、仮出獄の許可が出る。すでに20代半ばとなっていた。高橋は仙台に住む養母に引き取られ、刑務所で習得した仕立ての技術で、市内の洋服店に勤めた。待望であったはずの養母との暮らしは、空白期間の長さからか、なぜかぎくしゃくした。そして周囲の反対を押し切って、上京したのである。都内でも仕立ての仕事をしたが、職場では無口で真面目な人柄だった。逮捕当時は29歳の美容師の恋人がいたという。

 1951年の築地・八宝亭事件などで活躍した捜査一課のO係長という人物がいた。高橋がD子ちゃんを殺して上京した時、O氏が彼を発見した。O氏は弘前に向かう夜行列車に同乗し、そのあいだ父子のように語り、弁当やお菓子を食べさせた。
 高橋が新宿の三光町の事件で逮捕された後、取り調べ室で久し振りに警部補となっていたO氏と対面した。最初高橋はこの男性がO氏と知らなかったが、気づくと大粒の涙を流しながら「あの時の夜行列車の弁当はうまかった」と話し始め、他の事件の自供も一気に始めた。


【告白1】

 1954年5月6日、北海道旭川市である少女が死んだ。
 幸子ちゃん(6歳)という小学1年生の女の子で、ハサミを持って駈け出してきた級友と廊下でぶつかり、医務室に運ばれたものの出血多量により死亡したのである。この出来事は「子供同士の不慮の事故」ということだった。

 この「事故」から17年後、高橋は獄中から突如「あれは自分が犯人だ」と告白するのである。

 「事件」当時、高橋は当時中学2年生だった。高橋の告白手記がある。

” この日、私は学校を休んだ。かばんを持って家を出たが休むつもりであった。学校まで20~30分かかるが、学校の近くの九条通りを13丁目まで行き、六条13丁目へ向かった。午前9時近くであった。大成小学校の玄関の前を通り、便所の横を通り、遊園地に出ようとしたのです。そのとき、便所の横を通るとき、ガラス戸から中をチラッと見たとき、おんなの子が便所に入るのが目についたので、そのとき私はすぐ殺意が起こり、玄関から便所に入りました

 向かって左側三番目の便所が少し開いており、(中略)子供は用便をおわり、ちょうど出ようとしたのです。私は左手で子供の首を板壁に押えつけ、声を出さないようにしておいて、右手にもった細身のクリ小刀で子供の左上腹部を衣服の上から一回刺したのです。1cmぐらい刺さったように思ったが実際には7cmぐらいである。すぐ抜くと同時に首の手をはなした。血は出なかったが小刀に血がべったりついていた。子供はうめき声をあげ腹をおさえ腰を落とすような格こうになり私の顔を苦しそうな目で見ていた。

 声を出すようならメチャクチャに刺して殺そうと思ったが、苦しくて声も出ないようであった、時間にして一分ぐらいであるが、様子を見ていたが、子どはフラフラしながら出口のほうへ戸をつたうようにして出て行った。私はかばんを持ち便所の出口へ向かった。

 その時、子供は出口のところに寄りかかるようにして、柱につかまっていたのが目についたが、その横を通り玄関から外へ出たのです。左に曲がり、便所の横を取ってグラウンドの端を通って、道路に出て図(地図の絵)のように歩いたのです。便所の脇で小・中学生が3、4人遊んでいたのが目についたが、私の方には気がつかないようであった。

 新聞は夕刊をみました。子供は、出口から7mぐらいはなれた玄関に近い教室の手前で、倒れていたところを発見して医務室へ運んだが、すでに意識がなく死亡したと載っていた。しかし、私を目撃したものがおらず迷宮入りとなったのです。”


 第一報によると、幸子ちゃんは1時間目の工作の時間中にトイレへ行った。担任の教諭は幸子ちゃんがいなくなったことに気づいていなかった。そしてまもなく血まみれになっているのを通りかかった6年生担当の教諭が発見した。ハサミを持った同級生とぶつかったという光景は誰にも目撃されていなかったのである。

 幸子ちゃんは暴行を受けた形跡はなく、また工作の時間中の出来事なので、子供同士の過失というのも当然考えられる。幸子ちゃんの両親は「できれば子供同士の過失事故であってくれればと願っています」と談話で述べていたが、同級生の持ち物のハサミから小さな人血の痕が認められたため、過失の方向へ落ち着いていった。子供同士の事故であるから、当事者の将来のことも考えて、この出来事についてさらに詳しく調べられることもなかった。幸子ちゃんにぶつかったとされる同級生は「人殺し」と呼ばれ続け、大人になって重いノイローゼに苦しんだと伝えられる。


【告白2】

 高橋はさらに5ヶ月後の1954年10月24日、やはり旭川市内でかおるちゃんという少女を殺害したことを、同じ手記で述べている。

” 10月下旬、多分、24日の日曜日か25、6日か、はっきり覚えていない。果物ナイフを持って旭川4の7の映画館の看板を見て歩いたが、東宝劇場の看板を見たら「七人の侍」を上映中であった。歴史物に興味があるので切符を買って入った。入口から入って左側のの席であった。

(中略)

 午後3時ごろ、帰るつもりで席を立ち、後の壁にもたれて15分ぐらい見ていたら、前席の出入口から出た子供の後を追って図説のように婦人用便所に入った。

 向かって左側の便所の戸が開いており、私が入ろうとすると、ちょうど子供が出ようとしたので、私は子供の中に突きとばし、起き上がろうとしたところを左手で首を押え、右手でズボンのポケットから果物ナイフを出して、子供の左側の首を一度刺したところギャッといって泣き出したので、もう一度刺した。さらに刺そうとしたら子供に低い声で『痛いよう』といわれ、私は我にかえり・・・

(中略)

 ・・・ナイフをズボンに納め、そのまま鳴き声を背に聞きながら歩いて玄関から出た。入口に受付嬢が一人いたようだが顔は見なかったし、相手も見ていないようだった。その足で家に帰った。すぐ風呂のストーブの火を炊いた。3時30分過ぎごろと思う。ズボンのポケットがナイフについた血でぬるぬるしていた。私自身、左手の指など3か所ぐらい切っていた。今でも苦痛にゆがんだ、おかっぱ頭の顔を思い出す。

 その日の私の服装ですが青いセーターに黒のズボン、頭は坊主であったが髪は伸びていた。この青いセーターは旅館に出入りしている生花の渡辺という先生に作ってもらったものです。数日後、精薄の12歳ぐらいの少年が調べられていたが犯人でない。

 私は情性欠如といわれる通り、顔色には出ないし、人を殺しても普通人とはなんらかわらぬ態度をしているので犯人とはわからないのです。”


 このかおるちゃん殺しでは、14歳の知的障害を持つ少年が逮捕されている。
 かおるちゃんも高橋と同じように旅館の番頭の娘であった。この日は母親と一緒に東宝劇場へ「七人の侍」を観に来たが、上映の途中で「おしっこしたい」と言いだした。母親はかおるちゃんを一人でトイレに行かせたが、場内に戻ってきたかおるちゃんは「青い服を着たおじさんに首を絞められた、痛い」と呟く。母親がかおるちゃんの首筋を触ってみると生温かい。廊下に連れ出してみると多量の出血をしていた。かおるちゃんはすぐに病院に運ばれたが、まもなく死亡した。

 この告白については、新たな事件調べのため死刑執行を伸ばそうとするデタラメのものとする見方もある。この2人の殺害方法は似ており、ともに1954年(幸子ちゃん事件の2週間前)に東京・文京区で起こった鏡子ちゃん殺人事件をモチーフにしていると見られる部分が目立つ。さらに地元で起こった事件ならば、幸子ちゃんやかおるちゃんの事件を知っており、新聞記事を熟読していた可能性が高い。高橋は当時、新聞記事を読み、そのことを強くイメージしたため、妄想の手記で詳細な記述ができたという見方も出来る。

 しかし、あるいは本当にやっていたのかもしれない。旭川がいかに北海道有数の大きな街だといっても、たてつづけに幼い少女がトイレに行った時に刺されて亡くなるというのは不自然である。幸子ちゃんと学校の廊下でぶつかったとされる同級生には返り血はついていなかったというし、小学1年生同士がぶつかって、それが致命傷となるというのは偶然が重なり過ぎている。

 大人になった高橋は都内で3つの事件を起こした。新宿の事件でヘマをして逮捕されたが、あれがなければまだまだ捜査線上には浮かんでこなかったし、また次の殺しをしていた可能性がある。すぐに捕まらなかったのは、おとなしく、目立たず、真面目なその人柄もそうだが、手記で自分が書いているとおり殺しをしても動揺せずに普段通りに過ごせる点が大きい。そんな少年が当時旭川に間違いなくいたのである。そしてその少年は2年後にも幼い女の子を手にかけていた。

 手記は真実か妄想か、真相はわからないまま、1972年8月に高橋の死刑が執行された。


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