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回想録「日本一周海岸線の旅」ダイジェスト版(No.6)松川浦から塩屋埼灯台まで
具志有芳 投稿日:2023年03月19日 17:45 No.575
長年使っていた2台目のパソコンのキーボードの反応が遅くなり、昨年9月、新製品の「Window11」に買い替えたが、操作方法が今までのとは全く異なる上、更に最近の電化製品には詳細な説明書もついておらず、私の技術不足で、メールを送ることさえも出来なくなってしまった。世間もまだまだコロナ禍が続いている為、砂岡兄を頼ることもできずに困っていたが、最近、私が買い求めた富士通で「パソコン基本操作のビギナーガイド」があることを知り、やっとのことで「放研掲示板」の投稿にたどり着くことができた。


 回想録「日本一周海岸線の旅」ダイジェスト版(No.6)
           松川浦から塩屋埼灯台まで 

2010年11月12日、今朝の相馬市の空は晴れてはいたが、わずかに白い雲がかかっていた。尾浜地区の高台に建つ岬荘の玄関先から東側を眺めると、波静かな松川浦の北側を一望することが出来た。

「松川浦」ここは南北7Km、東西1.5kmに広がる東北を代表する潟湖(せきこ)で、水深は深い所で5m程あるそうだが、干潮時には全体の70%位が干潟になるので、春から初夏にかけては潮干狩りを楽しむ人達が多く、波も穏やかなことから海藻やアサリなどの養殖にも向いているそうだ。
松川浦の青い海の左前方に松川浦大橋が見える。この橋は沿岸流によって運ばれた砂礫(されき)が堆積して形成された砂嘴(さし)によって海の一部が外海(そとうみ)と隔てられ、そこに出来た潟(かた)にかかる相馬市原釜・尾浜地区と太平洋側に突き出た磯部地区を結ぶ全長520mの吊り橋で平成7年3月に完成したそうだ。

宿を出てから車を少し北に走らせ、松川浦大橋の近くまで行ってみた。
眼下に見える松川浦漁港には錨をおろして埠頭のピット(係留柱)にロープをつないで停泊している近海漁業の漁船と思われる船と、すでに魚の陸揚げを済ませた船が何隻か岸壁に横付けされていた。

松川浦大橋を渡り、延長141mの「鵜の尾岬トンネル」を抜けると急に視界が広がり、前方の磯部地区の海には沢山の「海苔柵」を見ることができたが、一般的な乾海苔に使える“海苔”の生産は低調で、ここでは“たこ焼き”や“お好み焼”“やきそば”などのトッピングに使われる“アオサ”と呼ばれる「青海苔」が主に採れるそうだ。

右側の防風林の松が植えられている美しい松川浦の湖岸と左側の太平洋の青い海原に挟まれて、南に向かってまっすぐに伸びる「大洲松川線」の南北7Kmに及ぶ海岸道路を車は松川浦の南端、磯部港までをあっという間に走り抜けた。

磯部港を過ぎ、国道6号線をしばらく走ると、前方に一面を黄色に染めた大きなひまわり畑が見えてきた。ひまわりの花の季節は7月中旬から9月頃が一般的だが、ここでは、今の季節でも花びらは少し散って、少なくはなっており、花の中心部にある種子は少し濃茶色に変わってはいたが、ひまわりの花の数はほとんど変わらず、東北の片田舎の町、相馬を訪れる旅人の目を結構、楽しませてくれた。
ひまわりはキク科の一年草で、古くはインカ文明の頃から太陽の神“インティ”のシンボルとして崇(あが)められてきたそうだ。

広大なひまわり畑を過ぎ、車はやがて、のんびりとした田園地帯に入った。この辺りは、相馬市の“手の沢のため池”をはじめとして多くの“ため池”があり、稲を刈り取った田圃には餌をついばむ白鳥の姿が多く見られた。この頃、飛来してくる白鳥は落ち穂、または二番穂(刈り取った稲から、再び新しい芽が出て実がついたもの)を食べているらしい。
一週間程前、日本海沿いの東北道(国道7号線)を新発田市から秋田に向かう途中、胎内市付近の田園地帯で見た白鳥の姿とまったく同じように、大変のどかな美しい風景だった。

国道6号線を更に南に走り、双葉町の原子力発電所を過ぎ、JR草野駅から福島県道15号線に入り、いわき市の塩屋埼灯台に向かった。

塩屋埼灯台は福島県いわき市、波立海岸と小名浜港の中間地点に位置する薄磯海岸の海抜73mの断崖絶壁に明治32年(1899年)に立てられた白亜の灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれ、全国に16しかない「のぼれる灯台」の一つでもあるそうだ。

岸壁の岩肌を切り崩して作られた駐車場から200メートル位、つま先上がりの細くて長い階段状の坂道を上がると鉄柵で囲まれた白亜の灯台の入り口に着いた。
300円の入館料を払い、館内に入ると目の前に103段の急な“らせん階段”が待っていた。最上階まで登り詰めると、灯台の心臓部、分厚い大きな照明レンズが、目には危険な程、まぶしい光りを出す灯火を挟んで左右対象に二面、きれいに磨きあげられた、大きなガラス窓に囲まれた真ん中、1.8m位の高さの所に鎮座していた。レンズは30秒をかけて、ひとまわりするそうだ。ここは「灯室」と呼ぶらしい。光りの明るさは100万カンデラ(100万燭光)。光りの届く距離が220海里(1海里が1.852キロメートルだそうで、約40キロメートル)だそうだ。

「灯室」を見学した後、展望回廊に出てみた。太平洋を渡って吹いてくる秋の潮風が頬にあたり、少しつめたい感じがした。この鉄柵で囲まれた狭い空間を灯台関係者は「踊り場」と呼ぶそうだ。
塩屋埼灯台は塔高が27メートル。海面から展望台までの高さが100メートル程あるので、正直、少し足はすくむが、ここから見る眺望は本当に素晴らしかった。

塩屋埼には二つの物語がある。その一つは海を守る“灯台守”をモチーフにして作られた映画である。
松竹が1957年(昭和32.年)に公開した「喜びも悲しみも幾歳月」(よろこびも かなしみも いくとしつき)だ。監督は木下惠介。塩屋埼灯台などで灯台守を務めた田中績(たなか いさお)さん夫婦が主人公のモデルで、映画化されたきっかけは、当時、福島県塩屋崎灯台長だった田中績さんの妻として、幾多の苦難の道をのりこしてきた“きよさん”が、購読していた婦人雑誌に投稿した手記「海を守る夫と ともに20年」が1956年に婦人倶楽部(講談社出版)に掲載され、灯台守の妻として生活の悲喜交交(ひきこもごも)を書き綴った内容が木下監督の目に留まり、心うたれ、「喜びも悲しみも幾年月」と題して映画化されたそうだ。
この作品は、海の安全を守るため、日本各地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送った“灯台守夫婦”の戦時中から戦後にかけての20年間を描いた長編ドラマで、出演者は佐田啓二、高峰秀子が主演で、この作品のロケ地となっていたのは観音崎灯台が多かったそうだが、木下惠介監督自身が脚本を執筆したカラー映像で、主人公が赴任した日本各地の美しい風景を映した大作で、公開当時、大ヒット作品となり、同年の芸術賞を受賞したそうだ。

「俺(おい)ら岬の 灯台守は 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って灯(ひ)をかざす 灯をかざす」で始まる「喜びも悲しみも幾歳月」の歌詞。
若山 彰の歌唱による同名主題歌の「喜びも悲しみも幾歳月」も大ヒットしたが、作詞・作曲は木下監督の実弟の作曲家、木下 忠司 氏が担当したそうだ。

主人公の田中績さん夫婦は、樺太の海馬島灯台、北海道の宗谷岬灯台、岩手県の魹ヶ崎(とどがさき)灯台、長崎県五島の女島(めしま)灯台、宮崎県の都井岬灯台。いくつもの灯台で灯台守として勤務したそうで、塩屋埼灯台に在籍したのは2年程だったそうだが、千葉県の勝浦灯台を最後に、引退した後は、夏は涼しく、冬は温暖な気候の塩屋埼が気に入り、灯台の近くに移り住んで、終(つい)の棲家(すみか)にしたそうだ。

そして二つ目の物語は1987年(昭和62年)12月、日本コロンビアから発売された、作詞 星野哲郎、作曲 船村徹、美空ひばり歌唱による「みだれ髪」。この曲は大病で長期入院していた美空ひばりの復活第一作目で福島県いわき市塩屋埼が舞台となった。
 
髪のみだれに 手をやれば 赤い蹴出(けだ)しが 風に舞う 憎や 恋しや 塩屋の岬
投げて届かぬ 想いの糸が 胸にからんで 涙をしぼる

すてたお方の しあわせを 祈る女の 性(さが)かなし 辛(つ)らや 重たや 
わが恋ながら 沖の瀬をゆく 底曳(そこび)き網(あみ)の 舟にのせたい
この片情(かたなさ)け

春は二重(ふたえ)に 巻いた帯 三重(みえ)に巻いても 余(あま)る秋
暗(くら)や 涯てなや 塩屋の岬 見えぬ心を 照らしておくれ 一人ぼっちに 
しないでおくれ

この名曲が東北地方の最東南端に位置し、雄大な太平洋に面し、一年を通じて温暖な気候に包まれた太陽と海の恵みあふれる福島県いわき市をすっかり有名にしてしまった。

灯台を出てから広い駐車場に戻り、改めて西の空に高くそびえ立つ塩屋埼灯台を仰ぎ見ると、その白亜の塔の背中には、白砂青松の景勝地、青く輝く薄磯海岸に幾重(いくえ)にも広がり、打ち寄せては崩れ落ちる、白く大きな波がしらの、大自然が織りなす素晴らしい景観を眺めることができた。

そして、青く広がる太平洋を眺めることができる駐車場には「喜びも悲しみも幾年月」の作詞、作曲をした木下忠司氏の歌碑と「みだれ髪」の作詞をした星野哲郎氏の詩、そして作曲をした船村徹氏の美しいメロディーが刻まれた、御影石で作られた二つの歌碑が深秋の陽ざしを浴びて、ひっそりと佇(たた)ずんでいた。


  上段の写真  松川浦の「海苔棚」

  中断の写真  薄磯海岸

  下段の写真 「みだれ髪」歌詞とメロディーの歌碑

  

    


回想録 砂岡茂明 投稿日:2023年03月19日 19:49 No.576
具志有芳さん、パソコン使いこなせるようになって本当に良かったです。
どんどん投稿して下さい。

喜びも悲しみも幾歳月の舞台となった佐渡北端の弾崎(土師器)灯台には
同期で2002年に訪れました。




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